表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドーバーの零  作者: 北長六功
3/8

第2章 航海

 航海二日目にして空母「瑞鶴」艦長、横川市平大佐がしかめっ面を続けているのは二日酔いで頭痛がするからだけではない。命令が気に入らないのだ。

 最初は大喜びしたものだ。イギリスと戦う尖兵として欧州に向かう。これほどの大作戦の先頭に立って参加できるとは軍人冥利に尽きる。しかも臨時措置とはいえ作戦中は艦隊指揮官として少将待遇となるのだ。

 しかし、作戦の詳細を知らされると唖然とした。欧州に戦闘機隊を降ろして直ちに引き返せという任務は輸送船の仕事であって空母の作戦ではない。更には「艦隊」とは姉妹艦「翔鶴」と2隻のみ、護衛の駆逐艦すらいないという非常識な編成なのだ。おまけに艦載機はドイツ軍を支援するための戦闘機のみ。「瑞鶴」の兵装は一二.七センチ高角砲と二五ミリ機銃で、これらは対空防御用だから敵艦に襲われたら事実上反撃の手段がない。

 これで、これからケンカを売りに行くイギリスの支配地域である、シンガポールからインドを抜けて行こうというのだから、人を馬鹿にしているのかと言いたくなる。

 さらに横川が面白くないのは、艦隊司令といっても「瑞鶴」艦長と兼任というメチャクチャな人事をやってくれたことだ。平時はともかく、いざというときは乗艦である「瑞鶴」を戦闘指揮しながら「翔鶴」にも目を配る、ということになる。

 やけ酒を煽りたくもなる。出港を祝う宴会で横川は艦の酒だけでなく、大事にとっておいた私物のウイスキー、角瓶をがぶ飲みした。

 昨夜はどのくらい飲んだのか覚えていない。二日酔いで、艦橋で指揮を取るのも辛い。当番兵に頭痛薬を届けさせようかと思ったとき、横川の不機嫌を増加させる航空参謀、源田実が艦橋に入ってきた。

 参謀は艦長を補佐する立場なのだが、この作戦に限っては事情が違う。源田は欧州到着後は戦闘機隊、すなわち派遣軍司令に就任する予定だから実質的には今作戦の責任者といえる。

 源田には源田の立場と責任があるのは分かるが、出航前から艦の運営にまで何かと口を出してくるため、雀部航海参謀と早くも険悪な雰囲気をただよわせている。

 横川は「瑞鶴」の竣工前から艤装員長として指揮を取ってきたから、この艦は手塩にかけて育てた娘のようなものだ。箱入り娘を晴れの舞台に引き出すつもりでいたら、いきなり裏方にまさわれてしまった。軍人である以上、命令は全力を持って遂行するが、この理不尽さは簡単に割り切れるものではない。

 横川の心情にはお構いなしに源田は口を開く。

 「艦長、格納庫の荷物だけでも片づけて、早く零式艦戦を動かせるようにしなければなりません。」

 隠密行動ゆえに寄港地は限られる。詰める時に積み込んでおかないと、予定外の事態でも起これば燃料すら怪しくなる。そのため限度以上に物資を積み込んだ艦内は、そう簡単に片づくものではない。ようやく飛行甲板に積まれたままの荷物を艦内に収容したところだ。

『俺はいつから空母(キャリア)の艦長から貨物船(カーゴ)の船長になったんだ』

 とも言えず、横川のしかめっ面が更に険しくなる。どう言い返してやろうかと源田の顔を見たとき、通信士が暗号解読された電文を持って艦橋に飛び込んで来る。

 連合艦隊からの命令であった。

〈高雄に入港せよ〉

『どういうことだ』

 横川はその意図を図りかねた。一刻も早く欧州へ向かえとせかしておきながら、出港2日目でもう入港を命ずるとは。

 直後、追加電文が届く。

〈高雄で連絡機を収容せよ〉

 現在、艦隊は沖縄沖だから台湾南部の高雄には明日到着となる。


 高雄に入港する直前、その連絡機は「瑞鶴」に接近してきた。空母着艦の基本である三点着陸のお手本を示したような見事な操縦を披露した九九艦爆から降りてきたのは、「翔鶴」航空参謀、欧州到着後は派遣隊の副長に就任する奥宮正武少佐であった。

