第五章 撤退
短期に決戦できないとわかった時点で、攻撃の主目標を上陸予定地点の砲台や艦戦ではなく、戦闘機の生産拠点に移すべきだという意見がドイツ軍に少なからず現れた。戦略的に妥当ではあるが、工場のある内陸まで攻め込めばそれだけ迎撃を受けるから、こちらの被害も増す危険が高い。そもそも戦闘機工場の位置が容易に判明しない。ならば、沿岸をたたき、速やかに上陸作戦を実施できるようにした方が確実だ。ゲーリングは基本方針を変えなかった。
それに、部下には漏らしていないが、総統に攻撃期間を限定されているのだ。じっくりと敵の戦力を削ぐ作戦など取れない。
それでも、防御に回ったイギリスの方が分は悪い。沿岸施設に少しでも隙が生ずれば、そこからドイツ軍は一気に上陸できるだろう。いったん上陸すれば、強力なドイツ機甲部隊はイギリス陸軍を蹴散らして進撃するだろう。
イギリス軍の防空に重要な役割を果たすのがレーダーだ。イギリス空軍は不足しがちな戦闘機を的確に敵機に向かわせなければならない。早期に敵を察知するレーダーは、まさにイギリスの命綱であった。
ドイツ軍も数度攻撃を繰り返すと、確実に迎撃されるのはレーダーの威力だと気づくから、レーダー施設が重要な攻撃目標に加わる。
当然、イギリス軍はレーダー施設の防御を厚くする。天候が良くなれば必ずといっていいほど繰り返し襲いかかってくるドイツ機を迎撃し、空襲で破損したアンテナは突貫工事で修復する。
破壊と建設の競争なら、破壊する方が容易だ。にもかかわらず、イギリス人は黙々と建設を続けていく。ただやられているだけではない。スピットファイヤは時々、強力な反撃を繰り出す。
一進一退の攻防戦は我慢比べの様相を呈する。ただ、この我慢比べは競り合うたびに人命が失われていく。
養成が不十分で補充されるたびに能力が落ちていくとはいえ、パイロットがそれなりに補充されるなら、まだ戦いようもある。しかし、パイロットや機体の補充が不可能な零戦隊は死傷者が出るたびに部隊が縮小していき、編成替えを余儀なくされる。
一一月の末にはそれも限界に近づいていた。二機を最小単位とするドイツ式の単純な編成なのに、生き残った者では編隊の構成すら困難になってきたのだ。
やむを得ず、佐藤大尉は岩井を僚機とした。代わって、これまで佐藤の三番機だった小八重を小隊長とした。
「自分は小隊長から格下げですか」
むくれる岩井に佐藤が答える。
「貴様の派手な機動に付いて行ける搭乗員がいないんだ。」
岩井の個人プレー癖は直りきっていない。戦死者が相次ぎ戦力が低下している現在、岩井の独走をフォローできる位の技量があるパイロットなら長機に回したい。かといって、ほどほどのパイロットを岩井の僚機にすると空戦が激しくなったときには置いてきぼりにされて、狙い撃ちにされかねない。
こうなると操縦技量が高すぎるのも痛し痒しだ。佐藤の再三の叱責にも岩井は応えた風はない。もっとも、簡単に従順となるくらいでは負けん気の強さが必須の戦闘機パイロットは勤まらない、ともいえるが。
「俺の後ろで大人しくしてろ、いいな。」
佐藤の『返事は?』とでも続けかねない、子供に言い聞かせるような口調に岩井は憮然となった。
一二月一日
ヒトラーがゲーリングに与えたイギリス攻撃の期限は過ぎようとしている。
この日、気象官は早朝から晴天と予想していた。冬の英仏海峡は天候が小刻みに変化し晴天が少ない。あてにならない天気予報ながら、空襲が可能な気象はこれが最後かもしれない。ゲーリングは動員しうる空軍兵力のすべてを投入する攻撃を命じた。
何がなんでも敵を殲滅せよとのゲーリングからの命令を受け取ったガラントは、困惑しながらも旗下の部隊に全力出撃のための指示を細々と与えた。
『これはいつもと様子が違う』。ただごとでない状況は末端まで伝わり、その雰囲気がパイロット達を奮起させる。
ドーバーのレーダーサイトでは誤作動かと思うほどの数を感知したブラウン管に、うら若い女性オペレーターがパニックを起こしかける。
スランモアの戦闘機群団司令部では司令官、ダウディング大将が電話機に怒鳴る。相手は第一二飛行群指令、マロリー少将だ。
「直ちに全部隊を発信させろ。そうだ、全力出撃だ」
敵機の数に応じて最低限の機数で迎撃するダウディングの方針に、マロリーは相変わらず異を唱えている。
ダウディングのいらだちは限界に達していた。いつ終わるか分からない防衛戦で一時に戦力を吐き出すわけにはいかない、細く長く戦わなければならないことが何故分からないのだ?
しかし、相手が大部隊を繰り出してくれば、こちらも全力で迎撃せざるを得ない。迎撃方法の違いなど言ってられないのだ。
「貴様が好きな大編隊(ビッグウイング)だ。」
紳士たることを徹底されているイギリス空軍の将官にあるまじき怒声をあげながら、ダウディングは困惑していた。何故このタイミングでドイツ軍は大攻勢にうってくるのだ?
