第3章 出撃
基本的に海軍航空隊は空母から作戦行動すると想定されているから、空母からの離発着が無理な夜間は飛ばない。だから夜が明ける朝六時は空母艦載機にとって発進の最も早い時間帯となる。そういった意味からもこの作戦開始はギリギリの時間である。
搭乗員たちは早くからの飛行に備えて充分に休息し、早く就寝するように申し渡された。逆に整備兵は朝一番で万全の状態とするために徹夜で零戦を整備していた。
そのため「瑞鶴」艦内は喧噪に満たされ、とても休憩し、ましてや眠れる状態ではなかった。それでなくても出撃前で気が立っているのだ。起き出して整備を手伝おうと格納庫に入った搭乗員は、待ちかまえていた源田参謀につまみ出された。
「眠れないなら横になるだけでもいい。ちゃんと休んでおかないと死ぬぞ。」
いくら搭乗員の身体が頑強だと云っても、遠距離航海で熱波を越えてきた疲労は溜まっているはずだ。明日の長距離飛行に影響がないはずはないのだ。出撃前に少しでも疲労回復を図らなければならない。休養を取ったかどうかの差が判断力や動作の敏捷さに与える影響はわずかかもしれない。だが、その差が生死を分けることがある。
搭乗員たちは不満げに源田を見る。そう言われても若いうちは納得できないものだ。源田にも似たような経験があるから分かる。だが、源田の場合は戦闘ではなく曲芸飛行であったから、墜落する危険は大きくても撃墜されることはない。だから少々の無理をしても生きることが出来た。明日は敵の銃撃にさらされる彼らを死なさないためには、どうあっても服従させねばならない。
「興奮して眠れんのか。そういう時はなあ……」
源田はニヤリと笑った。
「マスでもかいてろ!」
本来なら搭乗員たちを監督するのは隊長である佐藤大尉の役目だ。が、佐藤にも休息し、眠る義務がある。源田もそれは心得ているから自分で搭乗員たちを見張っているのだ。
明日は全機が佐藤に従って飛ぶから、佐藤が進路を誤れば部隊は戦わずして全滅してしまう。その重圧はさすがの佐藤も感じる。
早めの夕食の後、源田は佐藤を呼び出した。
「佐藤大尉、本当に大丈夫か」
作戦を立案して承認された今になって何を言い出すのか。この参謀らしくもない。佐藤はやや呆れた。が、源田にとっても、この作戦に不安はあるのだ。
「航行そのものはさほど心配しておりません、要所要所に目標がありますから。長距離飛行による疲労はありますが、まあ、何とかなるでしょう。
問題は会敵できるかどうかです。ドーバー上空でドイツ空軍と合流して一斉に攻め込むのがよいのですが、それより遅れると面倒です。
ドイツの戦闘機は航続距離が短いから、必然的に戦闘時間は短くなります。戦闘終了後に到着しても我々はイギリス上空をただ飛ぶだけとなります。それでは無理して飛んでいく意味がなくなります。自分としては戦闘開始前に飛び込むか、ドイツ空軍が引き上げた直後に残留しているイギリス空軍と単独で空戦を行う方がまだマシだと考えています。単独で戦うのは戦力としては不利ですが、連携を取る苦労はなくなりますから、かえって戦いやすくなるでしょう。
気になるのは着陸予定のカレーに我々が降りられるスペースがあるかどうかですな。」
そう言って佐藤は笑った。カレーの飛行場は一六二機もの戦闘機が直陸できるほどの大規模な施設なのか、行って確かめた者は誰もいないのだ。
「大丈夫だ。最前線とはいえイギリス軍にドイツを攻撃できる余裕はない。カレーの飛行場はどんどん拡張工事が進んでいるそうだ。」
源田は答えた。日本を出航する前の情報ながら、情勢に大きな変化があったとは思えない。
「空戦そのものは、敵の戦力、特にスピットファイヤの実力が不明なので、やってみなければ分かりません。零式の性能と我々の技量は信じるに足ると思っとりますが。」
思い悩んでも結果はよくなることはない。ならば出来ることをやった後は、さっさと寝てしまった方がいい。明日の長距離飛行に備えて、佐藤は何度もイメージトレーニングを繰り返し、航路を頭にたたき込んだ。後は寝て、明日は明日の話だ。
「今夜早くに寝るので、夜食を食べられないのが残念です。」
源田は笑った。日本海軍の艦艇は夕食の後に夜食が出るので、一日四食となる。夜食は軽めながら内容が良いのが通例だ。
橋本も整備員以上に眠るどころではなかった。明日、搭乗員たちが進路を書き込むチャートの準備に追われていたのだ。本来なら、これは信号員である橋本の仕事ではない。しかし、人手が足りないのでそんなことは云ってられない。航海参謀の手伝いで海図を扱っているから出来るだろうと駆り出されたのだ。
まさか一五〇〇キロもの長距離飛行をするとは考えてもいなかったので、そんなチャートは用意がない。おまけに全機で八一機分を用意しなければならない。後世のコピー機なんて便利な道具はあるはずもない。手書きでトレースしていくしかないのだ。
午前五時三〇分、艦隊はリスボン北、ロカ岬沖の戦闘機発進予定域に到着した。ここから交戦域のドーバー海峡まで約一五〇〇キロ。
発進準備はすべて調った。整備兵の献身は零式艦戦を最上の状態に持ち上げている。後は搭乗員が乗り込んで発進するばかりだ。
佐藤は愛機に寄り添い記念写真を撮らせている。南がドイツ機と同じ塗装に塗り直した零戦は真新しい塗料が美しい。
「南、ドイツの連中は本当にこんな派手な色使いの機体に乗ってるのか? これじゃ迷彩どころか、わざと目立つようにしてるとしか思えんのだが。」
「はあ、自分もそう思うのでありますが、源田参謀に見せていただいた資料にあった指揮官機の天然色写真はこうなのです。艦内でそろう塗料を調合して塗りましたから若干色合いは違うかもしれませんが、そんなに間違っていないはずです。どうも主翼の裏側も翼端は明るい色のようなのですが、それはよく見えませんでした。」
佐藤が言うのも無理はない。全体を灰色と濃緑色で塗り分けているのはともかく、機首とスピナーは鮮やかな黄色なのだ。
「写真では胴体に斧と銃を持ったネズミのポンチ絵がありまして……」
「やめてくれ。いくらなんでも戦闘機にネズミはねえだろ。ドイツ人は変だぜ。イギリス人が猫でも描いたらどうするつもりなんだ。」
搭乗員たちは笑った。そもそも日本軍には極一部を除き、パーソナルマークを描く習慣すらない。
佐藤はおどけてカメラに向かってナチス式の敬礼などやっている。
「隊長、写しますよ。本当にそのポーズでいいんですか。」
佐藤の二番機、松井一飛曹が声をかける。
「いや、待て。」
あれこれ姿勢を変え、結局、佐藤は普通に立った姿でカメラに収まった。
「総員その場で聞け、司令からの訓辞がある」
源田の声が格納庫に響く。本来なら搭乗員だけでなく全員を甲板に整列させて訓示すべきだろうが、その時間も惜しい。横川は前に出る。
「諸君、ついにこの日が来た。はるばる欧州までやってきた苦労が報われるときが来たのだ。敵は名だたるイギリス空軍である。しかし、諸君らの実力を持ってすれば恐れるに足らぬ。天佑我にあり。存分に戦って欲しい。以上だ。」