 飛行甲板で出迎えた源田は奥宮の手を握りしめかねない勢いで駆け寄った。

「待っていたぞ。なんとか間に合ったようだな。」

「はい、手間取りましたが、ギリギリ合流できました。」

九九艦爆の後席から兵が降りてくる。ぎごちない足取りはどう見ても飛行機に慣れた搭乗員のものではない。源田はその兵をじっと見つめる。

「彼が、そうか?」

「はい。適任者の選定には思ったより時間がかかりました。」

 周囲の甲板員たちは不審に思った。筋金入りの爆撃機乗りである奥宮少佐が自ら操縦して着任するのはともかく、参謀ともあろう高官が出航後に合流するのは異様だ。しかも同乗した兵はどうも搭乗員ではないらしい。

「よし、その話は後だ。こいつは部屋で休ませて、貴様はすぐに艦橋へ行ってくれ。」

 飛行服のまま艦橋に入った奥宮は横川に申告する。

「奥宮少佐、「翔鶴」航空参謀として着任いたしました。

 命令書であります。無電では傍受され、万が一にも暗号が英国に解読されることを懸念して直接持って参りました。」

 大仰な段取りの割には簡素な封筒を横川は開く。その文面もまた簡素であった。

〈X日は10月1日の予定、欧州派遣隊はそれまでにフランス、ルアーブルに入港せよ〉

 X日とはドイツ軍のイギリス攻撃開始日を示す符号である。出航前の情報ではまだ未定、10月中を目指して準備中としか聞かされていなかった。それがついに決定したのだ。

『早いな』

 横川は作戦会議を招集した。


 「航海の日程を確認します。」

 「瑞鶴」航海参謀、雀部少佐が海図台に広げたユーラシア大陸の地図を示しながら説明する。

「八月一五日に別府を出港した艦隊は本日、一七日に高雄に入港しております。半舷上陸と補給終了の後に出港します。この後、当面の目標は英国東洋艦隊の拠点であるシンガポール突破で、これに四日かかる予定です。

 セイロン島沖からインド南端を抜けるのに四日、そのまま西進してインド洋を渡るのに五日かかると予定しています。アフリカ大陸のソマリア沖で先行する補給艦隊と合流、補給と給油を受けます。本航海の補給はこれが最後となります。

 アフリカ東岸を南下して赤道通過まで二日、更に南下して喜望峰通過まで七日、アフリカ西岸を北上してもう一度赤道通過するまで五日、アフリカ西端のダカールを通過するまで五日、欧州に向かいます。

 サハラ沖、カサブランカからスペインと、欧州の圏内に入るのに二日、目的地のルアーブル入港まで三日、合計四一日間となります。

 しかし天候不順、その他不測の事態により航行に支障が出ることを考慮して、これを五日加算すると到着は九月二九日となります。」

 源田参謀が発言を求める。

「X、すなわち英国攻撃開始は一〇月一日、場合によっては早まることもあり得る。ギリギリの日程だな。なんとか航行スケジュールを短縮できないか。」

「無理です。入港せずにこれだけの長距離航海するだけでも乗組員や艦の負担は限度を超えています。第一、艦の速度を上げれば燃料が持ちません。ドイツが給油艦を廻してくれるとか、どこかに補給のアテがあるのなら別ですが。」

 広げられた地図は英国の支配、あるいは影響下にある地域を赤く塗っている。東南アジアの過半、インド、アフリカの主要地域と、通常の航海なら寄港すべき点の多くが赤い。艦隊は敵地をぬって進まなければならないのだ。改めて大英帝国の巨大さを見せつけられる。

 それでなくてもこの航海自体が秘密である。外地とはいえ日本の領土である台湾を過ぎれば、艦隊が身を寄せる場所はない。ドイツからの補給の予定もない。

 雀部は続ける。

「むしろ、日程を延ばして欲しいぐらいです。このギリギリの計画では艦の故障など、何らかの齟齬が生じた場合、燃料と物資が尽きた我々は漂流するしかありません。攻撃開始に遅れても、到着する可能性を高める計画に変更すべきではないでしょうか。」

「それは出来ない」

 源田は即座に答える。

「ドイツ空軍は初戦の大攻勢でイギリス空軍に痛打を浴びせ制空権を奪取し、同時にブリテン島南部の主要地域を爆撃して抵抗力を撃滅、一気に陸軍の上陸部隊を侵攻させる作戦だ。この初戦にこそ我が戦闘機隊が必要とされているのだ。遅れて到着したのでは航海の意味がなくなってしまう。」