さしものダウディングも、独裁者の常識外れの戦略と、それに引きずられたお調子者の司令官が追い詰められて大博打に出たための攻撃だとは看破できなかった。
ドイツ軍に勝算はある。ようやく数がそろった新型のBf-一〇九F型は航続距離が伸びているから空戦時間が長くなる。もう帰りの燃料を気にしながら空戦する苦しい思いはしなくてよいのだ。援護される爆撃機の飛行もその分だけ楽になるはずだ。速度や安定性も向上しているから、空戦も有利なはずだ。
戦闘が始まると、その楽観的な予想は裏切られた。高性能機で優位に空戦を進めるつもりであったドイツ空軍は予想以上の抵抗にあったのだ。Bf-一〇九は撃墜できるはずのタイミングでスピットファイヤに逃げられる。逆に、振り切れるはずの局面で銃撃を喰らう。
だが、Bf-一〇九とてやられっぱなしではない。高速を生かして逃げる、あるいは一撃離脱を仕掛ける。
両機の性能は互角といえよう。必然的に乱戦となった。
編隊は欠き乱れ、援護すべき味方機を見失い、個別の空戦が繰り広げられる。なまじ繰り出した機数が多いと、会敵の機会が増すから適当なところで戦闘を切り上げられなくなる。濃密な戦闘空間から両軍の戦闘機は次々に被弾、墜落していく。
零戦隊も苦闘する。
「だめだ、どうやっても振り切れない」
田所は観念した。小回りが利く零式はスピットファイヤを振り切ったはずなのに、敵機は旋回半径が大きくなっても高速を利用してそのまま強引に回り込んで追いついてくる。もう何度、回避運動を取ったろう。ロール、ダイブ、しつこく追いすがる敵機はその度に間合いを詰めてくる。高速で抵抗の大きくなった操縦桿を握る手がしびれてくる。
強い刺激臭にむせ、視界もぼやけてきた。被弾したのか、どこからかガソリンが漏れているのだ。このままエンジン全開で飛び続ければいつ火を噴くか分からない。
もうダメだと思ったとき、田所はガランド少佐が冗談交じりに語っていた戦法を思い出した。
田所は旋回をやめ、機を水平飛行させた。真後ろから敵機が迫るのを確認して全門を一斉発射する。
真後ろからだと機銃の排気煙はあたかも後方に発射されたように見える。こちらの武装を熟知していないパイロットなら、後に機銃があったのかと動揺して離脱する。地上で聞くとあり得ないような話だが、戦闘の緊張で思考力が落ちている状態――いわゆるパイロットの六割頭ならあり得る。しかし、敵が冷静なら見破られて絶好の射撃位置から銃弾を浴びせられる。
零戦が発射した機銃の排気の黒煙が敵機に流れていくと、スピットファイヤはは慌ててダイブして離脱していく。危険な最後の賭けは成功した。
「助かった」
べっとりと汗をかいた両手が気持ち悪い。ガソリン臭さに吐き気もする。気がつけば周囲に味方はいない。逃げ回っているうちに思いもよらぬほどの距離を移動し、戦闘空域を外れたらしい。不安になっていくら見渡しても零式や味方機はいない。
今日の敵機は明らかに性能が向上している。またしても新型機が登場したのだ。損傷した機体でこれ以上空戦を続けるのは無理だ。
まさしく、それは新型のスピットファイヤMk.Ⅴであった。外観はほとんど変わらないがエンジンをマーリン四五に換装して最高速度を五九八キロ(高度五九七八メートルにて)に引き上げたスピットファイヤの本命といえる機体である。
「やつらにはこの機体では勝てない。」
逃げるべき時に逃げるのは決して卑怯ではない。たとえ任務を果たし得なくても、無謀に戦って犬死にする方が自軍に与える損失は大きい。守るべき爆撃機を見失ってもいる。ここは帰還すべきだ。
そこまで考えて、田所は苦笑した。
何が何でも生還するべく努力するのはドイツ人の思考だ。日本人は潔く自爆するのを美徳とする傾向がある。欧州で戦ううちに、それほど親しく接したつもりはなくてもドイツ流に染まっているのだ。
田所は機首を南に向けた。機位を見失ってはいても、南に飛べばフランスだ。そこから海岸線沿いに飛行すればどこかの基地にはたどり着ける。スロットルを絞ってまっすぐ飛ぶのなら、何とか発火せずに飛べるだろう。燃料もまだある。田所はこのときほど戦域の狭さを有り難いと思ったことはない。
同じころ、ダグラス・バーターは忘れもしない宿敵を見つけた。垂直尾翼にEⅡ-一一一の赤い区別文字、その上一本、下に二本の白の識別帯をつけた機体。最初の空戦でインメルマンターンを見せつけて僚機を撃墜していった奴、世界で最も優れていると自負するイギリス人のプライドを傷つけた許し難い日本人が操縦する零戦がいた。
バーターはスロットルを全開にして岩井機に迫る。岩井が避けても更に追いかける。その機動には無駄がなく、相手の心理を先読みする鋭さがある。バーターの技量を見抜いた佐藤は岩井に呼びかける。
「岩井、そいつは手強いぞ。無駄な戦闘は避けろ」
「逃げたくても逃がしてくれないようです」
そのスピットファイヤは明らかに岩井の零戦のみを指向している。
「なに、しつこく追いかけてくるのなら格闘戦に持ち込める。いけますよ。」
「馬鹿、やめろ」
相手はそれが分かっているにあえて向かってくる。勝算があるに違いない。
とはいえ、敵は強いから逃げろと言われれば、逆に敵愾心を燃やすのが戦闘機パイロットだ。岩井にも勝算はある。旋回性能は零式の方が勝っているのだ。操縦技量の勝負なら相手が誰だろうが負けはしない。
だが、最高速度に六〇キロもの差が付けば、いくら小回りを利かしても射程に捉えるなど至難の業だ。パイロットの技量が勝っていれば、まだ何とかなるかもしれないが、相手はイギリス空軍を代表するエースだ。