「かかれ!」
搭乗員たちは一斉に愛機へ走る。零戦は次々とエレベーターで甲板に持ち上げられ、順次発進していく。手すきの者は帽子を振り、声援を送る。
もう零戦隊は「瑞鶴」に帰ってこない。彼らはカレーに降り立ち、艦隊はルアーブルに寄港するのだ。撃墜され、もう二度と会うことができなくなる者もいるかもしれない。乗組員たちは力の限り帽子を振った。
もし天佑というものがあるのなら、この日、天は日本人の一途さに力添えしたのだろう。秋のヨーロッパは天候が不順であるもかかわらず、この日はビスケー湾からドーバーにかけて雲一つない快晴となった。彼らはチャートに示された目標を明確に識別し、誤ることなく予定の航路を飛行していった。
一五〇〇キロ、三時間の飛行で疲労がないといえば嘘になる。しかし、使命感と緊張はそれを物ともせず、零戦隊は交戦域に接近していった。
「見えた」
佐藤は敵発見を知らせるため機体をバンクさせた。すでに目のよい者は気がついているのだろう。前方を指さす者もいる。
「もう始まっている」
近づくにつれ、状況が分かってくる。ドイツ軍の戦闘機Bf-一〇九がHe一一一やJu八七といった爆撃機を護衛している。対するイギリス軍はスピットファイヤやハリケーンが戦闘機の護衛を突破して爆撃機に襲いかかろうとして、すでに乱戦となっている。
それにしても、何という数だ。両軍合わせて数百機にはなろうか。
佐藤は知るよしもなかったが、戦闘は彼らが遭遇した地域だけでなく、その東でも激しい空中戦が戦われており、この日の戦闘参加機数は一〇〇〇を超えていた。
「あの中に飛び込むのか」
さすがの佐藤も生唾を飲み込んだ。しかし、これは好機だ。両軍の戦闘はほぼ互角に見える。そこに我々が突入すれば、ドイツ軍は俄然有利となるに違いない。
その時、佐藤は三番機の小八重一飛曹の零戦がまだ増槽をつけたままなのに気がついた。とうに空になっているはずななのに、捨てるのを忘れているのだろう。
佐藤は手振りでそれを教える。小八重が慌てて操作するのが見える。右手を眼前に立て何度も頭を下げて謝っている。佐藤は「馬鹿野郎」と殴る仕種を返す。
同じように増槽を落とす零戦が何機もある。やはり長距離飛行で緊張しているのだ。
佐藤は『肩の力を抜け』とばかりに両肩を上げ下げする。真似して幾人もの搭乗員が肩を回す。
「よし、行くか」
佐藤は艦隊に向け無電で突撃の符号である「ト」連呼を発進し、機体を小刻みにバンクさせて突入を列記に合図する。スロットルを全開にして戦闘空域に突入、全機がそれに続く。
すでに混戦になっていた戦闘は零戦隊一六二機の突入で更に混乱した。
Bf-一〇九を追いかけるスピットファイヤの後方から零戦が迫る。スピットファイヤが振り切ったかと思うと別の零戦が突っ込んでくる。丸っこい零戦を英国機と勘違いして追いかけていたBf-109が鉄十字を見て友軍と気が付き、慌てて追撃を中止すると、そこをスピットファイヤが襲いかかり、それを更に零戦が狙う。
周囲に気を配らないと空中衝突しかねないほどの混戦となった。目の前に飛び込んできたのが敵機なら撃つ。味方なら回避する。とても三機編隊を維持できる状態にない。
「参謀、機種識別訓練は役に立ってます」
いつの間にか分隊長機とはぐれてしまった田所は、それでも落ち着いていた。敵味方が分かるのと分からないのとでは大違いだ。心に余裕があると敵の動きも予測できるように感じる。
眼前に飛び込んできたのはハリケーンだ。まだ自分に気付いていないようだ。絶好の射撃位置、いや、二〇ミリではやや遠いか。田所は機首の七.七ミリ機銃を発射した。
撃たれたハリケーンは自機に銃弾が当たってから後に敵機がいることに気付いたようだ。あわてて急降下して逃げる。
田所は深追いを避けた。こういう時に一機に集中するのは危険だ。見張りだ、何より見張りが大事だ。田所は周囲を見る。
案の定、後上方からスピットファイヤが降下してくる。早い。田所は急旋回をかけた。スピットファイヤは追尾してくる。そのまま旋回を続けるとついてこない。よし、旋回性能はこっちが上だ。
零戦隊を加えて数で有利になったドイツ軍は次第に優勢になっていく。イギリス軍はドイツ爆撃機を迎撃するどころでなくなり、戦闘機同士の空戦に精一杯となり、やがてそれも追い詰められていく。
その隙にドイツ爆撃機は爆撃コースにはいる。狙いは沿岸の艦艇と砲台だ。これらを叩いて上陸作戦の障害を取り除くのが彼らの任務だ。He一一一やJu八七は次々に投弾し、空中からの援護が受けられない砲台や艦艇に次々と爆弾を命中させる。対空砲座からの激しい銃撃を受け撃墜される爆撃機もあるが、ほとんどの機は攻撃を成功させ無事に去っていく。
それを見たイギリス機は更に浮き足立つ。
佐藤機にピタリと後を取られたスピットファイヤはダイブして逃げ出した。早い。このままでは逃げ切られる。
佐藤は機首の七.七ミリ機銃を発射した。当たらなくてもいい。敵を牽制するのが目的だ。佐藤のもくろみ通り、前方のスピットファイヤは慌てて右に左にと激しく回避運動を始めた。佐藤はほくそ笑んだ。この無駄な機動の間に佐藤機は間合いを詰める。
「馬鹿め、こういうときは一目散に逃げるんだ。」
はやる気持ちを抑え、スピットファイヤが照準機一杯に広がるまで思い切り接近する。頃合いよし。佐藤は両翼の20ミリ機銃を放つ。狙い違わず、曳航弾が主翼付け根に吸い込まれていく。次の瞬間、主翼に大穴が開き、胴体からは炎が吹き出した。命中したのは徹甲弾と焼夷弾だったのだろう。スピットファイヤは四散して、燃えながら落ちていく。
「一撃でこれか」
攻撃した佐藤もその威力に驚いた。なるほど、航空廠あたりが無理矢理でも搭載させたくなるわけだ。命中させるのは大変だが……。
その周囲でも、零戦やBf-一〇九が次々とイギリス機を撃墜していく。スピットファイヤやハリケーンは旋回して逃げようとすれば零戦に回り込まれ、後方から迫ればひらりとかわされる。
岩井機の正面からスピットファイアが銃撃しながら接近してくる。恐怖に駆られたのだろう、遮二無二突っ込んでくるのだ。
「こいつは未熟者だな」
岩井はほくそ笑んだ。興奮してむやみに撃ちまくるヤツは大した技量ではない。反対に命中するタイミングまで発射しないパイロットは要注意だ。
正面の敵は盛大に無駄弾をばらまいている。こういう射撃はそうそう当たるものではない。とはいえ、八挺もの火線に飛び込んでいく馬鹿はいない。岩井はやり過ごした。
互いに戦闘速度で飛行しているのだ。零戦とスピットファイヤはたちまちすれ違う。
「見てろよ」
岩井は太陽と敵機の位置を確認すると操縦桿をグッと引いた。零戦は上昇し、更に反転する。機体が海面と水平よりやや斜めになるころを見計らって操縦桿を戻す。背面飛行のまま進路を反転した岩井の斜め下前方に先ほどのスピットファイヤが見える。ここでハーフロールを打って機体を背面から戻す。太陽が上にある、すなわち機体が正常な方向で飛行していることを確認して降下にはいる。