 欧州を瞬く間に占領したドイツ軍は、同じパターンでイギリスを攻撃しようとしている、とは、日本からの支援を急がせるためにドイツが仕込んだ喧伝で、実際の作戦とはやや異なる。

 本当の作戦は、空軍が何度か攻撃を繰り返してイギリスの抵抗力を奪った上で上陸作戦を開始することとなっている。強力なイギリス空軍相手に、旧式の航空機しか所用していなかった国々と同じような電撃戦が展開できるとは、ドイツ国防最高本部も考えていない。しかし一気にたたみ掛ける作戦も、これまでの実績から充分に説得力があるため、源田が思いこまされたのも無理はない。

 問題はイギリスとヨーロッパ大陸との間には海があることだ。ドイツ陸軍の誇る機甲部隊も、制海権の確保がなければ動きが取れない。制海権を取るためには、まず制空権が必要である。

 何回の攻撃でイギリス空軍を沈黙させて制空権を奪取できるのか。ゲーリングは一回でほとんど完了してしまうと豪語しているが、ドイツ空軍(ルフトブッフェ)の指揮官たちからは異論が絶えず、結論を出せないために作戦自体が曖昧になっている。

 しかし弱体化著しいイギリス軍はあっさりと敗北し、ドイツ軍が一気にイギリスに上陸する可能性も確かにある。源田はそう読んでいる。そうなれば確かに欧州派遣隊は存在意義を失う。

 だからといって、雀部もここで引き下がることは出来ない。

「無理をすれば燃料切れで辿り着けなくなってしまう、と申している。そうなれば作戦の意味どころか我々は異境で犬死です。そこまで行かなくても動きが取れなくなって、英国に拿捕される可能性だってある。」

「そんな馬鹿な話があるか」

「馬鹿とはなんだ」

 二人の参謀は互いに興奮して感情的になっていく。手を挙げて二人を制した横川が口を開く。

「ありえん話ではない。とにかく、最善を尽くしてくれ。航行スケジュールは航海参謀の案とする。物資は節約に努める。」

 「艦長、いや司令、よい機会ですから乗組員に命令を出してください。」

吉川末男主計大尉がおずおずと発言する。

「ギンバイを厳禁してください」

 ギンバイとは支給される以外の物品を勝手に失敬してくる行為をさす隠語である。主に食料品が狙われ、物品をあずかる主計課員がいくら追い払ってもたかってくる様が「銀蝿」のようなのでそう呼ばれる。

 もちろん違反行為で、見つければ主計課員は黙っていない。気性の荒い主計課員に捕まれば半殺しにされかねない。

 食べる物がないのならともかく、海軍は充分な量の食品を兵に供給している。陸軍の兵が軍艦に乗り込むと食事が立派なのに驚き、何かの記念日かと尋ねる程だ。食事だけではない。日用品からタバコに至るまで、エリート意識の強い海軍は陸軍より上等な物を支給するのが常である。

 それでもギンバイが横行しているのは、下士官・兵には食べる以外に楽しみがないからであり、主計課員の目を盗んで拝借してくるスリルが楽しいからでもある。

 悲惨なのは上等水兵あたりからギンバイを命じられる二等水兵で、調理場のあたりを物色していると勝手を知った主計兵曹長に捕まって嫌と言うほど殴られ、手ぶらで戻ってくると上等水兵にまた殴られる。この繰り返しで、年数が経つと殴られていた方が殴る方に「昇進」して手口が巧妙になっていく。盗まれる主計課でもなかば諦めている感もあり、ギンバイは恒常化している。

 物資が充分にある航海ならこの悪習は見逃せても、補給に不安があるこの航海でやられ続けると食料品が欠乏する恐れがある。

 吉川主計大尉が特に腹を立てているのは戦闘機搭乗員たちだ。食事がよい海軍の中でも搭乗員は、他の兵科よりカロリー消費が高いとされているために食事が一品多い。生卵とか果物とか、兵がうらやむ食品が必ず加えられるのだ。

