第4章 苦闘
一九四〇年九月二五日、英仏海峡は悪天候は続いているため空戦は行われていない。しかし、次の戦いの準備は進められていた。
ロンドンの日本大使館の一室では、駐英大使、吉田茂が一人の男に紙を手渡した。男はそこに書かれた文面を読み、更に何やらブツブツと独り言をつぶやく。
「間もなく所定の時間だ。出来るか?」
男は無言でうなずくと、また独り言を始めた。やがて設置された無線機のマイクに向かう。呼び出し相手はフランスのカレー、ドイツ軍前線基地の日本海軍欧州派遣義勇軍の司令部。ただ、その独特のイントネーションの言語は余人には理解できない。彼は鹿児島弁をしゃべっているのだ。
日本語を解するイギリス人はいくらもいるが、ここまできつい方言を聞き取れるスパイなどいまい。なにせ日本人であり、しかも原稿を書いた吉田でさえ一語も聞き取ることが出来ないほど完璧な「暗号」なのだから。優秀なイギリス諜報部に傍聴され発信源をつきとめられたとしても、それ以上の活動はできないだろう。
事実、この意味不明な「音声」は暗号とすら思われず、さしものイギリス諜報部も最後まで内容を判別することは出来なかった。
カレーでは、やはり鹿児島出身の兵がこれを聞き取り共通語に翻訳して、そのメモ書きを欧州派遣軍司令の源田実に見せる。源田にも無線機から流れる言語は、やはり何を言っているのかサッパリ分からない。内容が正確かどうかはその兵だけが頼りだ。
源田も作成した原稿を兵に翻訳させてロンドンの吉田に発信する。ドイツ空軍は大戦果に湧いたが、偵察機が全機未帰還となった対応に混乱している、といった内容だが、やはり何をしゃべっているのかまったく聞き取れない。
この通信の正体を知るのは、欧州派遣軍の中では源田のほかには副長の奥宮正武、戦闘機隊長の佐藤正夫と下川万兵衛のみ。
佐藤は欧州派遣軍の前は鹿児島にいたから多少は理解できるかと思って尋ねたが、さっぱり分からないと答えた。
「文法は日本語ではあるらしいんですがね、まるで違う言語だと思った方がいいです。聞きかじったぐらいの自分には手に負えません。ドイツ語の方がまだ分かります。」
この鹿児島弁を操る兵を選抜して九九艦爆で艦隊まで連れてきた奥宮も、まさかこれほどの「威力」があるとは思っていなかった。
吉田茂と源田実が密かに連絡を取り合っていることは外務省と海軍にも知るものはほとんどいない。源田が駐英武官補佐官としてイギリスにいたころに吉田と接触があったにしても、軍人嫌いの吉田とガチガチの軍人である源田との奇妙な連携がどのようにして成立したのか、余人の知るところではない。
吉田は、この大戦は最終的にはイギリスの勝利だろうから、親ドイツ政策は訂正すべきだと考えている。対して源田はドイツがこのまま押し切ってしまう可能性が高いと判断している。
そんな二人が同調できるはずがない。ヨーロッパにまで戦闘機隊を派遣するなど軍の狂気も極まったと考えている吉田が、それを推奨して司令官に就任した源田によい印象を持つはずがない。反対に源田は、何かと軍への不満をあらわにし、公然と軍人を馬鹿にした発言までする吉田茂は排除できないかと思っている。
だが、不確定な情勢によっては戦争の趨勢は違ってくるという点においては、二人の考えは一致している。この欧州大戦の勝利者がどちらになるのかの予想によって、日本の取るべき道は大きく変わる。
それぞれに事情がある。源田は派遣軍が本国から遠く離れたドイツで孤立することを恐れた。情報のチャンネルは多いほどよい。敵国からの情報となればなおさらだ。
吉田は反ドイツの立場からドイツの実態を知りたい。ドイツびいきに凝り固まった外務省からの情報だけでは判断を誤る。日本国中が親ドイツに傾いているこの時期、吉田は大使館ですら孤立しかけており、ニュースソースが少なくなっているのだ。
決して相容れない二人は、互いの情報を欲する点で利害が一致していた。
さて、吉田が発信した内容は
〈先の空戦でイギリス軍の被害は甚大なるも充分な余力あり。政府の徹底抗戦を国民は支持。志気は盛ん。戦闘機の生産は自動車工場まで動員して拡大している。〉
吉田はイギリスびいきだが、余人がついていけないほど頭脳明晰だから、それが情報の判断に影響することはないと源田は考えている。吉田がそう判断したのなら、イギリスはまだ屈服する気など無いのだろう。戦果確認のためイギリスに飛んだ偵察機は全機未帰還になったことからも、イギリス空軍の抗戦能力はまだ高いと判断するのは的確だ。
「簡単に決着はつかないか」
源田は、ドイツ軍は一気にイギリス本土に攻め込むと聞かされていたが、先の大勝にもかかわらずそうはならなかった。となれば、源田も戦略というか派遣軍の運営を考えなければならない。
ドイツからの支援があるとしても、零戦の補充物資は限られているから長期の作戦行動は難しい。何よりも人員補充が不可能であるから、消耗したぶんだけ戦力は減ったままとなるのだ。
判断の速い源田にしては珍しく、通信が終わった後も長く考え込んでいた。
秋のヨーロッパ、特にイギリス南部からドーバーにかけての気象は変わりやすい。厚い雲から冷たい雨が降ったかと思うと急に晴天になり、短時間でまた黒雲に覆われて飛行に危険なほどの突風が吹いたりする。
天気予報もあてにならない。ヨーロッパの天候は西から東に移行するので、英仏海峡の天気予報には大西洋の観測結果が必要となる。しかし、イギリスと交戦状態の現在、ドイツ軍がそんなものを入手できる訳がない。結果、あてにならない天気予報に振り回されて作戦が二転三転することになる。
今日は珍しく、午前は一時的ながら快晴という予報が当たったようだ。
そのわずかな晴れ間をぬって、英仏海峡のフランス側、カレーのドイツ空軍基地の急ごしらえの滑走路に二機の戦闘機が引き出された。
ガラント少佐が操縦する零戦と、佐藤大尉が操縦するメッサーシュミットBf一〇九だ。
佐藤はしきりに飛行帽を気にしてフックを締めなおしたりしている。無線を使うために飛行帽はイヤホーンの入ったドイツ空軍の物を借りたのだが、サイズが合わないし、被り心地に違和感があるのだ。
とはいえ、FuGⅦ無線機は明瞭に指揮所からの音声を伝えている。雑音ばかりでほとんど聞き取れない零式の無線とは大違いだ。もっとも、入ってくる音声はドイツ語なので意味はよく分からない。どうも発進しろと指示しているようだが。
「グーテンモルゲン、イッヒ ビン サトウ。あーっと」ドイツ語は片言しかできない佐藤は言葉に詰まる。
「こちら指揮所、佐藤隊長、日本語で大丈夫です。」唐突に日本語が聞こえる。
「こちら佐藤、助かる。ところで貴様は誰だ。」
「橋本であります。指示は自分から伝えます。」
佐藤は、橋本が空母「瑞鶴」の信号員であることを思い出すまで数瞬かかった。派遣軍の指揮所に配属される予定だった空母「翔鶴」の乗組員がルアーブル入港前の戦闘で戦死したため、急遽、橋本が配置換えとなったのだ。
おかげで橋本は速やかに帰国する「瑞鶴」「翔鶴」から降り、派遣軍の一員として欧州に留まることとなった。しかも人手不足のため、やったことのない主計課の手伝いまでさせられて多忙である。急ごしらえの組織の弊害はこんなところにも現れる。が、これも軍務だ。橋本は与えられた任務に不満を漏らすことはない。
「おう、橋本、よろしく頼むぞ。俺の符号は『サ一番』だ。」
佐藤は機体に意識を集中しようと努めた。Bf一〇九のコクピットは狭い。日本人としては体格がよいが、ドイツ人に比べると小柄な佐藤がそう感じるのだから、ドイツ人にはさぞ窮屈だろう。この居住性の悪さは何度収まっても慣れるものじゃない。
そう、さすがに今回はぶっつけ本番で初めての飛行機を飛ばす無茶はしていない。零戦に比べると小さな機体、特に主翼の小ささが目に付くBf一〇九を一目見て操縦しにくい飛行機だと判断した佐藤は、限られた時間の中で可能な限り機体を理解するよう努めた。
まずドイツ人の説明を受ける。しかし、零戦を見慣れた目からは異様に小さな機体なのに、それが当たり前のドイツ人から機体特性を伝授されようとすると、どうも感覚が違う。
おまけに言葉が分からない。ただでさえドイツ語は苦手なのに佐藤に返答するシュミットとか云う整備兵は、佐藤が尋ねもしないことまで早口で説明するので何が何だか分からなくなる。見かねて説明に入った南のおかげで、どうにか最低限の知識は得られたが。要するに速度重視の機体、頑丈だから少々無理をしても大丈夫だけど失速はしやすい、ってことだ。
次に実際にコクピットに入り、計器やレバーを確認する。ドイツはさすが科学の国だけあって計器の配置は合理的で見やすい。レバーも操作しやすい位置にあるからすぐ慣れた。それから地上滑走を何度か、これまた入念に繰り返し、いよいよ飛ぶのだ。
「じゃ、上がるぞ」
離陸は思ったよりスムーズだ。主脚の間隔が狭いから難しいと思っていたが、エンジン馬力が零式の一.五倍近くもあるから、あっという間に主脚が地面を離れる。