岩井機は簡単に後に取り付かれる。旋回で振り切っても、高速のスピットファイヤはたちまち岩井機の後方にまた回り込んでくる。あっという間に接近してきたスピットファイヤから正確な射撃が打ち込まれる。
ガンガンと衝撃が来る。二~三発被弾したようだが確認する余裕はない。操縦に違和感はない。大丈夫、まだ飛べる。しかし、このままでは次の攻撃で致命傷を受けるのは明らかだ。
こうなれば一か八かだ。岩井はエンジンをしぼりフラップを一杯に開く。たちまち失速ギリギリまで速度が落ちる。
捨て身の戦法は図に当たった。零戦の急激な減速にエンジン全開で飛行していたスピットファイヤは対応しきれず、すっと降下した零戦を追い越した。
『勝った』
岩井はほくそ笑んだ。絶好の射撃位置にスピットファイヤは飛び込んできたのだ。すかさずエンジン全開、照準機一杯に広がった機体に向けて二〇ミリを撃つ。
だが、岩井機の必殺の一撃は空を切った。バーターは慌てることなく、そのままダイブして加速、零戦を振り切ったのだ。
「Mk.Ⅰなら、ここでエンジンが息をついてやられるところだがな」
気化器を改修したエンジンに換装し、100オクタンのガソリンを使用した新型スピットファイヤに、もはや昔日の弱点はない。
岩井機を充分に引き離したバーター機は反転してまた回り込んでくる。
『だめだ、やられる』
岩井は進退窮まった。ギリギリまで速度を落としたから今度こそ逃げきれない。しかも、見れば自機の主翼は大穴が開いている。これでは急激な機動を打てば機体が分解してしまう。
頭が真っ白になる。スピットファイヤは既に真後ろだ。自分が撃たれようとしているが分かっているのに、どうしていいか分からない。
正面、やや上から銃撃しながらダイブしてくる派手な迷彩の零戦が見える。佐藤の零戦がバーターのスピットファイヤに突っ込んでいくのだ。
「邪魔するな!」
もう少しで宿敵を仕留められるところを邪魔されたバーターは激昂して佐藤機に向かう。
正面からの撃ち合いではスピットファイヤに歩がある。零戦の二〇ミリ機銃は弾道が悪いのでよほどの至近距離でなければ、正面の敵にはまず命中しない。スピットファイヤのイスパノ二〇ミリの方が低進弾道性に優れている。もっとも、こちらも戦闘機同士の撃ち合いに向いているとは云いがたいが。
撃ち合いなら七.七ミリ機銃の方があてになる。この場合、零戦が七.七ミリ機銃を二丁装備しているのに対して、スピットファイヤⅤは四丁装備。しかも零戦は防弾が皆無。
ほぼ同時に両機は射撃を開始した。スピットファイヤも被弾するものの、明らかに零戦の方が多く被弾していく。
「隊長!」
「逃げるべき時は逃げるんだよ。だから慎重になれ、って教えたんだがな」
佐藤機は火を噴き、紙くずのようにひらひらと燃え落ちていく。
「隊長、それが分かってる人が、何でこんな無茶をするんです」
聞かなくても分かっている。自分を逃がすためにあえて勝ち目のない空戦を仕掛けたのだ。
佐藤からの返事はなかった。海面に激突した機体は水柱とともに軽量合金の破片と炎を飛び散らした。やがて残骸は濃紺の海に沈み、炎は燃え尽きた。
この日、欧州派遣軍の被害は大きかった。被撃墜数四五、その中には二人の飛行隊長が含まれている。
下川大尉の最期を見た者はいない。乱戦で散り散りになり、誰もが自分を守るのが精一杯となり、空戦が終わって気がつけばいなくなっていた。それほど激しい空戦であった。
同じように帰って来ない零戦が何機もある。カレーのドイツ空軍基地では、滑走路脇で帰りを待ち続ける搭乗員と整備員たちの前で、非情にも誘導灯が消されていく。
もう少し待ってくれ、との抗議は静かに却下された。既に零戦の航続時間を過ぎている。冬の早い日暮れに基地が攻撃される危険を冒してまで、時間いっぱい誘導灯を灯し続けたのは、基地司令ガランドにとって精一杯の妥協だ。
イギリス戦闘機部隊には、しばらくは攻撃に転じられないだけの被害を与えたはずだが、こちらの損害も大きい。よもやとは思うが、いまイギリス軍が攻撃してきたら迎撃しきれない。
翌日、ロンドンの戦時内閣執務室でのダウディングの戦況報告は、ガラントが考えた以上にイギリス空軍の悲惨な状況を示していた。
「スピットファイヤの残存機数は四七機です。旧式の戦闘機はまだありますが、デファイアントなど出してもドイツの新型機の的になるだけです。次に敵が攻勢をかけてきたら防ぎきれません。
偵察機の観測によればフランスのルアーブル、ダンケルクに上陸用舟艇が多数停泊しています。天候が悪ければ攻撃してこないでしょうが、気象予報によると、この季節では滅多にないほどの晴天が二・三日続くとのことです。
我々は運にも見放されたようです。遺憾ながらブリテン島北部への後退を進言します。」
重苦しい雰囲気の会議室でチャーチルが口を開く。
「我が軍の迎撃機が枯渇したことを、敵は察知していると思うかね」
「本日早朝よりしきりに偵察機が飛来することからして、敵は我々の状況を知りたがっていると考えられます。しかし、昨日の戦闘でこちらが大きな被害を受けていることは判明しているでしょうから、再攻撃は時間の問題でしょう。」
「いや、敵も大被害を受けて戦力に余裕がないから我々の様子を知りたがっているのだ。そうでなければ今頃はルアーブルの上陸部隊がこちらに向かっているだろう。諦めるな、まだ希望はある。
偵察機は必ず撃墜しろ。敵にこちらの状況を気づかせてはならない。」