敵機はまだ、岩井が斜め後ろ後方に回り込んだことに気付かない。岩井は降下を利用した加速でたちまち射撃位置に迫る。
『ジャック、後だ!』
警告が無線から聞こえたときはもう遅い。スピットファイヤの風防上部に取り付けられたバックミラーから機影がはみ出すほど零戦は接近していた。その両翼から放たれた火線は自機のものより数倍太いと感じた瞬間に、そのパイロットの意識は永遠に閉ざされた。
キャノピーのアクリルを易々と貫通してコクピットに飛び込んだ二〇ミリ機銃弾は、そのままパイロットの後頭部から顔面に突き抜けた。金属製の飛行機すら引き裂く銃弾に貫かれた頭はひとたまりもなく炸裂し、コクピットに血と脳漿を飛び散らした。
主翼に命中した弾丸は大穴を開け、楕円型の美しい翼は根本からちぎれた。
操縦者と翼を失った機体がフラフラと舞い落ちたのは数瞬であった。漏れだした航空燃料に引火した機体は紙くずのように燃え落ちていった。
「インメルマンターンだと」
ダグラス・バーダーは驚愕した。先の大戦でドイツ人が考案したと云われる高等飛行術を日本人が鮮やかにやって見せた。しかも、あの機関砲の威力は二〇ミリであろう。イギリスでは未だ不具合が多く、ようやく実用化にこぎ着けつつある大口径銃をあの戦闘機は装備している。イギリス人こそは世界でもっとも優秀であると信じるバーダーにとって、その新鋭機であるスピットファイヤがこうも鮮やかに撃墜されるなど、信じがたい事態であった。
「どうだ、イギリス野郎。」
岩井は得意の絶頂であった。
「あの馬鹿……」
佐藤は苦り切った。インメルマンターンはすれ違った敵に素早く迫れる利点があるが、反転時に速度が落ちるから失速しやすく、フラフラになったところを別の敵に狙われたら逃げられない欠点を持つ。この乱戦では危険な飛行といえる。
「降りたらぶん殴ってやる」
しかし、佐藤の目から見ても見事なインメルマンターンであった。操縦技量が優れているのは間違いない。岩井はこれでもう三機も撃墜している
空戦の勝敗は決した。鉄十字の飛行機は縦横無尽に空を駆け、蛇の目の戦闘機は逃げまどうばかりだ。
「ダイブして逃げろ。このままでは全滅する。」
「だめです。周囲は敵だらけです」
イギリス空軍機の悲痛な無線が飛び交う。
その中で、一編隊、三機のスピットファイヤが果敢にドイツ機に挑んでいった。しかし、たちまちBf-109に取り囲まれ、銃弾を浴びせられる。戦闘の隊長機は巧みに射撃をかわすが、次々に飛来するBf-一〇九や零戦をかわしきれず、被弾し戦闘力を削がれていく。
「この間に逃げろ」
既に二番機は撃墜され、三番機も煙を噴いている。それでも編隊長は逃げず、零戦に銃弾を浴びせ、Bf-一〇九の突撃をかわす。
生き残ったわずかのスピットファイヤとハリケーンはひたすら逃げる。その後方で勇敢な編隊長機は遂に力尽き、燃えさかる炎とともに墜落していった。
「この屈辱は必ず果たす」
ハリケーンのコクピットで、ニュージーランド出身のデズモンド・スコット大尉は血が滲むほど唇を噛みしめた。
ドイツ空軍も引き上げていく。Bf-一〇九の航続距離では、フランスからドーバーを越えて飛行すれば一〇分も空戦できないのだ。それに合わせて零戦隊もフランス、カレーに向かう。いくら航続距離が長い零戦といっても、一五〇〇キロも飛行して空戦すれば燃料が心配になる。
佐藤を先頭に零戦隊は集結する。佐藤は編隊を確認する。被弾したのか、ぎこちない飛び方をする者もいる。それより編隊が何機か欠けている。優位な戦いであっても戦争をしているのだ、死ぬ者も出る。
しかし、撃墜した敵の方が断然多い。半分の兵力を失えば全滅と称するのだから、今日はイギリス軍に壊滅的被害を与えたといっていい。大勝利だ。
ドーバー海峡での大空戦がドイツ軍の勝利に終わった翌日、スペインのサンマチュー岬沖の「翔鶴」から九九艦爆が発進しようとしていた。
操縦する奥宮少佐は入念にチェックを行っていた。これからルアーブルのドイツ軍第二航空艦隊に支援を要請する任務は重要である。失敗すれば「翔鶴」と「瑞鶴」は航空支援がないままにイギリスの眼前を航行しなければならなくなる。
もっとも支援要請は後席に座った源田中佐が行うのだが。パイロットである上官を後席に乗せるのは変な気分だが、戦闘機乗りに爆撃機を操縦させるわけにもいかない。
奥宮はふと、兵学校を卒業して航空隊に進んだ頃を思い出した。これからは飛行機、わけても敵艦に爆弾をぶつける爆撃機の時代だ。爆撃機は前席の操縦者より爆撃の指示を出す後席の偵察院の方が重要だ。そう考えて偵察員を希望したのだが、適性検査で操縦者に回された。しかし不満だからといって訓練を怠けるなど、奥宮の生真面目さが許さなかった。むしろ一層熱心に訓練や任務に励んだ。
だから奥宮は腕利き揃いの日本海軍爆撃機隊の中でも、神業ともいわれるほろ正確な操縦をするに至った。だが、生真面目なゆえに、こういう場面では不安になる。希望していない操縦員になった自分は、実は向いていないのではないか。大事なところで失敗するのではないか。
そう、もし自分が操縦を誤れば欧州派遣軍は司令官である源田を着任前に失うことになる。奥宮ならずとも緊張しようというものだ。
「副長、そう固くならず、軽く行こう。ルアーブルは魚料理が美味いそうだ。今晩は上陸祝に名産のリンゴ酒かフランスワインで乾杯しよう。」
後席から源田の落ち着いた声が聞こえる。今晩は酒を飲むどころではないかもしれない。けれど、気分を軽くしようと、わざと軽口を叩く気遣いが嬉しかった。そういう優しさは人を落ち着かせるものだ。
「了解。行きます。」
奥宮は両手を開く仕種で甲板員に車輪止めを外すよう指示した。兵はきびきびとした動きで作業を終えて走り去る。
兵の見るところ、奥宮は操縦を誤るどころか、その技量は卓越している。
安定性に欠けるため改修を繰り返したものの、結局は操縦性に難があるままに正式採用された九九艦爆を全くふらつかせることもなく飛ばすだけでも大したものだ。特に着陸は文句の付けようがない。判で押したような正確な旋回から空母の後部に機体を持ってきたかと思うと、これまた正確な位置に三点直陸を決め、ピタリと停止する。これは戦闘機隊の誰の操縦より、見ていて安心感がある。
甲板員たちは支援要請が成功するかより、もう、この惚れ惚れするような操縦が見られなくなる、と思うことのほうが寂しかった。
奥宮はルアーブルまで的確な操縦をした。しかし源田と奥宮の支援要請は不調であった。ルアーブルで彼らの応対をした士官は、自分にはその権限がないと繰り返すばかりで話が進まないのだ。
やむを得ず、二人は第二航空艦隊司令部のあるベルギーのブリュッセルに飛ぶ。給油だけはできた。源田がなかば強奪したようなものだったが。