既にガラントが操縦する零戦は上空にある。出来れば模擬戦をやりたいとガラントは言っていた。本来なら乗機を交換しての模擬戦など、充分に慣れてから行うべきだが時間がない。次の作戦を急ぐ状況では無理もする。それに、秋の英仏海峡は天候が不順なのでゆっくり時間をかけられない。この飛行もわずかな晴れ間をぬっている。遅くとも午後にはまた天候は悪化するだろうと気象官は予報している。
佐藤のBf一〇九は先行するガラントの零戦に接近していく。その飛行は日頃の佐藤とは別人のようにふらつき、ギクシャクしている。
コクピットの佐藤はせわしなく方向舵を操作していた。想像以上に安定性が悪い。不用意な旋回を打てば操縦不能になりそうだ。しかもエンジンは馬力があって加速が利くからスロットルの感覚がつかめない。零戦の要領で開いたら一気に加速して体は座席に叩き付けられそうだ。
「こいつはとんでもない暴れ馬だ」
旋回性能を重視する日本の戦闘機とはまるで違う。なんて操縦しにくいんだ。しかし、スピードを重視していけば戦闘機はこういう方向性になることも理解できる。このコンセプトが欧州、いや世界の主流なのだ。
互いに相手を同時に発見しての格闘戦ならまだしも、この機体で奇襲されたら零式の速度性能では対応しきれない。イギリスのスピットファイヤはここまで徹底していないにしても、似たような傾向の戦闘機のようだ。となれば、優れた速度性能を重視した戦法を取られたら、先の空戦とは逆にこちらが苦戦するのではないか。
佐藤がそこまで考えた時、また機体がふらついた。佐藤は操縦に意識を集中することにした。気を抜くと機体を制御できない。こりゃ、今日は模擬戦なんかとても無理だ。
対岸のイギリスのドーバーには、美しい海岸線にそぐわない鉄塔がそびえ立っている。
イギリス各地で同じような鉄塔がいくつも建てられている。低い物で六メートル、最も高い物だと一〇六メートルにも達する。突貫工事で建設された鉄の檻はレーダーのアンテナである。
これによって接近する敵機を捕捉し、迎撃機を発進させる。イギリス防空の最重要施設なので、その目的は一切公表されていない。
もっともレーダー関連施設はイギリス全土をカバーするために、ブリテン島の南部と東部、すなわちヨーロッパを向いている側を中心に四〇ほども設置されているから、隠蔽は不可能だ。敵味方ともに、見る者が見れば目的は分かる。
このうち、イギリスが最も神経を集中しているのはドーバーとその周辺の施設である。ドーバーは英仏海峡が対岸のカレーまで三四キロと、イギリスでヨーロッパ大陸に極めて近い。そのためフランス北部上空の機影を監視できるのだ。
ドーバーは千年前から栄えている港湾都市である。石灰質で出来た白い崖で有名なこの町は、古来より重要な戦略ポイントであったため、ローマ時代からの遺跡が残されている。時代が下がり、航空機が戦略の重点を占める現在はフランス北部から飛来するドイツ空軍に対する最前線基地となっている。
急ピッチで整備されたレーダー施設は、外観はもとより内部構造もイギリス流のエレガントさの欠片もない、無愛想なコンクリートと鉄の塊である。
装飾品など置く余裕のない操作室では、まだ若いレーダーの技術官、アーサー・チャールズ・クラークが操作方法を担当者たちに説明していた。担当者といっても人手不足だから臨時に招集された未経験のボランティア、しかも女ばかりだ。男は兵隊になっているから、こういう仕事は女だらけになるのはやむを得ない。一応軍属扱いになるので空軍の軍服を着てはいるが、その姿はいかにも着慣れしておらず動作もぎこちない。
見ようによっては可愛いとも取れるか。なにせ妙齢で、しかも最新鋭の電子機器を操作するため頭脳明晰な女性ばかり集められているのだ。
が、説明するクラークはそれを役得だなどと思う余裕はなかった。レーダーは感知したエコーをブラウン管に表示するのだが、この時代のレーダーの性能はまだ不十分、エコーは不鮮明で読み取りにくい。訓練を重ねた専門家なら何とか機数や高度を判別するが、まったくの素人を一人前に育てなければならないのだから頭が痛い。
おまけにこのレーダーサイトはまだ整備が終了していない。もう戦争は始まっているというのに、訓練をかねたテストで作動状態を確認している有様だ。三日前に偵察機を捕捉できたのはたまたまに過ぎない。高速の戦闘機が低空で侵入してきたら、それを捕捉できるかどうかは極めて心許ない。
そもそも説明するクラーク自身が厳密には専門家ではない。レーダーの技術者ではあっても、本来は機上搭載型を扱っているのだ。彼が開発しているのは悪天候で地形が分からなくなっても自機の位置を正確に把握できて着陸まで出来るようになるレーダーだ。高空域を探査するCHレーダーなど専門外、ましてや敵味方識別装置などこっちが教えて欲しいくらいだ。
「まあ、無理だと分かるところまではやってみるさ。『可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである』ってね。」
訓練する余裕があるだけまだマシだと思おう。
「おいクラーク、そろそろ反応があるころだぞ。分かるか?」
主任から声がかかる。敵機を装ったスピットファイヤ編隊が接近する手筈になっているのだ。
「了解、いま感知した。」
クラークはブラウン管に表示された波長のブレを鉛筆で示し、女性たちに「これです」と声をかける。このエコーだ方位は真北、高度は一万フィートってとこかな。
「反応は良好だ敵機をすべて捕捉している――|と思う(I think)」
その次の日、ベルリンの総統官邸では、ゲーリング国家元帥がヒトラー総統に空軍の戦況を報告していた。戦果という冷静な判断が必要となる報告を行うにはゲーリングは興奮気味であった。もっとも、両軍合わせて千機もの航空機が参加した空中戦などこれまでなく、それに大勝したのだから無理もないが。
「イギリス空軍にもう兵力はないと判断します。」
ヒトラーは冷ややかに言う。
「だが、戦果確認にドーバーなどの軍港に向かった偵察機は撃墜されたのであろう。全機未帰還となれば、合計で少なくとも五〇機以上の戦闘機に襲われたと推察する報告もあるぞ。」
ヒトラーは楽天的すぎるゲーリングの報告だけで戦局を判断しない。情報は複数から得た方が確実だ。そして空軍の内部にもゲーリングを嫌い、その足を引っ張ろうとする勢力は小さくないのだ。
「それが最後の五〇機でしょう。」
「どうかな。もっと多くの敵機がいたのではないかとすら思うが。」
どちらも半分ずつ正解といえる。
いくら偵察に使ったのが性能の低いDo-一七だったとはいえ、もとは爆撃機でそれなりに防弾もある機体だからスピットファイヤの七.七ミリ機銃では一撃で撃破などできない。多数機から銃撃されたのだ。
前日の戦闘による損害で、多くはなくなった残存機を集中する攻撃が可能となったのはまだ未整備のイギリスのレーダーがほとんどまくれに近い確率であったとはいえ、ドイツ機を捉えたために的確に迎撃機を出撃させえたためである。
「いずれにせよ、こちらには日本戦闘機部隊も合流してますから戦力的に有利です。もう一押しでイギリス空軍を屈服できます。」
ゲーリングにとって零戦隊の存在は微妙である。
イギリス空軍の敗北はもちろん喜ばしいが、その戦果は日本戦闘機の功績が大きい、相対的にドイツ空軍の功績は低いとなれば、空軍の責任者としては問題だ。ゲーリングとしては日本人にはそこそこの戦果を上げてもらってさっさとお引き取り願いたい。しかし、現実問題として戦闘機は不足しており、その穴埋めをしてくれる戦力がなくなるのは痛い。
やっかいなことに総統は日本戦闘機の能力を高く評価しているらしい。日本からはるばる援助に来て、しかも大戦果を上げた日本人をえらく気に入り、最大限の歓待をするよう命令している。ヒトラーは冷酷だが意外に信義に厚いところがある。ユダヤ人は害虫扱いするが、有能と判断した相手には礼を尽くすのだ。
ただし、ヒトラーは人を信用することはない。歓迎する一方で、日本人がドイツに不利な動きをしていないかどうか探るようヒムラー内務相に命じている。官吏としては有能だが、冷酷で猜疑心の強いヒムラーは総統の歓心を買うためには些細なミスを誇張して報告するぐらいはやりかねない。
が、それはゲーリングの知らぬところである。ゲーリングが恐れるのは、この天才だが、たぶんに気分屋の独裁者が『戦闘機を日本製にしろ』などと言い出すことだ。そうなればドイツ空軍、ひいてはゲーリングの権威はガタ落ちである。
機を見るに敏なメッサーシュミット社長は、零戦が到着した直後、ゲーリングに会談を申し入れた。主力戦闘機を切り替えられでもすれば会社の存続にかかわるから、猛烈に自社製品の優秀性をアピールしてきた。