この時ばかりはダウディングもチャーチルの楽観論に励まされた。そうだ、まだ負けたわけではない。最後まで戦い続けるのだ。
作業員の献身、イギリス流の堅牢な鉄塔建築と優秀な精密機器は、ここまで追い詰められた状況でもドーバーのレーダーサイトを稼働させていた。残存機を集中させれば少数で飛来する偵察機の迎撃は可能だ。
ベルリンの総統官邸ではゲーリングが吠えていた。
「今度こそイギリス空軍の兵力は殲滅しました。今こそ上陸作戦を開始すべきです。」
海軍総司令官エーリヒ・レーダーは冷ややかにゲーリングを見つめる。
「空軍はそう考えておられるのかもしれないが、海軍が放った偵察機はことごとく撃墜されております。国家元帥の今度の情報は確かですかな。」
レーダーは『今度の』にアクセントをつけた。露骨に『あんたの言うことは当てにならない』と言っているようなもので、会議室に失笑が広がる。
それを受けたゲーリングはさらに興奮する。
「昨日の戦闘報告は見たでしょう。初戦に勝るとも劣らぬ大戦果だ。イギリス軍にもう余力はない。ここで一気に責め立てれば、イギリス占領は確実だ。」
確かに戦果は大きいと報告されている。だが、こちらの損害も甚大で、そうした乱戦での戦果報告は大きくふくらみがちだ。イギリス空軍を壊滅させたとのゲーリングの判断は楽観的すぎるとレーダーは判断している。
「豚がオオカミ少年のようなことを」
小声のつぶやきだが聞こえたようだ。肥大した肉体から湯気が立ちそうなほどゲーリングは激昂した。
「いま、何と言った」
レーダーは穏やかに答える。
「小官はまだ上陸作戦を実施すべきでないと判断します。」
それからはゲーリングの怒声とレーダーのすまし声の応酬となった。ゲーリングがいかに食い下がっっても、レーダーは頑として上陸作戦開始を受け入れない。
以前からレーダーはゲーリングを憎んでいる。
元々陸軍国のドイツは海軍力が弱い。イギリスとの開戦が予想されるなか、強力なイギリス海軍と戦うには海軍の拡充が必要だ。特に空母が一隻もないのは心許ない。ヒトラー総統もレーダーの主張を認め、大型空母「グラーフチェッペリン」の建造は急ピッチで進められた。
ところがこれにゲーリングが横槍を入れてきた。何のかの理屈をこねてはいたが、空母が就役すれば航空兵力を海軍が持つことになり、その分だけ空軍の勢力が弱まる事態を恐れての反対であると、海軍の目から見れば明白であった。
ゲーリングが自分の権勢を保持しようとした結果、「グラーフチェッペリン」は未完成のまま、むなしく艦体を朽ちさせている。もし完成してイギリス攻撃に参加できていれば大西洋側からの航空攻撃も可能となり、ドイツ軍は有利に作戦を展開できたであろう。
レーダーはその暗い怒りのあまり、ゲーリングだけでなく空軍への不信感を募らせている。イギリス沿岸部の偵察は空軍を当てにせず、海軍が保有する水上機を使うほどだ。
動きの鈍い水上機では、新鋭のスピットファイヤに補足されれば逃げ切るのは至難の業だ。結果、その偵察は敵情を過大に報告することになる。レーダーはゲーリングとは反対に、イギリス軍の戦力を過剰評価していた。
二人の言い争いは平行線のまま続いていく。最後はヒトラーの裁定で決着した。
『イギリス上陸作戦は実施しない。』
そして、ドイツ軍はイギリス占領の機会を失った。
その晩のゲーリング国家元帥の荒れようは酷かった。ブランデーをあおり、引きつった目で周囲を罵倒した。あまりの剣幕に取り巻き達が逃げ出しても、一人でわめき散らしていた。
「もう一押しでイギリスを占領できるのに。こうなったのは誰のせいだ」
身体以上に肥大したゲーリングの自尊心は失敗を誰かのせいにせずにはいられない。
「メッサーシュミットが新型機の開発に手間取ったからだ。いや、それを使うパイロットがヘボぞろい。それより指揮官が悪い、私に逆らってばかりのガラントが無能なのだ。」
ゲーリングはブランデーを飲み干した。注いでくれる者が誰もいなくなったので、自分でなみなみとブランデーをグラスに注いだ。
「そうではないな。最大の計算違いは日本人どもだ。あいつらが酒ばかり飲んでまともに働かないからイギリス機に逃げられたのだ。そうだ、あの劣等人種どもがドイツ空軍の栄光を汚したのだ。」
納得がいく理由に思い至ると思考がループし、詮ない思考が回転する度に憎悪が増幅する。
「あいつらを当てにし、一時とはいえ戦闘機を日本製にしようとまで考えたとは何たる不覚。いや、劣等人種どもの狡猾さに乗せられたのだ。悪いのは日本人だ。あんな寄生虫どもは早く追い出してしまえ。」
カレーの欧州派遣軍では戦闘報告がまとまった。零式戦闘機、残存二四機、稼働二〇機。被害に呆然とする源田司令に、奥宮副長は無言で電文を渡した。|連合艦隊(GF)司令部から在独武官を経由しての暗号電文をたった今、平文に組み直したものだ。
『速やかに帰国せよ』
日本政府は当初の約束どおりに石油の支援を履行しようとしないドイツにさすがに不信感を抱き、海軍はイギリスを占領できないドイツ軍に苛立っていた。のらりくらりと、もうすぐ状況が好転すると繰り返すうえに、日本機の働きが不十分であるとでも言いたげなドイツの返答にいつ拒絶を突き返すか。その政治的駆け引きが、このタイミングでの欧州派遣軍引き上げとなった。
暗号とはいえ、電文にそういった事情を書くことはない。軍人は政治にかかわらない原則を墨守する一本気な奥宮には理解しかねる命令だが、政治の何たるかを知る源田にはその意味が分かった。