ルアーブルから北東に三〇〇キロあまり、ブリュッセルはドイルに占領される前はベルギー王国の首都であり、ヨーロッパの主要な都市として繁栄している。ここはヨーロッパでもっとも料理店が多い美食の町として知られている。が、さすがに源田もそんな軽口を飛ばす余裕はないようだ。
源田は第二航空艦隊司令官、アルベルト・ケッセルリングと押し問答を繰り返している。ケッセルリングは爆撃機出動を承諾しないのだ。
無理もない。冷静に考えれば、いくら友軍とはいえ、いきなり他国の航空隊に押しかけてきて、援護のために爆撃機を出してくれと頼む方が無茶だ。そもそもドイツ空軍は陸軍を支援する戦略で構成されているから、これまで航行中の艦艇を攻撃した経験は極めて少ない。無理をすれば対空放火の餌食になりかねない攻撃など、簡単に引き受けられない。
「微笑みのアルベルト」とあだ名されるケッセルリングは穏やかに受け答えをしているが、内心は怒っているのかもしれない。がんとして要請を聞き入れそうにない。
しかし源田も引き下がる訳にはいかない。駆け引きやディベートを駆使して要求を続ける。日本人ははるばるユーラシア大陸の反対側までドイツを助けに来たのに、ドイツ人はわずか二〇〇キロの距離で助けに出られないというのか。
司令官同士の交渉ごとは自分には向いていないと思う奥宮は、飛行場でスツーカのパイロット、ルデル少尉を捕まえて説得にかかった。とはいえ、こちらも簡単に説得できるはずもない。
「ここからですと戦闘機の護衛がつけられない。イギリス軍が戦闘機を繰り出してきたら、こっちがやられてしまいます。」
「カレーに我々の戦闘機がいる。呼び寄せて上空で合流するなりすればいい。」
「いきなり他国の戦闘機と連携を取れって言うんですか。無理ですよ。」
ああ言えばこう言う。この分からずやめ。こんな不毛な会話をしている間にも「翔鶴」と「瑞鶴」は攻撃されているかもしれないのだ。
「では、せめて爆弾を譲ってもらえないか。私の爆撃機に積むから。」
「そりゃダメだ。規格が違うから装着できんませんよ。」
どうあっても飛べんと言うのか。奥宮は激昂した。
「どうしても諸君らが飛べないというなら、そのスツーカを貸してくれ。私が行く。」
「一機でかい。貴官に急降下爆撃が出来るのか? 経験は?」
ルデルの言葉には嘲りが滲む。金色の参謀肩章を吊った、いかにも高級将校といった風体の少佐、それも日本人に高度な技量が要求されるドイツの急降下爆撃機の操縦など出来るものか。しかも目標は全速航行している艦艇だ。
「俺はバネー号を撃沈した」
奥宮は短く答えた。
「あなたは、まさか……」
一九三七年一二月、アメリカの砲艦バネー号ほか三隻を二四機の日本海軍機が爆撃沈した。中国船と見誤ったための誤爆だったのだが、『日本軍がアメリカ艦艇を攻撃した』事件は欧州でも大きく報道された。政治的な問題はともかく、航空関係者の間では、小さな砲艦に命中、撃沈させたことで、これまで侮っていた日本軍航空隊の技量を見直すことになった事件でもある。
この時、奥宮は九六式艦爆六機を指揮していた。彼の機はイギリス船まで誤爆したが、これは外れている。
「今度は間違えずにイギリスのフネに当ててやる。俺は貴官より艦艇攻撃の経験はある。どけ。」
なめたことを言うとただじゃおかないとばかりに、軍刀を抜きかねない勢いで奥宮は迫る。海軍の搭乗員は普通、機内に軍刀を持ち込まない。鉄の塊がコンパスを狂わせかねないからだ。それを無理して持ち込んだのは、儀礼上必要だとの判断だ。まさかこういう事態になるとは奥宮も考えていなかったものの、こうなったら後には引けない。
ルデルは脂汗をかいた。脅しではなく、この男は本気でやりかねない。こいつは机の上で作戦を練ってる将校じゃない、本物の爆撃機乗りだ。そう言えば後席に乗っていた大佐は日本では高名な飛行機乗りだと聞いた。こいつらは本当にイギリス艦艇への攻撃を成功させかねない。
「よしてくれ。東洋から来た客人にそこまで手柄をさらわれちゃ、ドイツ空軍の名折れだ。いいだろう、俺たちだって艦艇攻撃ができることを見せてやる。」
「瑞鶴」と「翔鶴」はイギリス海峡に入り、シェルブールの沖にあった。
「八時方向、一隻、接近する艦があります」
やはり来たか。横川は双眼鏡をのぞき込んだ。目的地、ルアーブルまであと僅か、このまま航海が終わるかとも思われたが、ブリテン島に再接近するこの位置で、ついに捕捉されたようだ。
「よく探せ、一隻ってこととはないはずだ。それと、接近する艦の識別を急げ。」
やがて報告が入る。
「イギリス海軍、E級駆逐艦と思われます。他に艦影はありません。単艦です。」
なぜ駆逐艦一隻で攻撃してくるのか分からない。だが、それでも脅威であることに変わりはない。
『新型だな。』
佐藤は心の中で舌打ちした。E級駆逐艦の最高速は時速六七キロ。「翔鶴」型は空母としては高速を誇るとはいえ、最高速は毎時六三キロだから逃げ切れない。
事実、駆逐艦との距離は詰まってくる。
「敵艦、転進。本艦と同方向に進路を取ります。」
『やはりな』
「瑞鶴」と「翔鶴」はコタンタン半島沖をルアーブルに向けて南東に航行している。イギリス駆逐艦はそれに併走する形で攻撃してくるつもりだろう。
それを避けるためには、こちらは南に転進すればよいのだが、いかんせん、半島近くを航行しているために南に進むには限度がある。かといって北に転進すれば敵艦に接近してしまうばかりでなく、フランスに逃げ込めなくなって敵の思うつぼだ。南西に進むしかない。
「雷跡に注意しろ。」
セオリー通りなら横から魚雷を撃ってくる。横川はそう読んだ。が、それはいつだ。思い切り接近されたら回避は難しい。護衛艦艇はおろか艦載機が一機もない空母では反撃手段はない。ただ逃げるだけだ。
とはいえ、横川は高揚していた。『軍隊の本分は戦闘にあり』。不本意な輸送任務は終わった。たとえそれが不利な状況であろうと、自分は今、「本分」を尽くしている。
「来ました、雷数8」
E級駆逐艦は四連装魚雷発射管を2器搭載しているから、全門を一度に発射したことになる。
「よし、まだ遠い。回避できる。面舵」
重い船体が左に向かう。
魚雷は目標艦の横腹を狙い、目標が転進、あるいは増速か減速してもいずれかが命中するように複数を同時に発射するのが定石だ。一度に多く発射すれば、それだけ命中する確率は高くなるが、外れたときは次に発射できる数が少なくなる。この時、イギリス駆逐艦の艦長は一撃で敵にダメージを与える方を選択したのだ。喫水線に穴を開ける魚雷の威力は大きいが、そうそう当たるものではない。ましてや、イギリス艦は一隻だ。
通常、駆逐艦が単艦で行動することなどない。数隻から一斉に魚雷を発射されたら、下手な鉄砲も何とやら、それだけ脅威が増すのだが。
ともあれ、魚雷から回避するには、魚雷の進行方向と同じ向きに船体を向けて目標にされる面積を減らすのが、これまた定石だ。
この場合、「瑞鶴」の左側から魚雷が迫っているから、右に転進して避けなければならない。しかし、これほどの大型艦だと舵の効きが遅い。それを補うため、まず反対方向に舵を切る、いわゆる当て舵を利かせてから目的の方向に転舵するのだ。