すなわち、Bf-一〇九は速度性能と生産性に優れている。零式艦戦の主翼に装備された二〇ミリ機銃は確かにBf-一〇九より強力だが、間もなく実戦配備が可能となる新型機は機首に二〇ミリ機銃を搭載する。機銃は機首装備の方が翼内装備より照準しやすい。機銃そのものも日本がコピーしたエリコン製より優れている。航続距離の短さははドロップタンク装備で解決できる。ヨーロッパの戦闘に日本戦闘機のような長大な航続力はかえって邪魔だ。等々……
まくし立てるメッサーシュミットにゲーリングも半ば呆れた。この友人でもある社長が癇癪持ちなのは知っていたものの、ゲーリングが主力戦闘機を外国製にする意向などある訳がないではないか。
それにしても、よくも短期間でそこまで性能比較が出来たものだ。
実はメッサーシュミット社長は零戦の図面を見て、その特徴を理解したのだ。メッサーシュミットの観点では、日本機はエンジンに馬力がないくせに主翼が大きいなど、あまりに設計理念を逸脱している。会社経営の問題以前に、こんな戦闘機がドイツで使われるなど我慢ならない。
日本側は新鋭機の図面を同盟国といえど他国に渡すことを拒否していたのだが、交渉に当たったヒムラー内務大臣の権謀術にかかれば、日本人の外務交渉など子供同然である。ドイツの快進撃の尻馬に乗ろうとする日本人の欲は、ヒムラーのちらつかせる甘い餌に見事にひっかかった。
ヒムラーはナチズムの信奉者(と見せた方が商売が有利と判断した)メッサーシュミットやヒムラーに接近する空軍幹部にはこの図面を見せたが、権力抗争で対立するゲーリングにはその存在すら伝えていない。空軍にゲーリングを嫌い、あわよくば失墜させて自分の地位向上を狙う勢力は、こんなことでも暗躍している。
日本海軍の一部とヒムラーとの密約は現場の指揮官たる源田もしらない。完全な図面があれば、突貫準備で出国したために資料のそろわない派遣軍の整備隊は随分と助けられただろう。
猜疑心の塊のようなヒムラーはドイツに大勝利をもたらしたからといって欧州派遣軍を信用していない。図面を提供するような親切心など無い。むしろドイツに不利な情報が日本を通じて他国へ漏れるのではないかと警戒している。
総統の命令が無くても、何か弱みを握れないかとゲシュタポに源田の周辺を探らせただろう。政治的感覚の鋭い源田はそれに気がつき、痛くもない腹を探られるようなヘマはしないが。
それはともかく、ゲーリングにとって幸いなことに、日本の戦闘機よりドイツのBf-一〇九の方が総合的に優れているとガラント少佐は報告してきた。このズケズケとものを言う指揮官をゲーリングは煙たく思っているが、今回は珍しくガラントの意見とゲーリングの思惑が一致した。この実力と人望の高い指揮官の意見なら、さしもの総統も無視はしないだろう。
「ふむ」
そういったゲーリングの葛藤を知ってか知らずか、ヒトラーにしては珍しく生返事をした。が、考え込んだ風を見せたのはわずかだった。
「国家元帥、君は古くからの盟友だから余の真意を話しておこう。余はイギリスを屈服させることは無理だし、仮に戦闘で勝利してもイギリス人を統治し続けるのは戦略上不利だと考えている。」
ゲーリングは言葉を失った。それではこれまでの戦争は何だったのだ。
「ドイツ人の気質は大陸でこそ発揮される。あの島国での戦闘には不向きだ。それに、どんなに負けてもイギリス人は最後まで戦い続けるだろう。フランス人のようにあっさりと我々を受け入れたりしない。
それに、チャーチルは敵ながら話し合いで妥協点を探れるヤツだ。そうしてブリテン島に引きこもらせておく方が支配するより有利だと余は判断する。ただ、痛い目に合わせないとこちらの要求には従わんから攻撃するのだ。
それより問題はソ連だ。スターリンは強欲で嘘つきだ。あいつらには文明国の協議など通用しない。油断すると共産主義という害悪を世界中に垂れ流す。撲滅しないと人類が毒される。
少なくとも、ウラル山脈よりこちら側は占領しなければならない。いま屈服させておかねば、こちらがいつ侵略されるか分かったものではない。」
「総統はソ連との戦争を考えていらっしゃるのですか」
「そうだ。行きがかり上、イギリス攻撃が先になってしまったが、ソ連を屈服させることがこの戦争の目的なのだ。」
ゲーリングは唖然とした。ヒトラーの共産主義嫌いを知らぬ者はない。ヒトラーに心酔するドイツ人の多くも、ヒトラーと同じように共産主義国のソ連を嫌っている。だからといって戦争は話が別だ。相手は世界一の領土を持つ大国なのだ。
ヒトラーは続ける。
「来春の雪解けにソ連攻撃を開始する。そのための準備期間を考えると、占領できようとできまいとイギリス攻撃は一一月一杯で終わらせる。ゲーリング、君はイギリス占領に執着があるようだが、そのために君と君の空軍にあげられる時間はあと二ヶ月ほどだ。」
ゲーリングは返事もできず硬直した。
一〇月一日
イギリス南部からフランスにかけて、快晴であった。早朝よりフランス各地から大ブリテン島南端に向けてドイツ軍機が殺到した。前回の攻撃はフランス上空で編隊を整えてイギリスに侵入したが、今回は速攻で奇襲を目的としている。そのため戦闘機の援護もままならぬまま、部隊ごとの攻撃となった。
空襲は出来る限り多くの数をそろえ、一気に攻めかかるのが常道である。しかし、そのためには空中で部隊を整えるのに時間がかかる。敵に察知されれば迎撃体制を整える時間を与えてしまう。ならば少数機ごとになっても即座に敵陣に突入して攻撃した方がよい。ゲーリングの判断は一応の理屈は通っている。もっとも、ヒトラーとの歓談による焦りがなければ、こういった奇策は用いなかっただろう。
結果的にこの作戦は失敗であった。整備を完了したイギリスのレーダー網はドイツ軍機をほぼ完全に捕捉し、敵機発見の報告から三〇分もあれば迎撃機を正確に誘導した。小部隊となったドイツ爆撃機は味方戦闘機の充分な援護を受けられないままに次々と各個撃破されていった。
限られた迎撃機で多数の敵に対処するイギリス空軍はまさに殺人的な忙しさになる。各地の交戦センター作戦室に設置された巨大な配置図にはレーダーサイトからもたらされる情報を、係官がリアルタイムから1~2分の遅れでマークしていく。そうして捕捉したドイツ機に手近な迎撃機を向かわせる。
「ボーンチャーチ交戦センターより四一飛行隊へ、敵機一〇機、|真南(ベクトル一八〇)だ。」
「見えた、He一一一だ」
「六機撃墜、残りは爆弾を捨てて逃げ出した。」
「そいつらはもういい、|東(ベクトル九〇)に新たな編隊を感知、直ちに迎撃しろ。」
「少しは休ませろ!」
少数機のイギリス戦闘機は効率よく、次々に迎撃を命じられた。パイロットの疲労や感情など考慮しない非情なシステムである。それでもドイツ機の方があまりに数が多いため迎撃が間に合わない場合もある。しかし、スピットファイアは多くのドイツ爆撃隊を正確に捕捉し攻撃を与えていった。
「前方、下にタイプ・ゼロ! 攻撃する。」
ダグラス・バーターが叫ぶ。彼らのスピットファイヤ部隊が誘導された方向には戦闘機も飛んでいる。曲線で構成されたシルエット、戦闘機にしては大型の機体はドイツのBf-一〇九より、むしろ自分が搭乗するスピットファイヤに似ている。似たような戦闘機に惨敗した前回の戦闘が腹立たしい。日本人ごときに屈辱を受けたままなど我慢ならない。
「戦闘機は無視しろ。攻撃目標は爆撃機だ。」
「やかましい!」
中世以来の騎士道精神が二〇世紀まで残った戦闘機パイロットは、空中戦で非力な爆撃機より戦闘機同士の空戦を優先する傾向がある。更に、空中ではすべての判断を自分一人で行うべく訓練された戦闘機乗りは地上からの誘導で戦うことに反感がある。
バーターだけでない。付近の戦闘機は爆撃機の迎撃を中止して零戦隊に向かっていく。
前回は突然攻め込まれたこともあって見事に日本人の戦法に乗せられた。が、今回はこちらが優位なポジションにある。しかも機体は新型のMk.Ⅱだ。負けやしない。
スピットファイヤMk.ⅡはエンジンをマーリンⅦ型に換装して出力が1割、最高速度は時速一〇キロほど上昇している。
バーター隊が零戦隊に接近する。早い。
対する零戦隊も散開、反転してスピットファイヤに立ち向かう。しかし――
「加速が、鈍い」
下川万兵衛大尉は唇を咬んだ。重大な事項を見落としていた。
「下川より全機へ、エンジン出力は一割減と考えて飛行しろ。繰り返す、エンジン出力は一割落ちている。」
「佐藤より下川大尉へ、どういう意味だ。」
ドイツ製無線機は明瞭に音声を伝える。下川はそれに感心しつつ答える。
「説明している場合じゃない。とにかく、エンジン出力低下だ。」
エンジンの問題ではなくガソリンのオクタン価が下がったのだ。欧州派遣軍が日本で積み込んだガソリンのオクタン価100の最高級品である。前回の戦闘まではこれを使っていたからエンジンは最高の性能を発揮できた。欧州にで給油したドイツ製のガソリンはオクタン価95しかない。その分だけ出力が落ちたのだ。
日本製が優れているのではない。欧州派遣軍が使っていたガソリンはアメリカからの輸入品である。日本海軍は新鋭機である零戦の能力を少しでも高めようと貴重な高性能ガソリンを優先的に廻したのだ。