日本は対米戦に踏み切る決断を下したのだ。ドイツからの支援に見切りをつけ、アメリカと全面戦争になっても東南アジアの資源を確保する。いや、むしろアメリカに先制攻撃をかける。そのために貴重な航空兵力は一刻も早く呼び戻す。
「『了解』と返信してくれ」
「司令、ここで引き下がるんですか。もう少しでイギリスを屈服できるというのに。」
奥宮の軍人としての意地は、ある意味、事態を正確に見抜いてもいた。新型機を投入したとはいえ、イギリス空軍にもう余力はないはずだ。もう何度か大きな戦闘が起これば、完全にオーバーワークのパイロットは空戦で撃墜されるより、過労で倒れるかもしれない。
ドイツ空軍もやはり苦しいが、イギリス空軍に比べればまだ余裕があるはずだ。欧州派遣軍も大きな被害を受けているが零戦の汎用性はまだまだ有用で、ドイツの勝利に貢献できる。
もう一押しだ。飛行隊長を二人とも失ったのは痛手だが、最後の決戦となれば、自身が優れた戦闘機パイロットである源田司令が自ら空中指揮を取ることもできよう。
そもそも、ここで引き下がっては今までの戦闘は何だったのだ。
だが、源田の決意は変わらない。
「このままでは自滅する。撤退だ。我々には祖国で次の戦いが待っている。」
奥宮はそれ以上抗弁しなかった。何にしても本国からの命令が出ているのだ。せめて、もう二日早く命令が届いていれば昨日の戦死者は生きていたのに、と思っても詮ないことだ。
激昂した汗が冷えると急に寒さが押し寄せてくる。ヨーロッパの冬は日本人には厳しい。灰色一色の景色が心まで冷やしていくようだ。
奥宮は隊員たちの詰め所に向かった。嫌なことを部下に伝えるのも副長の役目だ。
判断を下した後の源田の行動は素早かった。その日のうちに帰国の準備が始められた。
いちばんの大荷物である零式艦戦はドイツに引き渡す。もはや空母を呼び寄せることなど出来ない以上、日本まで移送する手段はない。
搭乗員の準備はすぐに終わる。もともと移動が日常茶飯事の航空隊員の荷造りなどたかがしれているのだ。その中で、荷造りをしようとしない田所に、岩井が「どうしたのか」と声をかける。
田所はぽつりと呟く。
「自分はここに残ります。」
岩井が反問する。
「貴様、そんな勝手が許されると思ってるのか。いや、日本に帰りたくないのか。」
「自分には家族はいません。戦死扱いにしてくれても悲しむ者はいません。」
言葉使いは静かだが、真っ直ぐな眼差しは決して引かない決意を示していた。鼻っ柱が強い戦闘機搭乗員の中で、これまで田所は上官や命令に不服な態度を見せたことはない。それだけに言い出したときの決意は固いようだ。岩井は深呼吸して気を落ち着けてから尋ねた。
「理由を言え。」
「ここは差別がありません。兵隊でも士官と同じに扱ってくれます。」
岩井は返す言葉を失った。ここまで明確ではないにしても岩井も田所と同じ事を感じていたからだ。
ドイツ空軍、特に戦闘機隊は実力主義で、階級が低くても能力がある者が空中で指揮を取る。格式を重んじる軍の伝統に反するが、戦果を上げるため、あるいは生き残るためにガラント少佐が強行したこのシステムは現場では歓迎され、いまではごく自然のこととして浸透している。
対して貴族主義が強いイギリスの制度を取り入れた日本海軍は士官を優遇し、下士官・兵を虐げる傾向が甚だしい。士官を養成するための機関を「兵学校」と呼称することがそれを象徴している。兵学校を出なければ「兵」ではないとでも云うのか?
下士官でも軍功があるなど優秀と認められれば士官となれるが、その場合は「特務士官」と呼ばれ、兵学校出身者と何かにつけて区別される。
しかし実際の戦闘では下士官・兵が主役である。ある程度の経験を積むと、どんなに士官が威張っても、実力があって兵を統率できるベテラン下士官にそっぽを向かれると部隊が機能しなくなるのが分かってくる。だから実力のない士官は、表向きはともかく目に付かないところで下士官が多少の無茶をしても見てみないふりをする。
この典型が部下への私的制裁である。軍隊での上下関係は絶対だから、中にはそれを悪用して陰湿な体罰で部下をいじめる者も出てくる。士官はそれを取り締まる立場にあるのだが、実際にはそうはならならず、どこの隊でも制裁は日常茶飯事。むしろ下士官・兵を不当に扱う士官も少なくない。
いじめられて辛くない人間などいない。軍隊は階級が低い者ほど理不尽な扱いへの不満が鬱積している。
そうではない場合ももちろんある。佐藤隊長のように部下の追従を許さない程の技量を持ち、しかも公正に部下を扱う士官ならば、下士官・兵は上官を慕い、隊は淀みなく機能する。しかし、彼らが尊敬する佐藤大尉はもういない。
比較の対照がないときはそうでもないが、ドイツ空軍の実力主義を目のあたりにすれば、それをうらやましいと思う下士官・兵が現れるのも無理はない。ことに欧州派遣軍は、長い航海中に不満のはけ口がなかったために『気合いを入れる』と称した制裁が激しかったから、その反動は大きいのだ。
岩井には引き留めるべき言葉がなかった。
「自分も残ります。ドイツ人に零式の整備はできませんから。」
「南……」
源田と奥宮は当然激怒した。が、彼らも田所たちを翻意させることはできなかった。こんな異国の外人部隊では規律だけでは兵を縛ることはできない。田所に命令を守らせるどころか、ドイツ残留を希望する兵が次々に現れる始末だ。