ただし、そのタイミングは微妙で艦によってクセが違うから、下手をすると逆効果になる。それを上手く制御するには艦長の経験がものを云う。
「よし、今だ。取り舵一杯。」
「瑞鶴」は急速に右に曲がり始める。艦は旋回の外側に引っ張られ、艦橋は左に傾斜する。艦橋の右壁に設置された信号灯用電鍵を操作していた橋本が後にひっくり返るほど、その傾斜は急で大きかった。
基準排水量二五,六七五トンの船体がきしむかと思えるほど、「瑞鶴」は急激に回頭していく。
「舵戻せ」
「瑞鶴」は魚雷は平行に進み始める。やがて船体の左右を魚雷の白い航跡が追い抜いていく。
「ただいまの魚雷はすべて回避せり」
艦内は歓声に包まれた。僚艦「翔鶴」にも被害なし。
「よおし、次は砲撃が来るぞ」
雷撃をかわされた駆逐艦は更に接近してくる。「瑞鶴」「翔鶴」はルアーブルに進路を戻して全速で走る。しかし、優速な駆逐艦との距離はじりじりと詰まってくる。
「敵艦、発砲」
後続の「翔鶴」の更に後に水柱が立つ。まだ射程が足りない。駆逐艦も焦っているのだ。これほど高速の大型艦を相手にしたことはあるまい。
「艦長、回避運動は?」
「うろうろ逃げるとかえって距離を詰められる。それこそ敵の思うつぼだ。大丈夫、駆逐艦の豆鉄砲程度じゃ本艦は沈まん。」
燃料もギリギリなのだ。迂闊に回避運動を取れば燃料切れになる恐れがある。
E級の砲は一二センチ四五口径。瑞鶴の連装高角砲が一二.七センチ四〇口径だから横川が「豆鉄砲」と卑下するのも的はずれではない。当たっても無傷という訳ではないが。
「翔鶴、被弾」
飛行甲板には装甲がない。弾が当たれば穴が開く。
「翔鶴より発光信号、『われ被弾するも損害軽微、航行に支障なし。』」
しかし砲撃というものは、最初はなかなか当たらなくても一度命中すれば、後は同じように撃てば次々に命中する。何発も命中すれば被害は拡大する。「翔鶴」の火災はみるみる拡大していく。
「翔鶴」「瑞鶴」とも高角砲で反撃するが、いかんせん対空砲では後方から接近する水上艦艇への攻撃は難しい。
『このままではなぶり殺しにされる。たかが一隻の駆逐艦に。』
イギリスはこちらに攻撃手段がないことを知っているのだ。
「一〇時方向に飛行編隊」
横川は双眼鏡をのぞき込む。ドイツ空軍のスツーカ爆撃機だ。間に合った。
スツーカ編隊の長機は、『後は任せろ』と言わんばかりに「瑞鶴」の上空でバンクしてイギリス駆逐艦に向かう。
駆逐艦から対空砲が撃ち上がる。スツーカは次々に急降下に入る。有名なサイレン音はさすがにここまでは聞こえないが、直下のイギリス水平はさぞ恐怖心を煽られているだろう。一方的に攻撃していた立場が逆転したのだ。
駆逐艦の対空機銃は狂ったように銃弾を打ち上げる。もはや空母を追うどころではない。激しく回避運動も取りはじめた。
「瑞鶴」「翔鶴」はこの間に逃げる。イギリス間の周囲に次々に水柱が立ち、その衝撃で駆逐艦がもまれるのが「瑞鶴」からも見える。
だか結局、この爆撃は一発も命中することなく終わった。
「ヘタクソ」
横川が思わずつぶやき、「瑞鶴」の艦橋は笑いに包まれた。しかし、スツーカ部隊は日本空母を逃がす目的は果たしたのだから、悪口を言うべきではないだろう。
二空母はようやくルアーブルへ寄港した。後で調べたら、もうあと一時間も全力運転を続けていれば燃料切れになる際どいタイミングであった。
「翔鶴」の火災は入港後にようやく鎮火した。直ちに補修作業に入ったが、しばらくは動かせそうにない。ドイツには建造中止となったグラーフチェッペリンを除けば空母はないから、飛行甲板用の補修部品などない。応急修理で我慢するしかないだろう。
それよりも異国での補充が利かないのが人員である。砲撃と火災により翔鶴は二〇名の戦死者をだした。
「『行きはよいよい、帰りは恐い』か。行きも良くはなかったがな。」
雀部は思わずつぶやいた。もはや「瑞鶴」「翔鶴」ははっきりとイギリスに敵と認識されているから、帰路はもっと激しく攻撃されるだろう。果たして日本に帰り着けるのだろうか? 補給はどうする?
だが、今は考えまい。疲れた。戦闘機をドイツに送る使命は果たしたのだ。少しぐらい休んでもいいだろう。
そう、戦いはまだまだ続く。
ドイツ空軍は空戦に勝利し、爆撃も成功させた。だが、戦果確認のためにドーバーやポーツマツといった主要港の偵察報告を受けた第二航空艦隊司令部は騒然となった。
〈高速魚雷艇、機動砲艦を多数確認〉
あれほどの大規模爆撃でも命中弾は少なかったのか? 「多数」とは何隻だ? 報告を確認しようにも偵察に出たDo17爆撃機の偵察機型はことごとく消息を絶っている。撃墜されたのだ。
こちらの攻撃が不十分だったのか、敵にはすぐさま補充するだけの余力があったのか。いずれにせよ、これらを排除しなければ上陸作戦は実施できない。
ドイツ空軍第二航空艦隊の最前線基地、カレー飛行場の格納庫では零戦の整備補修が進められていた。
ルアーブルに到着した「瑞鶴」「翔鶴」の乗組員たちは久々に上陸して休養を取った。ところが零戦の整備兵は休む間もなく輸送機に押し込まれてカレーに運ばれた。整備兵がいなければ戦闘機は飛ばない。できるだけ早く第二次攻撃を実施したい第二航空艦隊司令部の意向で、彼らは休養する間もなく零戦の整備補修を行う羽目になったのだ。
人がそろわないから、事務や雑事は源田司令と奥宮副長が引き受けている。そうなれば整備兵も不満を言っていられない。
そうした忙しい最中、何をしゃべっているのか分からない眼鏡のドイツ人が零戦に取り付いてしつこく質問してくる。本人は英語のつもりなのだろうが、ドイツ語なまりが聞き取りにくい。大体、兵学校出の士官ならともかく、英語教育を受けた訳でもない下級の整備兵は英語が分からない。
源田司令から出来るだけ便宜を図るように言われたものの、零戦の整備員たちは面倒でしょうがない。ついつい対応が邪険になる。しかし、兵の中には親切というか損な役回りの者がいるもので、自然、そういった人間にこのドイツ人はよってくるようになる。
「南、お前は作業しなくていいから。このドイツ人整備兵の担当な」
と、整備隊長がやっかい者を南に押しつけるのにさほど時間はかからなかった。
ただ南はほかの整備兵と違い、この任務をさほど苦痛とは感じていない。むしろこのドイツ人、ハンス・シュミットの当を得た質問に感心している。この二人は、互いに同じ気質を持つのだ。飛行機狂い、マニア、そんな雰囲気は呼び合うものらしい。
そこにドイツ空軍の少佐が現れる。
「シュミット、零はどうかね」
「ガラント少佐、こいつは面白いです。日本人の指向は我々とはまるで違うってのが分かります。」
シュミットと呼ばれた整備兵は少佐に敬礼する。南も慌ててそれに従う。
「ああ、いいよ。楽にしてくれ。」
ガラント少佐は葉巻を取り出して火をつけた。話を聞こう、という意味だ。