「肝心な技術は同盟国はおろか仮想敵国が頼りとはな」
下川は皮肉に呟いたが、今はそれを嘆いている場合ではない。零戦はイギリス機に対して明らかに劣速で、上空から突っ込まれると振り切れない。
下川が知る由もないが、イギリス機には今月から、アメリカから輸入された一〇〇オクタン価ガソリンが使われており、その分だけエンジン出力が向上している。
イギリス製のガソリンはオクタン価九五、ドイツ製と同程度である。ちなみに日本海軍が自前で製造するガソリンはオクタン価九二と低い。それでも海軍は陸軍のガソリンより高オクタンだと自慢しているが。
後上方から降りかかられ、回避しきれなかった零戦がスピットファイヤの八丁もの機銃弾に包まれる。弾丸は薄いジュラルミンの機体を貫通し、防弾のない燃料タンクはたちまち火を吐く。
旋回して第一撃を避けた零戦はスピットファイヤの後に回り込もうとするが、スピットファイヤはそのまま一直線に飛び去っていく。追尾に入った零戦は追いつけない。
「しかし、今度はこっちが上に被さってる。海面まで逃げられやしないんだ。上昇して速度が落ちた時が勝負だ。」
低空での上昇力は軽い零戦の方が優れている。しかし、水平飛行でも優速なスピットファイヤMk.Ⅱが充分に引き離してから上昇を始めれば零戦は追いつけない。そして、零戦の主兵装である二〇ミリ機銃は接近してからでないと命中しない。
「貴様らのペースに乗せられなければ、俺たちは負けやしないんだ。」
速度に勝る敵機に一撃離脱を徹底されると零戦は攻撃手段をなくす。守勢に廻ると防弾のない弱点がたちまち露わになる。スピットファイヤが突撃をかけるたび、逃げそこなった零戦が一機、二機と火を噴く。
零戦は追い回されて連携を失っていく。
松井一飛曹もいつの間にか長機である佐藤隊長と離ればなれになっていた。
佐藤機を捜す松井の前方下にスピットファイヤがいる。濃い雲形迷彩はいかにもカムフラージュといった趣があるが、一機だけ色調が違うのでこの乱戦ではかえって機体を目立たせている。そのくせこちらには気付いていないようだ。
こいつは喰える。松井はそのスピットファイヤに接近する。
もう少しで射程にはいるというところで、スピットファイヤはダイブして逃げ出した。気付かれた。松井も負けじと追いかける。二機の速度がグングンと上がる。
そのスピットファイヤを操縦するフランス空軍からの亡命者、ジャン・テノール大尉はバックミラーで零戦の位置を確認する。ピタリと後方に張り付かれている。こいつは腕利きだ。
「そうだ、あなたは射撃位置についたと考える。だが、射撃は出来ない。」
テノールの推察とおりであった。零戦の機銃発射ボタンはスロットルレバーと同じ座席の左にあるから、発射するには左手を操縦桿から放さなければならない。しかし限界速度に近づいた零戦の操縦桿は両手で力一杯固定しないと制御しきれない。
テノール機を追う松井の零戦の下方からハリケーンが迫る。振動を起こしている零戦を制御するのに、文字通り手一杯の松井はそれに対処できない。
「よし、今だ」
テノールは操縦桿を左に倒す。スピットファイヤはするりとロールしていく。零戦はそれに付いていけない。
「もっとも、このイギリス機も急降下すると補助翼の効きは悪いがな」
テノールの動きには迷いがある。彼は乗機となったイギリスのスピットファイヤよりも、彼が愛する日本文化の体現とも云うべき零戦に愛着を覚えるのだ。
だが、そこにハリケーンが突っ込む。パイロットは先の空戦で僚機を撃墜され、日本機憎しで爆撃機迎撃の指示を無視したデスモンド・スコットだ。迷いのない銃撃は的確に零戦を捉える。
テノールがあっと思った時には、一連射でことは終わっていた。銃弾は主翼や胴体をあっけなく貫通し、操縦する松井の肉体を引き裂いた。
「Pordon、日本のサムライ。私は日本が好きだ。だが、これは戦争なのだ。」
テノールの感傷は一瞬で終わった。彼のスピットファイヤは次の獲物を求めて急上昇していく。
「松井先任、聞こえますか。機首が下がってます、ちゃんと飛んでください。こんなことを言うために無線をつけたんじゃない。何でこんなことになっちゃうんです。」
「俺に聞くなよ。」
絶叫する小八重一飛曹には、そう返答が聞こえたような気がした。
この日の戦闘でドイツ軍は出撃した爆撃機の三〇パーセントを失う敗北を喫した。皮肉なことに爆撃機の援護を果たし得なかった戦闘機隊の損害は軽微であった。ただし、零戦の被害は突出して多い。
出撃機数一五〇、未帰還機五〇、未帰還率三三パーセント。しかも異国では人員、機体の補充は不可能。通常の戦闘なら作戦を中止すべき被害である。
報告を受けた源田はしばし呆然となった。
翌日、ルアーブルでは「瑞鶴」と「翔鶴」の出港準備が整った。「翔鶴」の飛行甲板は被弾箇所に鉄板を敷き詰めて補修した。艦橋から見下ろすとあばた面で、いかにも応急修理なものの、飛行甲板用の木材などドイツでは調達できないのだからやむを得まい。
甲板のあちこちに物資が積み上げられたままになっている。みっともない姿ながら、どのみち日本に帰り着くまで艦載機の発着はないのだから、飛行甲板が使えなくても問題はない。
そう、「翔鶴」と「瑞鶴」はまたしても物資を満載している。往路と違い復路は艦載機を搭載していないから、飛行機の格納庫にまで食料品や補充物資が積み込まれている。復路は往路より更に補給に不安があるのだ。
「何とかなりますかなあ」
「瑞鶴」主計課の吉川大尉は呟いた。物品管理の責任者たる吉川の苦労はむしろこれからだ。
ドイツ海軍は気前よく物資を提供してくれた。親切からではない。早く出港させてイギリス海軍の目をそちらに向けさせ、あわよくばそれを撃破したい。イギリス上陸作戦を有利に進めるための、いわば囮とするつもりだ。その意図は欧州派遣艦隊司令の横川も見抜いている。
とはいえ、|連合艦隊(GF)からも速やかに帰国する旨の命令が届いている。いくらドイツ海軍の所属と主張していても、いつまでも日本の空母をフランスにおいておくことは出来ない。当初は空母ごとイギリス攻撃に作戦に参加させる案もあったと云うが、さすがにあからさまにイギリスと開戦するまでは出来ないとの判断でそれは見送られている。
使えない空母をいつまでも係留しておくことは出来ない。日本はアメリカと開戦するかもしれない現在、太平洋では一隻でも多くの空母が必要なのだ。
「翔鶴」の補修工事はドイツの優秀な工作技術を昼夜兼行の突貫作業で稼働させた結果、長距離航海による艦体の痛みの補修も含めて、わずか一週間で完了した。修理が終わるまでしばらくは休養できるあてが外れた「翔鶴」の機関員達は手抜き工事を疑ったが、ドイツ式の堅牢な工事は日本国内で行う補修作業より、よほど頑丈に仕上がっていると認めざるを得ない優秀さを示した。
誰かが呟いた言葉が雀部航海参謀の耳に残った。
「こんな国の軍艦を沈めるのは大事だ。」
日本は欧米に追いついたつもりでいるが、こういう地味な工業力や工作技術はまだまだ劣る。日本の近代化は表面的な高性能を目指すあまり、地味で基本的な事項が抜けているのではないか。
現に「翔鶴」は最新鋭の高性能のはずなのに、たかが駆逐艦一隻の砲撃で被害を受けている。攻撃を受ければこちらが思う以上の被害は出るものだ。それを防ぐための工夫や努力が日本には欠けているのではないか。
雀部は首を振った。それを自分が考えても詮ないことだ。今考えるべきは無事に日本に帰り着くことだ。
今回はアフリカ西岸、ドイツ領ナミビアのウォルヴィスベイで補給を受けられる。ただし、その隣の南アフリカがイギリス領であることもあり、この地域の政情は不安定だから確実な補給を受けられるかどうか不安はある。しかし、ここで補給が受けられないことには日本までたどり着けない。往路は先行する補給艦隊がインド洋の西まで来てくれたが、復路はスマトラ島の西までしか進出できないのだ。
おまけに乗組員は疲労したままである。戦闘機を降ろした後は即座に引き返す計画ではあったが、まさかこれほど急いで引き返すとは考えていなかった。
不安だらけの出港だが、行かねばならない。日本に、故郷に帰るのだ。
「橋本、すまない」
雀部は信号員席を見て呟く。「瑞鶴」信号員として艦橋にいるはずの橋本は、戦死した派遣軍部隊の補充員として欧州に残る羽目になった。何かと雑用がこなせる橋本がいなくなるのは雀部も不便だ。そもそも信号員が通信員になる配置換えが雀部の理解を超えている。橋本の器用貧乏としか云いようがない人事だが、あいつなら何とかこなせるのではないかとも思う。
いずれにせよ、橋本の帰国は遅れる。それを雀部は申し訳なく思う。しかし、このとき橋本が不運だったのかどうかは、後になって橋本本人にも判断がつかない問題となった。帰国した「瑞鶴」は休む間もなく戦い続け、壮絶な最後を遂げる。このとき橋本が「瑞鶴」に乗り込んだままであったなら、多くの乗組員と同様に戦死した可能性が高い。