最後は、日頃冷静な源田からは考えられない『勝手にしろ』の怒声とともに、帳簿の戦死者確定に認めを記載してこの問題は決着した。結局、搭乗員五名、整備員六名がドイツに残留することになった。
ドイツ側からの不満は出なかった。優秀なパイロットや整備兵は喉から手が出るほど欲しいのだ。国家元帥の意向はともかく、現場の本音として日本人を受け入れない者はいなかった。ガラントはどういう奇術を使ったのか、書類上は日本人をチベット人義勇兵として登録してしまった。
撤退となれば、むしろ事務方が忙しい。帰国するにしてもその手段を確保しなければならない。イ号潜水艦が間もなくドイツに入港する予定なので便乗させてもらえるとしても、とても全員は搭乗できない。
ドイツとイギリスが交戦中では他に大西洋を渡る手段はない。収容しきれない人員は陸路を行く。フランスからドイツ、ソ連を横断して満州国、更に中国から日本に併合されている韓国へ、ひたすら鉄道を乗り継ぐのだ。
その手続きだけでも面倒だ。それよりも書類整理が重要だ。処分すべき機密書類、日本に持ち帰らなければならない戦闘記録や隊の運営記録など、事務処理は煩雑を極める。人手不足の中、様々な雑用は例によって橋本に廻ってくる。
あまりに忙しいと思わぬミスが起こる。日本に送るべき文書はイ号潜が到着するルアーブルに発送した後になって、私物やドイツ分の事務方に混ざっていた書類が出てきた。橋本の寝室からは通信記録が出てきた。公式の記録ではなく通信時に橋本がメモ帳替わりに通信内容を書き留めていたものなので、私物の中に紛れ込んでいたのだ。
処分すべきなのだろうが、文字通り死闘の記録を焼き捨てるなど、橋本には耐えられなかった。正式の記録ではない数冊のノートを追加送付する手続きは面倒だ。橋本は武官経由で日本に送ってもらうことにした。鉄道便の手配で親しくなった武官なら、多少の無理は聞いてもらえるだろう。
ドサクサ紛れに橋本は武官に私用も頼んだ。別府病院の晶子あてにフランス人形を送ったのだ。武官の説明には、搭乗員の体調記録、長期間作戦が搭乗員に与える影響の研究材料を病院の検査部あてに送ると、もっともらしい理屈とデータを作り上げたのだが、その梱包の中には慰問袋の御礼を装った晶子あての梱包が紛れており、実はそちらの方が目的なのだ。
フランス人形はドイツ兵の持ち物だったのを、橋本は無理を言って譲ってもらった。嫌がる曹長に『こちらはパイロットを置いていくのだ、替わりに人形くらいいいだろう』、と言うと、最後は笑って渡してくれた。
『大事にしてくれ。こちらも君の戦友たちを仲間として遇することを約束する。』
橋本は肯き、人形の頬にそっと触れてみた。面長の顔形と大きな眼が何となく晶子に似ている気がする。
もうじきその人に会える。優しい彼女はその時にはこの人形の礼を言ってくれるだろう。橋本は思わずにやついた。
曹長は新しい人形の所持者が約束を守ってくれそうだと安堵した。
橋本の多忙ぶりに同情している武官は病院あてとは変だと思いつつ、大した書類ではないだろうと、黙って橋本の頼みを聞いてくれた。
事実上、書類整理は一人で行っている橋本の娑婆っ気は、派遣軍の誰も気がつかないまま通過した。
源田か奥宮が気付けば慌てて止めただろう。橋本は知らなかったが、武官とは公然としたスパイであり、その周辺は各国の諜報機関が熾烈な活動を行っている。しかも欧州派遣軍の動向は、その書類が横断するソ連のKGBが注視しているのだ。
ソ連にしてみれば、日本はいつ満州から攻め込んでくるかわからない危険な国家である。その動向は目を離せない。その新型戦闘機を実戦配備した部隊の情報となれば、なんとしても手に入れたい。うまくすると同じ基地に所属するドイツ空軍の情報も得られるかもしれない。ドイツは日本以上に油断ならない相手なのだ。
厳重に封印されたはずの書類は密かに開封され、盗撮されてまた梱包された。外目にはまったく開封されたとは見えない。見事な工作にしてやったりとほくそ笑むKGB職員は考えられないミスをしたことに気付かなかった。
連合艦隊司令部に届いた届いた荷物を開封した係官は困惑した。ドイツの武官は何を思ってフランス人形など送ってきたのだ? 発信元は欧州派遣軍だと分かった時、司令の源田には、洒落者だ、いや不謹慎だと本人に身に覚えのない賛否両論の評価が下された。
海軍別府病院ではドイツから慰問袋の返礼が届いたことに事務官が戸惑った。が、事務官は個人宛の小包が混じっていることも含めて、何も言わなかった。
若い看護婦が多い病院に色恋沙汰は日常茶飯事だ。立場上、そういった噂は聞こえてくるし、尋ねられもする。しかし、そんな「馬に蹴られて死んでしまう」話題にかまっていると、自分の恋愛を暴露された看護婦の恨みを買うばかりでなく、人間関係が崩れて病院の運営に支障をきたす。ゴシップを披露する軽薄な楽しみに浸れば、後で高い代償を支払うことになるのだ。
病院での処世術を心得た事務官は人に見られぬよう、『ドイツからだ』とだけ言って小包を晶子に渡した。
受け取った晶子は混乱した。宛名書きは橋本の字だと分かったが、軍艦に乗っているはずの橋本からの便りがドイツから来るとは驚きだ。ともかくも開封してみると、大学ノートにびっしりと戦闘機隊の行動記録が書き込まれている。
とんでもない物を見てしまった。晶子は真っ青になった。汽車から軍港を見ていただけで、『貴様は間諜か』と憲兵に殴り倒される時代である。軍の記録を見たと知れたら――しかも、日本海軍がドイツで作戦しているなど聞いたこともない。機密に違いない――経緯など関係なしに、どんな目に合わされるかしれたものではない。