このアドルフ・ガラントこそ、メルダース戦闘機隊総督と並んでドイツ空軍きってのエース、卓越した操縦技量と指揮能力で部下には父か兄のように慕われ、ドイツ空軍最高の戦闘機隊指揮官と称される男である。
「まあ、日本人の指向はともかく、これは我が軍で使えそうかね。説明は簡単に頼むよ。」
ガラントは彼らがあたっていた零戦をしげしげと眺めた。自分の愛機と同じ迷彩に塗られている。友軍とはいえ、変な気分だ。
その個人的な気分はともかく、ガラントには日本の戦闘機を審査する任務も与えられている。先の大勝でゲーリング国家元帥は大喜びし、ドイツで零戦をライセンス生産できるかとまで尋ねてきたのだ。
ガラントとしてもメッサーシュミットBf-一〇九の航続距離の短さには苦慮していたので、他国の戦闘機とはいえ一考の価値はあると思っている。とはいえ、未知の飛行機の知識は欲しい。カタログデータだけでは分からない特徴を、操縦して審査する前につかんでおきたい。
そこでまず、自分の機付け整備兵、ハンス・シュミットに零戦を見せてみた。この男は極度の近視でパイロットにはなれなかったが飛行機が何よりも好きで、手に入る知識は何でも吸収してしまう。Bf-一〇九だけでなく飛行機全般に呆れるほど詳しい。
その先見の明でドイツ空軍主力戦闘機Bf-一〇九を作り出すメッサーシュミット社に入社したものの、短期間で退社している。試作機にメッサーシュミット社長の指示に従わぬ改修をかけ、はっきりと社長の不備を指摘したために癇癪持ちの社長に触れ追い出された、というのがもっぱらの噂だ。逆に云うと、それだけのセンスと技量がこの眼鏡の小男にはある。整備の腕も確かで、ガラントも信頼を置いている。
ただ、この種の男にありがちな欠点として、有り余る知識をしゃべり出すと止まらなくなる。あまりに細かいことまで説明するので、結局何が言いたいのか相手に伝わらなくなることもしばしばある。
「じゃあ、結論から言います。こいつは我が空軍では使えません。ライセンス生産なんか無理です。」
「スピットファイヤと互角以上に戦った実績を加味してもかね。二〇ミリ機銃の威力は凄まじかったぞ。」
「そりゃまあ、少佐の重武装好みとは合うでしょうけどね。その他の指向が違いすぎるんです。
少佐、この機体を真横からよく見て下さい。主翼の付け根と翼端の角度の違いが分かりますか?」
注意して見なければ分からないが、確かに零の主翼はわずかに捻り下がっている。
「こうすると機体の安定性が増すんですよ。よく考えてますね。大きな主翼に軽い機体、真っ直ぐ飛ばすだけなら居眠りしていても大丈夫でしょう。この翼面過重なら旋回性能は曲芸機なみでしょうね。」
Bf-一〇九は高性能を目指すあまり操縦性が悪い。水平飛行するにもラダーを始終調整してやらねばならぬほど、パイロットに負担を強いる戦闘機だ。
「逆に、日本人が云うほど加速は良くないです。主翼がこんなに大きいくせに、エンジンはギリギリのサイズで馬力が小さいのを積んでますから。九五〇馬力だそうですから、そりゃ速度は出ないです。」
「そうか? 一緒に空戦してると、それほど遅くは感じなかったが。」
「そりゃ機体が軽いから軽快に飛行しているせいでそう思えるんです。
ちょっとここから中をのぞいてみて下さい。」
シュミットは胴体に開いた整備用ハッチを示した。ガラントは言われるままに零戦の胴体内部をのぞき込む。
「こりゃ……」
「驚いたでしょ。軽量化のため、全部の桁に開けられるだけ穴が開けられてるんです。この穴の並べ方だけでも芸術的です。よくこんな手間のかかること出来るもんですよ。日本にはよほど腕のいい職人が沢山いるのか、専用の工具がそろっているのか。ドイツじゃ、とてもこんな手間をかけて量産できません。
ちょっと、外板を叩いてみてくれます。ええ、どこでもいいです。」
コンコンと、軽い音がする。
「薄いんです。材質は良さそうなんですが、これじゃちょっと無理をさせるとシワがよちゃいますよ。もちろん、銃撃されると簡単に貫通しますな。
この外板で、燃料タンクが主翼の付け根にもあります。防弾のゴムもありませんから、一撃で火だるまですね。ああ、コクピットにも防弾はありません。撃たれたらお終い。この風防ですから視界はいいですけどね。」
「よく分かったよ。これに私の部下は乗せたくないな。しかし、この前の戦闘ではほとんど一方的にスピットファイヤに勝っていたのだから、性能は優れているんじゃないか?」
「僕は零の性能が悪いなんて言ってませんよ。我々とは指向が違うと言ったんです。この構造ですと操縦性がよくて旋回性能、特に縦の動きは抜群ですから、格闘戦になったら強いですよ。スピットファイヤはBf-109より旋回性能がいいんでしょ。けど零の軽快さには敵わないでしょうね。我々を相手にする感覚で零と戦ったら、まず勝てません。」
確かに、あの戦闘でのイギリス空軍は見事に日本人のペースに乗せられていた。攻撃はかわされ、旋回して逃げようとすれば追いつかれ、深追いすると回り込まれた。その結果、イギリス機は次々と零戦の餌食になったのだ。
「じゃあ、スピットファイヤが格闘戦にこだわらず、我々と同じ一撃離脱に徹したら……」
「零は逃げそこなったらお終いです。スピットファイヤって機銃を八門も積んでるんでしょ。七.七ミリですからBf-109の頑丈さなら少しぐらい直撃喰らっても何とか保ちますが、零じゃ弾幕に飛び込んだら助かりません。そういう特性にイギリス人が気付かないことを祈りたいですね。」
「どうかな。やつらも馬鹿じゃない。今頃は必死で対策を考えてるだろうな。」
取りあえずコクピットの防弾だけでもなんとか出来ないか、とガラントは思った。
「座席の後だけでも防弾版をつけられないか?」
「少佐が発案した装甲ですね。つけられなくはないです。僕も提案したんですが、視界が悪くなるから嫌がられるって南が言うんです。
ああ、南って彼のことです。紹介が遅れました。日本の整備兵、南功雄です。」
南は唐突に名前を出され、思わずぺこりと頭を下げてしまった。面食らうガラントを見て、慌てて軍人らしく敬礼で挨拶する。
シュミットは続ける。
「少佐の防弾板は合理的ですけど、零にとっては重荷です。ギリギリまで軽くしてるってことは、逆に云うと追加装備で重量を増すと性能が落ちるってことです。
別の見方をすると、零はこの時点で完成された戦闘機です。改良する余地はないでしょうね。」
「我々のBf-109のように性能を向上させることは出来ない、という意味か?」
Bf-109は現在のE-3型を小改造して増槽も装備できるE-7型が登場しつつある。パイプからの燃料漏れが酷くて実用化にはまだ時間がかかりそうだが。
更にエンジン出力を向上させ、機体設計を一新して性能を格段に向上させたF型が完成間近である。
「そうです。迂闊に改修かけたら、絶妙なバランスの上に成り立っている機体特性がバラバラになって、かえって総合性能を下げちゃうんじゃないかな。」
「そんなものか?」