が、それはまだ先の物語である。このときの彼らにその未来が分かるはずはない。
「瑞鶴」と「翔鶴」は静かにルアーブルを出港する。
フランスからイギリスの勢力圏内に入る「瑞鶴」「翔鶴」に、一五機ずつ交代で零戦隊が上空援護につく。イギリス海峡を抜けてビスケー湾に入るまで、零戦の航続距離が許す範囲は母艦を守るのだ。搭乗員達は昨日の負け戦で疲れ切っていたが、母艦の護衛とあっては休んではいられない。整備員達も徹夜で修理と整備を完了した。
愛機よ、よく見ておけ。もう降り立つことはない日本のフネだ。もうお前は日本に帰ることもないだろう。搭乗員の目は見張りより、海面の空母に注がれ気味になる。
結局、「瑞鶴」と「翔鶴」は攻撃を受けず、大西洋をアフリカ沿岸に南下していった。イギリス軍はドイツの挑発に乗ってこなかったのだ。
そして、零戦はヨーロッパで戦い続ける。
一〇月三日の夜、カレーのドイツ空軍基地では今後の戦術について会合がもたれた。日本側からは欧州派遣軍司令源田中佐と佐藤大尉、ドイツ側は基地司令ガラント少佐とその僚友ヘガナウアー曹長。本来ならばドイツ側も飛行隊司令官ピンゲル大尉が入るべきだが、彼はBf-一〇九E型を新型のF型に変更する作業のためドイツ本国に戻っている。
ヘガナウアーは曹長と階級こそ低いが、戦闘ではガラントと二機編隊を組む、ガラントがもっとも信頼する部下である。階級にこだわらず、実力で編成を決定するのはドイツ空軍の新しい流儀である。それに慣れたガラントには下士官が作戦会議に出席するのに何の抵抗もないが――これを推奨したのはガラント自身なのだから――日本人は明らかに戸惑っている。
『こっちの事情もあるんだ。』
ガラントにも言い分がある。ピンゲル大尉が指揮して一昨日から始めた機種転換訓練により、強力な新型機が編入されるのは嬉しいものの、ただでさえ不足気味の戦闘機パイロットを一部ずつとはいえ帰国させねばならないのはガラントにとって頭が痛いのだ。早く戻ってきて欲しいのは自分の方だ。
ともかくも、源田の発言で意見交換が始まる。
「スピットファイヤが一撃離脱をかけてきたら、高速のBf-一〇九が追いかけて撃墜する。それを旋回して逃げようとしたら零式が格闘戦に持ち込む。スピットファイヤはどっちの戦術を取っても捕捉される。これでどうだ?」
源田の英語はイギリス仕込みで発音が明瞭だ。流暢なものだとガランドは感心する。
「そんなに上手く行きますかね。」
と、これまたガチガチのキングスイングリッシュで佐藤が答える。
「いや、それしかない。上手く連携を取れれば有効な戦術でしょう。」
ガラントの英語はややドイツ語訛りが入る。
「連携とれますか? 編成はどうするんです。」
佐藤の問は源田に向けたものだ。ドイツ式の編隊、二機を最小単位として四機で編隊を組む方式の方が伝統的な三機編隊より優れている、と源田が言い出したのは昨日のことだ。そうかもしれないが、これまで馴染んできた方式を簡単に変えられるものではない。
「ドイツ機と強調するんだから二機単位だ。どのみち、大幅に編成換えをしなければなるまい。」
佐藤は言葉に詰まる。確かに三割もの欠員が出て補充が不可能な状況では編成を組み直さねば組織だった活動はできない。それは分かる。しかし、部下の搭乗員がこれほど戦死した直後だというのに、この司令はこうもあっさりと頭を切り換えられるのか。
「言葉はどうするんです。こっちにドイツ語をしゃべれるヤツなんていませんし、英語も下士官は怪しいです。そちらも英語は無理でしょう?」
今度はガラントが言葉に詰まった。片言ぐらいは何とかなるだろうが、英語はドイツ空軍の必修という訳ではない。ヘガナウアーも首を傾ける。
「それほど難しい会話が必要では無かろう。単語で意味は通るさ。」
「そういう問題じゃなくて……」
複雑な指示を瞬時に伝えるには、連携をかなり訓練しなければならない。それでなくても戦闘機乗りは個人プレーに走りたがる傾向があるのだ。司令だって戦闘機乗りだ、分からんはずはないだろう。
「じゃあ、こういうのはどうです?」
ガラントは別の提案をする。
「零は小回りが利く分だけ機敏な対応が出来ます。これは爆撃機の援護に向いてます。今後、零は爆撃機援護に徹してもらいます。零が追い払って体勢を崩した敵機を我々が仕留める。これなら……」
「本気で言ってるのか?」
佐藤の言葉に怒気が滲む。戦闘機乗りは自由に戦う方が有利なので、飛行が制約される爆撃機援護を嫌がる。援護機は常に爆撃機の周辺にいなければならないから、敵機に対して有利なポジションを取れず、逆に敵機から自由な位置から攻撃されるのを耐えねばならない。鈍足な爆撃機を気にしながら飛行するのはストレスだけでなく被弾率が跳ね上がるのだ。
自国の爆撃機護衛を他国に押しつけて、自分たちは好きに飛び回るとはどういう了見だ。
ヘガナウアーが口を開く。
「イギリス機が格闘戦に乗ってこない以上、少佐の案があなた方のためです。防弾が出来れば零は充分にこの任務をこなせます。
この際ですから言わせて下さい。零は防弾を施すべきです。せめて座席後の防弾版と燃料タンクに防弾ゴムを装備すべきです。このままでは命がいくつあっても足りない。」
他国人とはいえ、下士官にズケズケと言われた佐藤は感情的になる。
「ケツの下にガソリン入れるような飛行機の方がよっぽど気持ち悪いぞ。」
「なんですと」
ガラントがさすがにむっとする。Bf-一〇九は座席の後にL字型の燃料タンクがある。確かにガソリンの上に座っているようなもので、狭いコクピットと相まってあまり気持ちのよいものではない。
「それにだ。なんだよ、あの主脚は。あんな離着陸の危ねえ飛行機は無いぞ。」
これも事実である。機体をコンパクトにまとめたがためにトレットが不十分で特異な主脚配置となり、地上走行が不安定で離着陸時の事故も多い。
佐藤自身、恐い思いをしている。着陸直後の地上走行中にエンジンの強力なトルクのために左に振る機体を修正しようとして右に舵をきろうとした時、それが急だったのか主脚がグラリと揺れた。慌てて舵を戻して事なきを得たが、そのまま舵を切っていたら主脚が閉じて事故を起こしていただろう。
「それは技量の問題で……」
佐藤がヘガナウアーに怒鳴る前に、源田の穏やかだが凛とした声が響いた。
「貴官は我々を未熟だと言うのか。」
何か言いかけるヘガナウアーを今度はガラントが制して口を開く。
「そのような意図はありません。ヘガナウアー曹長の発言は、佐藤大尉はドイツ機に不慣れなため操縦しにくいのだろう、という意味です。貴官指揮の優秀なパイロットの協力に我々がどれほど感謝しているか、貴官も御理解頂けていると思う。」
「了解した。佐藤大尉も、友軍の戦闘機を侮辱するような発言は慎みたまえ。」
佐藤とヘゲナウアーは不承不承黙った。
やれやれ、どうして戦闘機パイロットはこうも気が短いのだ。これではまとまる話もまとまらない。二人の指揮官は自身も戦闘機パイロットであるにもかかわらず、同じ思いで心中ため息をついた。
結局、この会談は『それぞれが得意な戦法を駆使して、出来る限り連携する』、と曖昧な結論に終わった。これ以降の戦闘で、さすがに零戦隊も迂闊な仕掛け方をしなくなったので大被害を出すことはないが、中途半端な対策により戦闘の度に被害を受けていくことになる。
源田が欧州派遣軍の指揮所としてあてがわれた急ごしらえの兵舎に戻ると、副官の奥宮は部隊の編成表を作成していた。
「下川はどこだ?」
「整備の指揮を取ってます」
「ほどほどで切り上げさせろ。」
整備兵が足りないことは分かっている。生真面目な下川は命じられた訳でもないのに整備の指揮を取っているのだ。
零戦に精通した下川大尉を無理矢理にでも派遣軍に加えたことは正解であった。しかし、本来は搭乗員、しかも隊長である下川を地上で消耗させる愚は犯したくない。かといって、整備に支障が出れば敵と戦う前に戦力が削がれる。そのさじ加減が難しい。
整備性に関しては、明らかにドイツ機の方が優れている。格納庫に収納し損なって一晩、風雨にさらされたBf-一〇九が翌朝、事も無げにエンジン始動した時は日本の整備兵は感嘆の声を上げた。日本の戦闘機なら分解掃除が必要になるかもしれない。まず一発では始動しない。
それを見るドイツ人は怪訝な表情で日本人を見返す。彼らにとっては当たり前のことなのだ。認めざるを得ないほどの技術力の差を見せつけられるのも、源田は面白くない。
「後は任せたぞ」源田は部屋を出て行く。
「どちらへ?」と、奥宮が声をかける。
「佐藤と飲んでくる」
先ほどの会議で気分を害した隊長の気分をほぐしてやるのも司令官の仕事だ。もっとも、二人とも大酒飲みで、何かにつけて飲むのだが。
ガラントとヘゲナウアーは、兵舎に戻るために滑走路を横切っていく。麦畑を潰して急遽拡張したために、アスファルトがいささか均等ではない。