『これは何かの手違いに違いない。軍に行くべき書類の宛名を間違えたのだ。早く当局に届けてしまおう。いや、そんなことをしたら自分も連行されてしまう。
では黙っていようか。でも、書類が紛失したと知った海軍は捜すだろうから、いずれここに配送されたことも分かり、取り戻しに来るだろう。その時にやはり連行されるだろう。』
晶子は深呼吸した。落ち着いてよく考えてみよう。
『こんな重要な内容なのに、届いてしまう前に回収できなかった方が変だ。よく見れば、これは大学ノートの走り書きで、海軍の用紙ですらない。正式の文書ではないのだ。いわば私物、日記のような物だ。だからこそ私信に紛れ込んだ時点で問題にならなかったのだ。
つまり、海軍はこんな物があるとは知らない。何かの間違いで自分に送られてきたのだ。幸いなことに、これを受け取って届けてくれた事務官は余計なことを風潮する人ではない。後は自分が隠しておけば、この件はなかったことに出来る。』
決心した晶子は大学ノートを保管庫の一番奥の書棚に仕舞い込んだ。古いカルテや医療記録が保存してある棚だから、まず人が見ることはない。
『それにしても、あの人はなんて失敗をしてくれたのかしら。今度会ったら、どんな目に合わせてやろうかしら。』
カレー基地に定期的に食料品を届ける青年は、食糧倉庫にワインの木箱を積み上げていた。基地付けのコックがその作業を手伝っている。
青年は相変わらず軽薄を装いながらも情報収集に余念がない。コックは毎日の食事を作るのだから、その量によって基地の人員、すなわち兵力を知っている貴重な情報源だ。
「注文量が急に変わるから手配が大変、注文どおりに納入しないと叱責されるし代金の決済が滞る。前もって分かると助かるのだが。」とこぼすと、青年に同情した人の良いコックは気づいたことを教えてくれるようになった。
「例の特殊部隊の隊員な、食事もそこそこに切り上げてすぐに詰め所に戻っていくんだ。なんか慌ただしく荷造りしてるみたいだ。どこかに転属するんじゃないかなあ。」
「注文が減るのは商売としては辛いなあ。どこに行くんだろう?」
コックはワインのケースを積み上げながら青年に答える。
「さあ、そこまでは分からない」
「随分と部隊の動きに興味があるみたいだねえ」
背中から唐突に声をかけられて青年はびくりとした。人の気配はなかったはずだ。振り返るときちっとした背広姿の男が立っている。地味なグレーの背広は町中では目立たないだろうが、軍事基地内では軍服以外だとかえって目立つ。こんなところでそんな格好をしている職種は限られる。
青年はゴクリと生唾を飲み込んだ。男は、顔はにこやかだが目が笑っていない。
「どうしてそんなことが知りたいのか、聞かせてもらえるかな」
口調は穏やかだが断固とした意志が読み取れる。不審者を問い詰める義務感からではない。人を貶めることに喜びを見いだす残忍な喜びがにじんでいる。ゲシュタポだ。
こいつらに疑われたら、どんなに抵抗しても必ずしゃべらされる。恐ろしいのはそこに至るまで、あらゆる拷問にかけられることだ。あまりの苦痛にやってもいない罪状を白状しても、さらに拷問にかけられる。拷問は自白させるための手段ではなく、疑わしい人間に苦痛を与えるのが目的になったかのようだ。あまりの苦悶に発狂する囚人も少なくないという。
「こっちへ来てくれ」
男の意識が青年に集中したと見るや、コックが後ろを向いて駆けだした。
途端、続けざまに二発の銃声が轟き、コックは両足から血を吹き出して倒れた。男の右手に大型のリボルバーが鈍く光っている。青年にはそれがいつ現れたのかすら見えなかった。
「困った人だね。私はこんな物を使いたくはないのに。」
そのとおりだろう。この男は人をもっとじわじわと苦しませる道具が好みに違いない。青年は知らないが、この拳銃はコルト・ピースメーカー、四五口径の銃弾は致命傷にならなくても、命中すればどこであろうと骨を砕くほどの威力がある。
両の二の足から血を流し続けるコックは倒れたままピクリとも動かない。激痛のあまり気絶したのだろう。恐らく両足は完治することはあるまい。
男はゆっくりと、だが確実な動作で拳銃の引き金をハーフコックにすると弾倉のローディングゲートを開き、空薬莢を取り出していく。
青年は身構えた。いかなる早撃ちでも、この状態ならすぐには撃てまい。不意を付いて飛びかかれば倒せる。拳銃を奪ってしまえばこっちのものだ。
いや、だめだ。この男はポケットから取り出した弾丸と拳銃を見ながら、視線の端に自分をとらえている。襲いかかる気配を見せた途端、的確に反撃してくる。いや、むしろそうなることを望んで、わざと隙を見せているのだ。
青年が躊躇する間に、男は弾丸を充填し終わった。胸のホルスターにピースメーカーをゆっくりとしまうと、真っ直ぐに青年を見つめた。その目に残念そうな笑みが浮かぶのを見て、青年は戦慄した。
だめだ、この男から逃れることは出来ない。撃った分だけすぐに弾丸を補充するのはプロだ。しかも、一発命中すればコックの逃亡は阻止できるのに、確実を期して二発発射する。この拳銃はシングルアクションだから、撃つ度に引き金を起こさなければならないのに連射して、二発とも命中させる。恐るべき射撃術である。
銃声を聞いた兵が倉庫に飛び込んでくる。
「スパイだ、拘束しろ」
兵はぎょっとした表情を見せた。人の良いコックがスパイなどとは信じられない。それに拘束するも何も、血を流して動かないではないか。まずは治療すべきであろう。