「エンジンの問題もあるんです。こっちを見て下さい。」
シュミットは別の機体にガラントを見せた。その零戦は機首を外していた。
「エンジンに被弾したから修理しようと外してます。いや、シリンダーが一つ割れたぐらいで、大したことないからここまで辿り着けたんですけどね。これがそのエンジンです。コンパクトでしょ。これで九五〇馬力だって言うから、かなりの高回転ですね。
問題は中身です。ここんとこ、被弾して欠けてるんで中が見えるでしょ? シリンダーがえらく細いんですよ。これじゃ出力向上は難しいです。」
「もうちょっと、分かりやすく説明してくれ。」
「シリンダーは小さい方が回しやすいから故障も少ないしエンジンの開発も楽です。出来上がったエンジンも小型になるから飛行機の胴体も細くできてスピードが出しやすいって利点もあります。零はその極致と云っていいでしょう。
けど、小さいと出力を上げるには、ただでさえ高い回転数をもっと上げるしかないから性能向上は難しいんです。このシリンダーの直径を測ってみたら一三〇ミリでした。これは練習機用の小型エンジンのサイズですよ。
戦闘機用のエンジンって、大体、一五〇ミリぐらいかもっと太いんです。その方が馬力は出しやすいし、ちょっと回転数を上げてやるとか工夫すれば性能向上もしやすいですからね。」
「つまり、どうなるんだ?」
「零のエンジンには将来性がない。従って零にも未来はない。もし零の出力向上を図るなら全く別のエンジンを搭載することになるでしょう。なにせ微妙なバランスで成立している機体ですから、そうなれば機体も設計し直すことになるでしょうね。新規に開発する方が早いかもしれません。」
ガラントは考え込んだ。零戦の優位は戦術から見た短期的にも、機体全般から考慮した長期的にも続きそうもない。とはいえ、現時点では頼もしい同士である。イギリスとの戦いは短期決戦になるだろうから、このまま押し切ってしまえるかもしれない。
「話は分かった。とにかく整備を頼む。使える物は我々の補充部品を回してもかまわん。」
「じゃあ少佐、無線機を機数分、廻して下さい。零の無線機は使い物になりません。日本の真空管は精度が低いし絶縁も悪いから、発信された音声は雑音だらけで聞き取れません。
あんまり役に立たないから、本隊に連絡する必要がある隊長機は無電で連絡するようになってます。」
ガラントは呆れた。
「日本人は空戦の最中にパイロットが無電のキーをトン・ツーって叩くのか?」
「まさか。戦闘中は使いません。航行中とか戦闘が終わった後で使うには何とかなる、って程度です。無線なしで良く編隊の空戦が出来るもんです。そういう以心伝心が出来るようになるまで訓練するのが日本人のやり方らしいんですが、我々はその流儀には付いていけません。共同作戦するなら無線機は必要でしょ。」
「分かった。早速手配しよう。じゃあな。」
話を打ち切ろうとするガラントにシュミットは食い下がった。
「少佐、もうちょっと聞いてください。」
ガラントはウンザリした顔でシュミットを見る。
短時間でここまで未知の戦闘機の性質を見極めたシュミットのセンスは賞賛に値する。彼に零を見せたのは正解だ。結局のところ、零は日本人の戦闘機でドイツ人には向いていない。よく分かった。
だが、シュミットの報告は止まらない。
「これ、整備のために外したんです。艦載機なんで方位測定帰投装置が搭載されているんですけど。これ、なんて言ったっけ、南?」
ドイツ語が分からない南は、二人が何を言っているのか分からずキョトンとする。
「南、これの名前だよ、名前」
「ク式帰投装置」
「そうそう、「ク」だ。少佐、ここんとこよく見て下さい。」
「英語のようだが」
「アメリカ製ですから。」
ガラントは絶句した。日本はアメリカと戦争しようとしているはずだ。そのアメリカを攻撃する戦闘機にアメリカ製の装備を使うのか。開戦すれば、当然、入手できなくなる。その後は帰投装置なしで、広い太平洋を戦うつもりか。
「クはクルシーの略です。面白いですよ、日本人は機銃とかもそんな命名するんです……」
「シュミット、もういいよ。」
「いやあ、まだまだ面白い話があるんだけど。」
「もう充分だ。国家元帥には零の国産化は無理だと伝えておく。」
このとき、空軍幹部と各戦闘機メーカーとで――特にゲーリング国家元帥とドイツの主力戦闘機Bf-109を開発・製造しているメッサーシュミット社の社長、ヴィリー・メッサーシュミット博士の間で確執や駆け引きがあることを、現場の指揮官であるガラントは知らなかった。
それはそれとして、根っからの飛行機乗りであるガラントは未知の飛行機を見ていると操縦したい欲求が湧いてくる。
「飛ばしてみたいんだが、日本人は何と言っている?」
「はあ、隊長の佐藤大尉は自分の機体には乗ってもかまわないって言ってるそうです。壊したら承知しないぞ、とも言ってるようですが。その代わり、すぐにでもドイツの飛行機を操縦させろって。」
ガラントは微笑んだ。国が違ってもパイロットの考えることは似たようなものだ。
「で、その佐藤大尉の零はどれだ?」
「ああ、これです。言いそこないましたが、これを少佐の機体と同じように塗装したのは南です。いい腕でしょ?」
「ああ、上手いもんだ。」
と、ガラントは英語で南に話しかける。
「しかし、ミッキーマウスは難しかったなか?」
ガラントは軽口をたたいたつもりだが、佐藤大尉がネズミの悪口を言ったから描かなかったのだとも言えず、南は曖昧な笑顔で答えた。
自由フランス軍、すなわち祖国が降伏してもあくまでナチス・ドイツに抗戦するために辛うじてイギリスに亡命できた戦士たちの中でも、とりわけ高い操縦技量を持つと云われるジャン・テノール大尉はスタンモアのイギリス戦闘機群団司令部に招集された。
テノール大尉は奥まった会議室に案内された。そこには製図台が置かれ、その上に広げられた図面を見たテノールは息をのんだ。
「これは日本の戦闘機か」
「そうだ。我々に大きな被害をもたらした日本海軍の艦上戦闘機、タイプ・ゼロだ」
係官がテノールに答える。細部まで明快に記された三面図には若干不鮮明ながらも日本語の書き込みまである。空戦中のガンカメラの写真やパイロットの証言から推測して引いた図面ではない、本物の設計図かそのコピーだ。
「どうやって入手したのだ?」
「それは言えない。しかし、本物であることは保証する。実際に製造している日本の工場で使われている図面と同じ物がそろっている。」
この図面は、零戦部隊を派遣する前に図面を送ろうと、日本の武官がシベリア鉄道経由でベルリンまで輸送していたのをイギリス諜報部のエージェントが盗撮した物だ。これほどの重大情報にも関わらず、イギリス人のアジア蔑視と官僚機構の迷路でさまよったフィルムは司令部の奥に眠ったままだったのだ。
その怠慢の代償をパイロットの命で払わされたイギリス空軍は慌てて対策を練ろうとして、埃を被っていたフィルムは拡大現像されて、図面はようやく日の目を見た。これを分析すればタイプ・ゼロの弱点を見つけられる可能性は極めて高い。