「たしかに、この路面じゃ安定が悪いな。」とガラントは葉巻をくゆらせながら呟く。
「おやじさんは日本人の肩を持つんですか?」
ヘゲナウアーだけでなく、ガラントの部下は敬愛を込めて彼を「おやじさん」と呼ぶ。
その「おやじさん」は部下に慕われる美質のひとつである、部下への情愛と公正さを持って答えた。
「いや、そうじゃない。私の部下ほど優秀な戦闘機パイロットは世界中捜してもいない。
だが、あの日本人、佐藤大尉も大したものだ。わずかの期間でBf-一〇九の欠点を見抜いてしまった。飛行機に乗るために生まれてきたような男だよ。
彼らは空母から発進して、初めての空域を一五〇〇キロも飛行して迷わず戦場に飛び込んで来たんだ、ろくな装備もなしにな。そんなこと出来るかい?」
「出来ません」
「私も無理だ。生半可な訓練では身につかない大変な能力だ。それを主脚の損傷なんてつまらない事故で失いたくない。」
ガラントは葉巻を深く吸う。
「日本軍は彼らの価値が分かっていない。」
防弾が皆無の戦闘機などガラントには論外だ。
「分かっていても結果は同じかもしれません。」
いつの間にか彼らの後からシュミットが近づいていた。
「こんな時間にどうした?」
「日本人の整備を手伝おうかと思いまして。」
見ると、日本機の格納庫は明かりが灯っているようだ。空襲を警戒して光が漏れないように窓をふさいでいるので気がつかなかった。
「それほど激しい損傷機が多かったかな?」
「そうじゃありません。零のエンジンは飛ばす度に油漏れするんで、帰還したら分解整備しなきゃならないんです。整備員も少ないし、いつ出撃がかかるか分からない状況ですから、今夜も徹夜でしょうね。」
「とんでもないエンジンで長距離飛行するんだな」
ヘゲナウアーは呆れて首を振った。
「日本の基礎工業力では戦闘機用エンジンは空冷の千馬力級が精一杯、ってとこでしょう。整備性と稼働率の低さを整備員の努力が辛うじて支えてるのです。」
しゃべらせておくと、またぞろ延々と講釈が続きそうなのでガラントは肝心な点に話を変える。
「パイロットの価値が『分かっていても結果は同じ』とはどういう意味だ?」
「軽くしなきゃならないから重くなる防弾装置がないんだと思ってたんですが、防弾ゴムはつけたくてもその技術がないらしいんです。」
そのとおりである。事実、日本で自動消火装置と防弾ゴムが開発され装備されたのは一式陸攻で一九四三年四月、零戦に至っては四四年四月、この時から三年半後のことである。
「機体設計はセンスがいいんですがねえ。」
実際にそれを構成する部品の精度が低かったり、ましてや開発する技術がなければ、総合的な飛行機の性能はガタ落ちになる。
「それじゃ、僕はこれで」
シュミットは珍しく話を短く切り上げた。驚くガラントたちを追い越して、小走りに格納庫に向かっていく。
「あいつ、どこか具合が悪いんじゃないですか」
「いや、早く手伝いたいんだろう。」
たぶん、意気投合した日本の整備兵、南を助けたいのだろう。この種の男は友達を作るのは下手だが、一度信頼すると厚い友情を示すものだ。
最初こそ日本人に煙たがられたシュミットだが、すぐに整備の腕を認められた。あっという間に零戦のクセを飲み込んでしまったのだ。零戦隊は整備員が足りない。猫の手も借りたい状況で、国籍や言語などで腕のいい整備兵を拒んでいられない。
それに、不足する物資はシュミットを通じてガラントに要請すれば、すぐに調達できるのが有難い。日本製品の粗雑さに呆れた顔をするのは勘に障るが、明らかに優れたドイツ製品――例えばプラグを交換するとエンジンは驚くほど滑らかに回り出した――が供給されるのだから我慢のしどころだ。
ガラントは、ふと、いっそ日本人をドイツの新型機に乗せれば、と思い、首を振った。あの誇り高い連中が他国の戦闘機に乗り換えるなど承諾するはずがない。
ともかくも司令室に戻ろう。事務仕事がまだ残っているのだ。煩雑なデスクワークに時間を取られ飛行機を操縦できなくなるのは、ガラントがもっとも避けたい事態である。だからといって書類は彼を逃がしてくれない。日本人への物資供給だけでも事務処理は多くなっているのだ。
『あの大酒飲みどもめ』
ガラントは日本人の酒宴に招かれて酷い目にあった。どこの国でも海軍士官は海外で他国の要人と会合するから、いわば外交官としてのマナーを教育される。日本海軍航空隊士官も普段は折り目正しいのだが、酒が入ると下士官・兵並どころか、蛮族に変わり果てる。
恐ろしい勢いで酒をあおり、怒鳴り、はてはケンカを始める。酔うほどに歌い出すのはドイツ人も同じだが、日本人のは歌よりも叫びに近い。彼らの軍歌らしいのだが勇ましさを強調しすぎたメロディーは、軍人としては穏和なガラントの視聴に耐えるものではない。しかも、いつまでたってもアルコールの消費量が落ちず、飲むほどに乱痴気騒ぎは激しくなる一方だ。
どうも彼らの酒は酔って鬱憤を晴らすためのものなので、酔いの上の醜態は笑って許されるのが日本の習慣らしい。これだけは好きになれない。ガラントは二度と日本人とは酒を飲むまいと決意している。
そう思うそばから、日本の軍歌が聞こえてくる。
海の民なら男なら みんな一度は憧れた
太平洋の黒潮を 共に勇んで行ける日が
来たぞ歓喜の血が燃える
その曲名が「太平洋行進曲」だと、ガラントは知る由もない。知れば皮肉に笑ったかもしれない。ここはフランス、目の前の海は西が大西洋、北東は北海だ。
だが、日本人の心情も酌むべきであろう。故国を遠く離れ、母艦は帰ってしまった。少なからぬ戦友が異国の空に散華している。おまけに機密保持のために基地から出ることすらかなわぬのだ。飲まずにいられようか。歌うほどに胸が締め付けられると分かっていても、故国の歌を歌わずにいられようか。
数日後
カレー基地の正門にトラックが止まる。運転席から身を乗り出したフランス青年が愛想笑いを振りまきながら通行証を振りかざす。
「エミール食料品店です。いつもの配達に来ました。」
片言のドイツ語が通じたのか通じていないのか、詰め所から出てきたドイツ兵が小銃を振る。降りろ、という意味だ。
青年は笑顔のままトラックから降り、通行証を兵に渡す。兵は無言のまま通行証を睨め付ける。荷物を満載したトラックには別の兵が取り付いて不審物がないか調べ始める。
「注文された物しか入ってませんよ」
青年に答えず、兵は念入りに荷物を確認していく。
「いつもより多いけど、それは注文されたからです。ワインとブランデーがいつもの倍なのは、何かあるのですか?」
兵の視線が通行証から青年に写り、鋭さを増す。その表情が『余計なことに興味を持たない方が身のためだぞ』と言っている。
青年の愛想笑いが引きつる。
「僕はドイツが大好きだ。金持ちとユダヤ人にだけ贅沢させるアンリ・ペタン内閣をやっつけてくれたドイツ人が大好きだ。」
露骨なおべんちゃらにも兵の表情は変わらない。再び通行証に目を落とす。
荷物を検査していた兵が荷台から降りて肯く。不審物はない。
兵は通行証を青年に帰すとアゴをしゃくった。行って良しの意味だ。
青年は右手を高く掲げた。兵の小銃を持つ手に力が入る。
「ハイル ヒトラー!」
兵の手が思わず緩む。青年は愛想笑いをまた始めた。
「|Fahr(行け)!」
青年はトラックを走らせる。誰も見る者がいなくなると途端に不機嫌な表情になる。
祖国を占領するドイツ人に媚びるなど、何という屈辱。だがそれも、侵略者を撃退するためだと思えば耐えられる。いや、それだけではない。もっと崇高な目的のために働くのだ。ナチスめ、今に見ていろ。同士スターリンの偉大なる力を思い知る日がきっと来る。共産主義の理念が世界を覆い尽くす日は近いのだ。
理想に燃える青年の熱情は、時に途方もない困難を成し遂げる。軽薄を装った青年は既に基地の調理員と親しくなり、世間話をする振りをして最前線基地内の情報を入手していた。
最近、食料品の注文が増えたのは部隊が増援したからだ。その部隊は兵舎からほとんど出てこないし調理員とも顔を合わせない。見たこともない戦闘機が飛んでいるし、どうも特殊な部隊らしい。
この報告はモスクワにまで届き、やがて情報部極東課の注目を引くことになる。
悪天候の合間を縫って空戦が続く。短期に決戦したいゲーリングの意図は粘り強く迎撃を繰り返すイギリス軍にくじかれていた。
一進一退の攻防戦の中、零戦隊には爆撃機援護、気象観測機の護衛、偵察、戦闘爆撃、多種多様な任務が与えられる。これには源田よりも搭乗員たちが反発したものの、結局は受け入れざるを得なくなる。零戦の優等生ぶりは雷撃以外のあらゆる任務に使えるからだ。
作戦は上手く行くこともあれば、イギリス機の餌食になることもある。いずれにせよ、零戦隊の戦力は出撃の度に削がれていく。
