EP 7
酒と煙草の夜。鬼神とのサシ飲み
ポポロ村の路地裏にひっそりと佇む店、『鬼龍』。
昼の小料理屋としての顔から一転、夜は深い静寂を纏ったBARへとその姿を変える。
薄暗い店内には、ショパンの『夜想曲 第20番 遺作』が静かに流れていた。
ピアノの哀愁を帯びた旋律が、紫煙のくすぶる空間に溶け込んでいく。
カラン……。
真一がカウベルのついた重い扉を開けて足を踏み入れると、カウンターの奥でグラスを磨いていた龍魔呂が、静かに視線を向けた。
「……来たか、オッサン」
「ああ。邪魔するぞ」
真一はカウンターの特等席に腰を下ろし、ふう、と息をついた。
日中の野盗騒ぎの後も、きっちりと農作業のノルマをこなしてきた肉体には、心地よい疲労感が宿っている。
「酒とツマミは、こちらから提供させてもらうと言ったな」
真一は『酒保』のスキルを密かに起動し、カウンターの上にドン、ドンといくつかのお宝を並べた。
海上自衛隊のPX(売店)でも限られた者しか手に入れられない、国産の最高級ピュアモルト・ウイスキー。そして、酒保から引き出した『牡蠣の燻製オイル漬け』と『特製コンビーフ』の缶詰だ。
「……ほう。見たこともない酒と保存食だな。匂いだけで、上等な代物だと分かる」
龍魔呂の目の奥に、料理人としての鋭い光が宿った。
「こいつを、あんたの腕で美味くしてやってくれ」
「……悪くない。少し待ってな」
龍魔呂は缶詰を受け取ると、カスタム・レザーナイフロールから一本の包丁を抜き放った。
仕上砥(#8000)で鏡面のように磨き上げられた、本焼きのペティナイフ。
その刃先がまな板の上を滑るたび、一切の抵抗もなく食材が形を変えていく。
コンビーフは表面をバーナーで軽く炙られ、粗挽きの黒胡椒と微かな香草を散らされる。牡蠣の燻製は、村で採れた柑橘系の果汁を数滴垂らし、美しく盛り付けられた。
ただの缶詰が、龍魔呂の圧倒的な包丁捌きとセンスによって、一瞬にして極上のBARメニューへと昇華したのだ。
「すげえ腕だ。……見事な手際だな」
出された皿を前に、真一は感嘆の声を漏らした。
真一は、ロックグラスに注がれた琥珀色のウイスキーを傾けた。氷がカランと心地よい音を立てる。
ピートの効いた重厚な香りと、燻製牡蠣の旨味が口の中で爆発し、真一は思わず目を閉じてその余韻を味わった。
「美味い。……生きてて良かったと思える味だ」
真一はそう言うと、作業着の上着を脱ぎ、少し暑さを逃がすようにシャツのボタンをいくつか外した。
その瞬間――薄手のシャツ越しに、真一の背中に彫り込まれた『阿吽の仁王像』の刺青が、店の薄明かりの中に生々しく浮かび上がった。
龍魔呂はグラスを拭く手を止め、その背中をじっと見つめた。
昼間の喫煙所で感じた底知れなさの正体が、腑に落ちた瞬間だった。
「……あんた、そっちの(裏の)世界の人間か?」
龍魔呂がふっと笑いながら尋ねる。
真一はウイスキーを喉に流し込み、苦笑混じりに息を吐いた。
「昔の話だ。若気の至りというやつでな。今はただの、しがない船乗り……いや、非正規の農夫さ」
「違いない」
龍魔呂も自身のグラスにウイスキーを注ぎ、マルボロ赤に火を点けた。
真一もハイライトを取り出し、マッチブックで火を点ける。
二つの異なる紫煙が、ノクターンの調べに乗って空中で絡み合った。
「……俺には、帰る場所がある」
真一が、ふと独り言のように口を開いた。
「故郷の広島にな。妻の恵と、苺ミルク飴が大好きな5歳の娘が待っている。引退したら、あいつらと一緒に小さなカレー屋を開くのが、俺の夢だ」
真一の横顔は、修羅場を潜り抜けてきた将官のものではなく、どこにでもいるただの父親の顔だった。
だからこそ、彼がその腕と剣で「守り抜いてきたもの」の重さが、龍魔呂には痛いほどに伝わった。
「……あんたは、どうだ?」
真一の問いかけに、龍魔呂はふっと目を伏せた。
彼の脳裏に、奪われた弟・ユウの小さな手がよぎる。龍魔呂がこの世界にやってきた理由。それは決して、前を向いて生き直すためではない。過去を改竄し、弟が死んだという歴史そのものを破壊するためだ。
龍魔呂は深くタバコの煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「……俺は、失ったものを取り戻す。そのためなら、神でも悪魔でも斬り捨てる。それだけだ」
静かだが、絶対的な狂気と悲哀を孕んだ声。
真一はそれ以上、深くは踏み込まなかった。ただ、ロックグラスをそっと持ち上げ、龍魔呂のグラスにカチンと軽く合わせた。
「……そうか。なら、その時が来るまでは、美味い酒とメシで英気を養っておくことだな」
「ああ。……あんたの酒保でな」
二人の男は小さく笑い合い、再びウイスキーを喉に流し込んだ。
言葉は多くはいらない。背負う過去と目的は違えど、それぞれの「守るべきもの」のために命を懸ける覚悟は同じだ。
異世界の静寂な夜。
ポポロ村の路地裏で、最強の海将と伝説の鬼神は、ただ静かにグラスを傾け続けていた。