ところが空軍には日本語を読みこなせる者がいない。単純に日本語に堪能な学者なら大英博物館にでも行けば幾人もいるが、機密保持上、そういった人物にこの図面を見せるのはまずい。第一、民俗学者に飛行機の機能が分かるはずがない。
そこで日本に造詣の深いパイロットであるテノールに白羽の矢が立った。実はこの人選には異論があった。亡命してイギリス軍の指揮下にあるとはいえ、他国人に機密を見せることを問題視する意見が強かったのだ。しかし、早急に対策を立てるべきだとのダウディング戦闘機群団司令の鶴の一声で、このフランス人の招集が決定された。
この対応の早さは頑固なイギリス軍としては異例である。それほど初戦の敗北は大きく、イギリスは追い詰められていると云えよう。
「前桁中心線、後桁中心線、胴体結合部はここか……」
「読めるか?」
「私は朝食に日本の梅干しを食べるほど日本が好きだ。このくらいの日本語は簡単だ。それより貴官に分かるよう英語に訳す方が面倒だな。」
「すごいな。大尉に来てもらって正解だ。漢字もだが、この象形文字みたいな文字が分からなくてな。日本語なんて非効率的な言語がどうして存在しえるのか……」
係官の愚痴などテノールは聞いていない。
「美しい飛行機だ。まるで日本料理のように繊細でたおやか、日本語のように流麗だ。ああ、あの芸者の舞のような軽やかさはこの構造から生み出されたのか。
ちょっと黙っていてくれ。この甘美な図面を愛でる至福の一時をがさつな海賊言語で邪魔しないで欲しい。」
自国こそがヨーロッパ文化の中心だと自負するフランス人は、ともすれば周辺国家を卑下する傾向がある。フランス人に云わせれば英語は海賊の言葉、ドイツ語は山賊の言葉だ。
『この野郎、亡命者の分際で』
係官は激昂した。が、そうは言えない。このフランス人の機嫌を損ねて日本戦闘機の解析を遅らせる訳にはいかないのだ。
「素晴らしい。一機、製造してくれ。私が操縦して性能をテストしよう。」
「そんな時間の余裕はない。大尉、我々は早急にこの戦闘機の対抗策を必要としているのだ。図面から読み取れる情報だけでも、可能な限り速やかにまとめなければならない。」
この亡命大尉は戦闘機と芸術作品の贋作を一緒くたにしてるんじゃないか。図面があるからといって治具がなければ工業製品は作れない。特に微妙な調整がなければ駆動しないエンジンは、図面があっても簡単にコピー出来る代物ではない。
「そうか、分かった。では、早速作業にかかろう。私がこの日本語を訳すから、貴官は英語でそれを書いてくれ。どうも下品な言葉は苦手でね。
で、協力する代償として、後でいいからこの戦闘機を一機、製造してくれないかね。」
『いい加減にしやがれ、このカエル野郎!』係官は心の中で叫んだ。
フランス人が優雅だと誇るフランス語は、イギリス人にはカエルの鳴き声に聞こえるのだ。
同じ頃、戦闘機群団司令部の奥まった会議室では、今後の方針を巡って二人の少将の意見が対立していた。
第一二飛行群司令リー・マロリー少将は、可能な限り多くの機数で迎撃して敵に打撃を与える、いわゆるビック・ウイング方式を主張する。第一一飛行群司令キース・パーク少将は、一度の出撃で戦力を消耗するとその次の攻撃に対応できなくなると反論し、少数機による迎撃を主張する。
いずれの考え方にも説得力がある。だが、戦闘機群団司令ヒュー・ダウディング大将は少数機による迎撃を行う方針だ。今の戦力では防戦が精一杯。ねばり強く抵抗して、その間に兵力を増強しなければならない。細く長く戦うためには一回の出撃は極力抑えるしかない。
幸いなことにキャッスル・プロミッジの戦闘機製造工場は攻撃されていない。おそらくドイツ軍はまだその位置をつかんでいないだろう。この間にスピットファイヤを量産し、パイロットを養成するのだ。
大部隊による迎撃が不利なのはもう一つ理由がある。大兵力をまとめるには時間がかかるのだ。編隊が整って迎撃に向かう頃には、敵はもう爆撃を開始しているかもしれない。それでは迎撃にならないのだ。先日の戦闘では事前に敵の攻撃日時が判明したために、こちらも迎撃体制を整えられた。しかしもう、そういうことはないだろう。
攻撃開始日時という重要な情報が入手できたのは、情報管理の概念がないのではないか、あるにはわざと解読させて偽情報を流す罠ではないかと疑ったほど単純な日本軍の暗号が解読できたためだ。ドイツ軍の暗号はさすがに複雑で、いまだに完全な解読には至っていない。日本戦闘機隊がドイツ軍の指揮下に入った現在、もう日本軍の暗号は使われないだろう。したがって、今後はドイツ空軍の攻撃時刻を事前に察知する僥倖は期待できない。
このような理由から、ビック・ウイング方式は戦術的に無理だ。しかし、マロリーはこの方針をどうしても受け入れない。少数機で迎撃と云うことは、多くの敵を相手にする戦闘となる。パイロットの負担が増す作戦を、部下パイロットを大事に思うマロリーが拒絶するのも無理からぬものがある。
「少数迎撃を強行するなら、自分の指揮下の部隊は独自の行動を取る。」
とまで言い出した。
ダウディングも苦しんでいる。マロリーが言うとおり、不利と分かっている戦闘に出撃させるのだ。そのために戦死するパイロットも少なくないだろう。犠牲者が増える作戦を取りたがる軍人などいるものか。
だが、今は勝つことより負けない作戦を取るべき時だ。そのために、人でなし、無能と罵られても甘んじて受け入れよう。
ダウディングの一人思いは長くは続けられなかった。二人の少将の激論は続いている。もはや堂々巡りの罵り合いに近い。
ダウディングは二人を制し、決定を下した。
「今後は最小限の機数で迎撃する。戦力が充分に整ったと認められるまで、どれほど戦死者が出ようとこの方針は変更しない。」
パーク少将は沈痛な面持ちでうなずき、マロリー少将は憮然とした態度のままであった。
戦闘が始まると、マロリーは発言を実行した。ドイツからの攻撃に対し、マロリーの第一二戦闘機群は何かと理由をつけては出撃を渋ったのだ。そのためパークの第一一戦闘機群の負担が増し、戦力を増やすどころか戦死者が続出する。
チャーチル首相はその責任をマロリーではなく戦闘機群団司令官であるダウディングに求めた。チャーチルもマロリーと同じくビック・ウイングを支持していたからだ。
が、それはもう少し後の話である。
いずれにせよ、一度の敗北ぐらいでイギリスは屈服していない。考え方の違いはあっても、最終的には勝つつもりで抗戦を続ける気持ちは同じだ。この近代に入って決定的な敗北を喫したことのない国家の恐るべき粘り強さを、ドイツ人と欧州派遣軍は思い知ることになる。
この日、一九四〇年九月二五日。英仏海峡は三日続きの悪天候で、戦闘開始早々にして両空軍とも動きが取れない状態が続いていた。この間に、それぞれが次の戦いの準備を進めている。
戦いはまだ始まったばかりだ。
(第四章に続く)
次章 苦闘