爆撃機の援護は戦闘機パイロットにとって、できれば避けたい任務だ。しかし、一撃離脱、いわば直線的な動きが得意なBf-一〇九には向かいない任務をこなせる機体があるのだから「適材適所」になってしまうのはやむを得ない。Bf-一〇九もF型になって機体の安定性は見違えるほど改善されたものの、小回りの利く零戦の運動性能にはかなわない。この点、ガラントは的確に機体特性を把握していたと云える。
とはいえ、自由に動けないと空戦しにくい、ということにおいては機種による差は程度問題なのだが。爆撃機のパイロットは戦闘機が視界にいれば安心できるものだが、それは自由に飛ぶことによって本領を発揮する戦闘機パイロットにとって、行動を制約されて負担が大きくなることになる。
一〇月七日
駐英大使、吉田茂がイギリス外務省に呼び出されるのは何度目だろう。用件は分かっている、ドーバーで戦闘している「日本海軍欧州派遣義勇軍」の件だ。
日本海軍、ひいては政府も『そのような部隊は日本帝国に存在しない』と表明している以上、日本の外交官である吉田も、どう問いつめられても同じ事を繰り返すしかない。
イギリスとしても、ドイツとの戦争で手一杯で日本と戦いたくないという事情がある。とはいえ、開戦もせずにドイツを支援するために戦闘機部隊を送り込むなどという卑怯な手段――このためにイギリスが受けた被害は甚大である――は黙認できない。日本の不誠実を暴いて外交カードとして使おうというのがイギリスの目的だが、その落としどころは微妙なため、追及はツメを欠いてしまう。吉田もそれを承知しているから、のらりくらりを繰り返す。
イギリス外務大臣アンソニー・イーデンは、在任中おそらくこの時期が最もストレスが高かったであろう。
対する吉田も、ボロを出せば日本はイギリスと交戦状態にあることを認めたことになり、日英は全面戦争に突入しかねないという大きなプレッシャーを受けていた。
それにしても、イギリス諜報部は「欧州派遣義勇軍」の動きを驚くほど正確に把握している。
もっとも、空母まで使って戦闘機を一六〇機余も送り込んで露見しないと考える軍人の方がどうかしている。空母「瑞鶴」の「瑞」はめでたいの意、「鶴」はめでたい鳥だが、吉田にとって軍部はまったくお目出たい連中だ。
その「お目出たい連中」はまたしても吉田を窮地に追い込むマネをやらかしてくれた。
吉田が通された外務省の一室には蓄音機が用意されていた。
「聞いてもらおうか」
イーデンは係官に録音板の再生を指示した。空戦時のスピットファイヤ戦闘機と交戦センターとの通信のようだ。時折、不明瞭ながらも明らかに日本語と分かる音声が混じっている。
『爆撃成功……効果ありと認む』『……帰還せよ』。『……こちらサ一番、了解』
爆撃機援護が終了して帰還する時の交信であると知れる。
敵味方の周波数が偶然同じになってしまい、敵の交信が聞こえることはまれにある。交戦センターの係官がドイツ語に混じって判読不能な音声があるのを機転を利かせて録音したもので、巡り巡って外務省に持ち込まれたのは昨日のことだ。
「もう言い逃れは出来んぞ。この戦闘に貴国の戦闘機隊が参戦しているな。」
「よく聞き取れませんなあ。」
「固有名詞までしっかり日本語が聞き取れるぞ。『サ一番』とは日本海軍の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊長、佐藤大尉のことであろう。」
隊の編成はおろか呼出符号まで筒抜けとは、海軍に機密保持など存在しないのか。これでは外交交渉など出来ない。吉田は苦々しく思うとともに焦りを感じた。
しかし吉田はそんな気配をおくびにも出さず、さらりと答えた。
「|I DON'T KNOW(存じません)」
ある意味、これは正直な返答である。同国人とはいえ、海軍航空隊の編成など外務省、ましてや一外交官である吉田が知る訳がない。
吉田のポーカーフェイスと発音の悪い英語に外務大臣の怒りが爆発した。
「貴官がこれ以上我が国を愚弄する態度を取るならこちらにも覚悟がある。こちらの戦力は整いつつあるのだ。新型機で一気に落としてやるぞ。」
吉田は平然と応える。
「私はドイツが嫌いですから、貴国の活躍はむしろ喜ばしいことです。」
「ぬけぬけとよくも。貴様の国の戦闘機を撃墜すると言っているのだぞ。」
「ですから、我が国の戦闘機は関与していないと申しております。この音声は符号なのですか? 我が国の兵であるという根拠はどこから出てきたのですか?」
「どう聞いても日本語だろうが。それだけじゃない、日本海軍の動きなど全部分かっている。我々を侮るなよ。戦闘機を運んできた「瑞鶴」と「翔鶴」は帰投中であろう。これを捕捉するなど造作もないのだ。容赦なく撃沈してやる。」
「あいにくと文官の私には軍艦の動きなど知らされておりません。我が国の空母が近くにいるのなら、逆に教えていただきたいぐらいです。」
「もういい、帰れ!」
イギリス外務省は怒りのあまり吉田のペースに乗せられ、情報戦の鉄則を破っていた。こちらが敵の情報を把握していると、敵に気付かせてはいけない。情報が露見していると判明すれば敵はその出所を追及して流失元を断つ。苦労して構築した情報ソースが無くなってしまうのだ。しかもイーデンは新型戦闘機が配備されるという重要な情報まで漏らしてしまった。
この時、イギリス外務省は吉田を追及するという手段に夢中になるあまり本来の目的を忘れている。吉田はイギリス情報部の情報源は日本海軍であると確信した。
事実、イギリスの情報源は主に日本海軍の暗号電文であった。
ヨーロッパで用いられる暗号は日本とは比較にならぬほど高度である。特にドイツが使用するエニグマ暗号製作機は歯車と電気信号を組み合わせた複雑な機構で、イギリスはこれを解読するために莫大な経費と人員を投入していた。広大な敷地には軍人だけでなく優秀な言語学者や数学者が集められ、電子計算機まで投入して解読に当たっていた。そんなイギリス軍にとって、乱数表で作成された日本海軍の暗号を解読するなど造作もない作業だ。
ちなみに日本外務省の暗号は、日によって暗号を変えるという単純だが効果的な手法によって機密を保持している。乱数表や機械置換式など考えつく限りの変換方法を用意し、それを毎日変更するのだ。何日にどの暗号を用いるかは月によってランダムに変更するため、その月の順番表を入手しなければ迅速な解読はまず無理である。さすがのイギリス諜報部もこのカラクリには気付かず、個々の暗号は一部解読されたものの全体の突破はついに出来ないままであった。
ただし、この方法は多くの変換方式を用いるために、それを収容する施設が大きくなる欠点がある。外務省のように敷地内で作業する組織はともかく、戦場では簡単に持ち運びができるシステムでなければ運用できないので、軍での採用は無理である。それに、外務省は苦労して作り上げた暗号方式を軍部に教えてやる気など無い……。
イギリス外務省を追い出された吉田は公用車の後部座席に深々と沈み込んだ。疲れた、気苦労ばかり多い官吏などやめて隠遁したいと思う。吉田は既に六二歳、退職する方が自然な年齢である。
『いや、ここで投げ出す訳にはいかない。』
吉田は二年前を思い起こしていた。その時も役人生活に嫌気がさし、六〇歳を契機に引退を決意した。自分がどんなに頑張ってもバカな軍人どもがその努力をぶち壊してくれる、と周囲にこぼしてもいた。その「バカな軍人」は公然と軍を避難する吉田を排斥しようと露骨な圧力をかけてもいた。それに抵抗すべき外務省までもドイツとの接近に同調する勢力が強くなり、イギリスびいきの吉田を煙たがって辞職をちらつかせてもきた。
もう沢山だ、クビになる前にやめてやる。吉田はサジを投げようとしていた。
この経過が、どういう経路か「最後の元老」西園寺公望に聞こえた。吉田は西園寺から書簡で留任を諭された。
『君は不満を言うが、それを正すために全力を尽くしたか。命をかけて職分を全うしたか。国家の非常時に責任ある立場の官僚が自分の都合だけを言って仕事を投げ出してしまうとは何事か。』
吉田は反省して辞表を撤回した。以後、駐英大使を続けている。
とはいえ、この二年間は吉田にとって苦難の連続であった。軍はおろか政府や外務省までが親ドイツ一辺倒に傾倒していったのだ。
吉田にしてみればこんな愚かなことはない。一時的な情勢に惑わされイギリスやアメリカの国力を軽視して開戦すれば、日本は破滅する。なぜそれが分からないのだ? しかし、最近では破竹の快進撃を続けるドイツへの賛同はますます強まり、この期に至ってもドイツ接近に反対する吉田は大使館でも孤立しつつある。
くじけそうになる吉田は自らを励ます。
『西園寺翁、吉田は決して諦めません。全力を尽くします。どうか見ていていてください。』
西園寺公望は先月他界している。
『生きておられたら、この状況を見てどうおっしゃるだろう。』
吉田の物思いは隣に座る秘書副官に遮られた。
「大使、お疲れのようですが、今日はこのまま官邸にお帰りになられては?」
吉田は現実に引き戻される。
「ありがとう。だが、もう一仕事しなければな。大使館に戻ってくれ。」