「さて、行こうか。大丈夫、正直に話してくれれば何もしやしない」
嘘だ。ゲシュタポに捕まって無事に解放されるものか。青年は男に支えられねば歩けないほど足が震えていた。
荒事をこなしたとは思えぬほどに、仕立ての良い背広を隙なく着こなした男は微笑んだ。日本人の動向を調査するよう命じられて平服で基地に入り込んでいたが、たいした収穫もなかった。帰ろうとしたところに思わぬ獲物がかかった。これでしばらくは楽しめそうだ。
欧州派遣軍の帰国準備は急速に整えられた。
第一陣は一〇名が陸路を行く。東洋人が一度に大人数でヨーロッパを移動すれば目立つので、少人数ずつの出発となる。この中には橋本も入っている。
本来なら事務処理を仕切っている橋本は後の便になりそうなものだが、源田の計らいで早い便に入ることとなった。
「よく働いてくれたから、せめてもの褒美だ。先に日本で待っていてくれ。」
橋本は恐縮した。
橋本らが行方不明になったとの報が源田に届けられたのはその三日後である。
「やりやがったな、ロシア人め。」
源田の怒声が奥宮には理解できない。
「どういうことです?」
「ソ連が拉致したんだ。帰国の情報が漏れてたんだよ。やつらは零式やドイツ戦闘機の情報を欲しがっているんだ。スパイが露見したんで焦っているだろうとは思ったが、まさかこんな荒っぽい手段で来るとはな。」
「まさか……」
「それ以外に、このタイミングであいつらが姿を消す理由などあるものか。」
「司令はまさか……」奥宮は言いかけてやめた。
『司令はまさか、こうなることを予想していたのですか?』
第一陣の一〇名は通信員の橋本の他は主計課員と整備兵、本来は一刻も早く帰国させるべき搭乗員が入っておらず、残務整理に必要なはずの主計課員が主体となっている。妙だとは思っていたが、拉致される可能性があるか、戦力に影響が少ない人員でそれを試してみたのだとすれば納得がいく。
いや、いくらなんでも自分の部下にそんな非情な仕打ちが出来るものか、思い違いだ。奥宮は心の中でかぶりを振った。だが、一度生まれた疑惑を消すことは出来なかった。
源田が看破したとおり、橋本たちはKGBに拉致されたのだった。
橋本は日本やドイツの戦闘機の性能についてしつこく尋問された。一介の通信兵がそれほど詳細な情報を知るはずがないという橋本の主張が通る相手ではない。何度も同じ質問をされ、拷問、懐柔が繰り返された。一番応えるのは、寝る間もなしに尋問を続けられることだ。もうろうとした意識の中で、自分が何をしゃべっているのか分からなくなる。食事や水すら与えられていないのに、空腹なのかどうかすら分からなくなる。
本当に戦闘機の性能について大した情報を持っていないのだと相手に理解させた時には、橋本は心身共にボロボロになっていた。
ここはどこだ。あれから何日経ったのか、今は昼なのか夜なのか。自分は何をしゃべらされたのか。いや、それより疲れた。何もかもどうでもいい、眠りたい。
次に橋本が叩き起こされて見知らぬロシア人たちと一緒にトラックから放り出された時、廻りは荒涼とした凍土が広がっていた。酷く寒い。
知った顔は一つもない。戦友たちは別の施設に連れて行かれたのだろう。シベリアに強制収容所がいくつあるのか、橋本が知るはずもない。
陸路が使えないとなれば、派遣軍が帰国するには潜水艦しかない。予定外の人員を収容するために、イ号潜は予定していたドイツ製の機銃やエンジン部品といった貴重な資材の大半を諦めることになった。
源田の強引なごり押しのあおりを受けてドイツ製エンジン部品を受け取れなくなった航空技術廠は抗議するものの、どうなるものでもなかった。
イ号潜の艦長は源田たちを受け入れる条件として『飯は最低限、風呂はなし、文句は一切受け付けない』を提示した。艦長にしてみれば、源田のために艦長室を引き渡すだけでも面白くないのだ。このくらいは当然と言いたい。が、命令絶対の日本軍で条件を示すなど異例の事態といえる。
源田は今度ばかりは黙って受け入れた。とにかく、帰り着くことが重要だ。源田の頭は既に次の作戦で一杯になっている。
出港の日、ガラントたちが見送りに駆けつけた。ゲーリング国家元帥は日本人の働きが悪かったからイギリスに勝てなかったと不満を漏らし、見送りに行くと報告すると嫌な顔をした。劣等人種と付き合うのはやめろとでも言いたいのだろう。ただでさえソリが合わない上司は、今後はさらに意地悪く接してくるかもしれないが、かまうものか。
ガラントは派遣軍の一人一人と握手した。国は違っても、共に死線をくぐり抜けてきたかけがえのない戦友だ。
二度と会うこともあるまい。ガラントは最後に日本語で感謝の意を示した。
「ありがとう、さようなら、日本のサムライ」
すかさず、誰かが言い返したつぶやきが奥宮の耳に残った。
「Mein Vater ist Feldarbeiter(俺の親父は百姓だ)」
この日、ドイツ軍はイギリス攻略の「延期」を決定していた。ガラントは兵力を直ちに東に差し向ける命令をゲーリングから受け取った。が、それを日本人には言わなかった。いずれ分かることとはいえ、多くの犠牲を払っての作戦が無駄に終わったとは、とても伝えられなかったのだ。
同じころ、ロンドンの日本大使館では吉田茂が大使解任の辞令を受け取っていた。
(第六章に続く)
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