吉田は葉巻を取り出し秘書官にも勧めた。自分のためにもう一本出し、火をつけようとして、ふと手を止め、運転手にそれを差し出した。
「君もどうだ。毎日遅くまで付き合わせてすまんな。だが、ここらが頑張りどころだ、よろしく頼むぞ。」
名もなき運転手は感激した。
吉田は優れた頭脳を持つと同時に短気なため、理解力が悪い人間に接すると極端に機嫌が悪くなり、「犬より鈍いヤツ」と罵倒して相手にしなくなる悪癖がある。そのため部下に相談することが少なくなり、後には「ワンマン」と非難されるほど何でも自分で決めるようになる。吉田の大使館での孤立はこの気質ゆえでもある。
しかし、本質的には思いやりのある人間で、使用人に対しては気配りを忘れない。この優しさが後に吉田を救うことになるとは、神ならぬ身の知るよしもなかった。
この運転手は偶然知り合った美しいイギリス娘と不倫関係を持つに至るのだが、彼女の叔父と称する男から、姪を傷物にしたと脅される羽目になる。実はこの娘とその叔父はイギリス諜報部の一員で、吉田の周辺を探るために運転手を籠絡しようと画策したのだ。が、葉巻の一件以来、吉田に心酔している運転手は悩んだ末に全てを告白してしまう。
「よく話してくれた。後のことは私に任せたまえ。これからは身を慎むのだぞ。国と国との駆け引きとは、これほどまでに恐ろしいものなのだ。」
運転手に優しい言葉をかけながら、吉田は胸をなで下ろしていた。危ないところであった。この運転手こそ、鹿児島弁の秘密通信をしゃべっている男なのだ。
しかし、イギリスがここまで吉田に勢力を傾けることは、吉田の思うつぼであった。いまやイギリス外務省は完全に目的を失念し、吉田個人に不利益をもたらすという戦局にはなんの関係もない細事に血道を上げている。上手くすればこれを逆手にとってイギリス側の情報をもっと引き出せるかもしれない。
それはもう少し後の話である。
大使館に帰った吉田は海軍の暗号が解読されていると外務省に打電した。多分海軍が外務相の進言を受け入れることはないと思うが、やれることはやるのだ。
吉田からの報告で、事態を重く見た外務省は直ちに海軍省に状況を説明した。だが、海軍はそれを信用しなかった。
いや、正確には信用しなかったのではなく、海軍の暗号は絶対安心だという根拠の薄い希望にしがみついた、というべきであろう。
日本にはドイツのような高い機密性を持つ暗号はない。もし暗号が解読されていると認めたなら、当然、現在使用中の暗号を廃棄して、より高度な暗号を開発しなければならない。が、それを行う人員も装備もない。国力の差だけでなく、極端な官尊民卑に凝り固まった日本軍は何でもかんでも軍で処理しようとするため、暗号構築に必要な言語学や数学の専門家を民間から登用することすら考えない。
結局、海軍は相変わらず乱数表を用いた暗号を使用し続け、主要な情報はイギリスに筒抜けのままとなる。吉田の予想通りであった。
ともあれ、吉田はイギリス外務省でやりとりをカレーの源田に知らせた。
〈RはEの構成とJの動きををよく知っている。Rは新型機を用意している。〉
Rは|イギリス空軍(RAF)、Eは欧州派遣軍、Jは日本の符号だ。
源田は考え込んだ。短期決戦でイギリスを屈服させるもくろみは既に崩れている。この上、更に新型機を投入されてはますます不利になる。我々は撤退する可能性も視野に入れるべきではないのか。
イギリス空軍には空戦の度にそれなりの被害を受けているはずなのに、戦力が枯渇しない。確かに迎撃に上がってくる機数は多くないが、こちらが攻撃するたびに相応の数で対峙してくるのだ。
粘り強く防衛戦を戦うのは熱しやすく冷めやすい日本人には不向きだ。互いに決定的な効果を上げられず、長期戦になる様相が濃くなるほど、日本人はストレスに耐えがたくなる。
もっとも、焦りは源田よりもゲーリングの方がよほど強い。総統に示された一一月末まで、もう時間がない。このままイギリス攻撃を中止しては、もう少しで息の根を止められそうな敵を回復させてしまう。
ゲーリングが苦慮しているのと同様に、イギリス軍も苦しい。たび重なる空戦で戦闘機を増強するどころか、戦力はやっと維持している状況なのだ。
スピットファイヤは新型の高性能でドイツ機の優位に立つつもりが、ドイツの新鋭機Me-一〇九F型はMk.Ⅱと同程度か、むしろ上回る性能を示した。これに対抗するためには更に性能を向上させたMk.Ⅴを早急に実戦投入しなければならない。
生産機種の急激な変更は生産ラインの混乱をもたらす。イギリスの高い生産技術――特にエンジンはこの時期世界一の水準と云って良いだろう――とねばり強さにより、生産過程は何とか整理できるとしても、パイロットの養成が容易ではない。現在は亡命者や義勇兵をかき集め、なんとか数をそろえている状況だ。
イギリス空軍司令官ダウディング大将にとって、一九四〇年一〇月は大戦を通じて最も苦しい時機であったろう。
しかも、本来は迎撃に最も重要な役割を担うべき第一二飛行群司令のマロリー少将はダウディングの迎撃方法に反抗して、何のかのと出撃を渋る。
このまま戦力をすり減らしていけば、いずれは戦線を維持できなくなる。追い詰められたダウディングは思い切った手段に出た。
敵の意表をついて攻撃に出る。ドイツの主要都市を爆撃するのだ。
彼我の損害を比較すると損な作戦である。イギリス爆撃機のほとんど全力を持って爆撃を敢行しても、一度の攻撃ではドイツの生産力にさしたる影響を与えないだろう。逆に被撃墜率は一〇~二〇パーセントと見積もられた。これは今後の戦争継続を考えると容認できない数値である。
しかし、ダウディングの意図は直接的な戦果ではなく、ドイツ空軍の目をイギリス南部攻撃からそらすことにあった。ドイツ本土防衛に戦闘機が配備されれば、その分だけイギリス攻撃に加わる機数は減るはずだ。
一〇月二二日、反対意見を押し切って強行された空襲により、イギリス軍は予想以上の損害を受けた。
特に首都ベルリンを爆撃したイギリス機の被害が大きかった。ドイツ戦闘機の迎撃に加え、悪天候と慣れない夜間爆撃による航法ミスや故障により未帰還機は30パーセントにも達した。これによりイギリス空軍爆撃隊は今後の攻撃はおろか、部隊の再編成すらままならぬ状況に陥った。
捨て身に近い爆撃によりドイツに与えた損害は軽微。攻撃してくる戦闘機を本土防衛に振り向けさせる目的は達せられそうもなかった。
しかし、予想外の事態が起こった。ベルリンを爆撃されたヒトラーは激怒して、直ちにロンドンへの報復爆撃を命じたのだ。結婚しない理由として『ドイツと結婚しているからだ』と公言するヒトラーにとって、最愛の「妻」を傷つけた敵に報復しないなど考えられない。
これにはドイツ軍首脳の方が慌てた。首都爆撃など戦略的にあまり意味がない、それよりも主要な軍港や生産拠点を叩く方が先決なのは明白だからだ。だが、それを聞き入れる独裁者でないことも彼らはよく知っていた。
「では、イギリス攻撃を続行するためにソ連侵攻は延期なさいますか?」
と、尋ねたゲーリングはヒトラーの更に激しい叱責を受けて縮み上がった。
「愚か者、ソ連攻略がこの戦争の目的だと言ったであろう。その基本方針に変更はない。速やかにロンドンを破壊するのだ。」
「天才」ヒトラーの中では祖国愛と敵への憎しみは整合性が取れているのだろうが、「愚か者」ゲーリングにはその不可思議さは理解しがたい。
一一月三日、ロンドン空襲は強行された。
やる前から十分な効果は上がらないだろうと見積もられていた。沿岸部分の主要港爆撃ですら早期に察知されて迎撃されてしまうのだ。更にイギリス内部への爆撃、それも首都への攻撃と察知したイギリス軍は長い進撃の間中、波状攻撃をかけてくるだろう。しかもこの距離だと爆撃機を援護できる戦闘機は新型のBf-一〇九F型と日本の零ぐらいで、充分な数がそろわない。
案の定、首都爆撃はイギリスの経戦能力にさしたる影響を与えなかった。ロンドン市街の五分の一程度を炎上させたのは、むしろ予想以上の戦果といえる。
イギリス国内で注目を集めたのは爆撃の被害より、一部が炎上した王宮についての皇太子妃のコメントである。
『王室も市民と苦労をともにしております』
美しい皇太子妃の凛とした発言にイギリス市民の交戦意欲は燃え上がり、まさに死にものぐるいで働く工員――その多くがまだ若い女性たちだ――の献身により、戦闘機の生産が一時的とはいえ一〇パーセントも上昇した。
源田は鹿児島弁通信でそれを知った。
もし東京が爆撃されて陛下のおられる宮城に被害が出たとしたら、軍は責任者の更迭ぐらいではすまされない。文字どおり首が飛ぶ。ところが、イギリス王室はその責任を問うどころか戦意高揚に結びつけてしまう。イギリス人は爆撃で受けた被害が大きければ、かえって敵愾心をもやすのだろう。
『なんて連中だ。俺たちはとんでもないやつらと戦争を始めてしまったようだ。』
源田は恐怖した。
(第五章に続く)
次章 撤退