 にもかかわらず、彼らの中には更に一品欲しがり、ギンバイを繰り返す者がいる。航海開始早々にして、菓子類や酒類を中心にちらほらと帳簿が会わなくなっている。

 食い物の恨みは恐ろしい。こうした問題は下士官までで処理されるのものだが、搭乗員のギンバイに手を焼いた主計課員はその横暴を主計課の長である大尉にまで報告してしまったのだ。

 悪いことに吉川大尉は食料が足りなくなるのではないかと危惧しながら、消耗品の煩雑な計算にウンザリしていた真っ最中であった。出港準備以来、ろくに寝られないほどの多忙が続いているのに、更にやっかいごとが持ち込まれた。

 それでなくても吉川は搭乗員に反感がある。戦闘の主役は自分たちだと威張る搭乗員は事務方の主計課員を見下している、と吉川には思える。

 普通なら艦長のいる場で話題にすべき問題ではないのに、ストレスの高まった吉川はこの席で洗いざらいぶちまけてしまった。

 『この場で言うことか』という雰囲気が会議に漂う。しかし、艦隊司令の横川までが聞いてしまった以上、無視する訳にも行かない。どのみち物資は節約しなければならないのだ。

〈許可なく物品を持ち出す、いわゆるギンバイ行為は禁止する〉

 海軍、いや日本陸海軍でも異例の通達が「瑞鶴」「翔鶴」で発せられ、徹底された。

 それ自体は良いのだが、これによって更に楽しみが少なくなった下士官はもう一つの憂さ晴らし、気合いを入れると称して行う制裁、いわゆる「整列」と呼ばれる下級者いじめに精を出すことになる。

 これは思わぬ影響を与えるのだが、それはまだ先の話である。


 同じ頃、ロンドンのダウニング街、首相官邸近くの地下、後に戦時内閣執務室と呼ばれる施設の作戦室で、イギリス首相、ウィンストン・チャーチルは癇癪を爆発させていた。日本の空母二隻が出撃、目的はドイツを支援するためにヨーロッパに回航するためらしいと報告を受けたからだ。

 ドイツとの戦争は不利。強力なドイツ戦闘機に押され気味で、このままブリテン島に押し寄せられたら防戦できるかどうか心許ない。一旦ドイツ軍の上陸を許してしまえば、ヨーロッパ大陸でその威力を実証した機甲部隊の進撃を食い止めることは難しい。

 政府は首都の北部への移転、最悪の場合は王室の亡命まで検討している。

 その弱みにつけ込んで、国交断絶前に艦隊を派遣する日本の卑劣さが許せない。

「ジャップに勝手をさせるな。東洋艦隊は南下する空母を撃沈できんのか。」

「無茶を言わないでください」

 海軍元帥、ルイス・マウントバッテンはため息混じりに答えた。

 ドイツとの戦争で動くに動けないのだ。

 イギリスの水上艦艇数はドイツを遙かに凌駕している。イギリスが戦艦一五隻も所有しているのに対しドイツは二隻、巡洋艦は六〇対一一、駆逐艦に至っては一七〇対二一。正攻法で艦隊戦を行えばあっという間に勝負がつくだろう。しかし、実際の戦闘はそうはならない。海軍力に劣るドイツは正面切っての開戦を避け、潜水艦による通商破壊をしかけてきた。

 海運国イギリスにこの戦法は有効であった。急遽、船団護衛の強化や航路の変更といった対策が取られたものの、まだその効果は充分ではない。神出鬼没のUボートの動きをつかむには、イギリスの誇る電子機器の威力を持ってしても今だ能力不足であった。

 ともあれ、「大西洋の戦い」の主役は小艦艇となった。小回りが利かない大戦艦は迂闊に動かすとUボートの餌食になりかねない。

 この情勢で東洋艦隊が交戦状態に入り、いくばくかでも勢力を削がれるのはまずい。局地戦ならまだしも、全面戦争にはいった場合、ジャップごときに大英帝国が負けるとは思わないが、日本海軍は侮りがたい。戦艦一〇隻と、空母はイギリスを上回る一〇隻を有する大艦隊を相手にすれば相当の出血を強いられるだろう。かといって、大西洋はドイツのUボートに動きを封じられている以上、支援など送れない。

 チャーチルもそれは分かっている。戦略としては分かってはいるが、感情としてはどうにも収まりがつかない。

「向こうから仕掛けてきたのならやむを得ませんが、現時点では日本空母は公海を航行しているだけで、攻撃する大義名分も立たちません。」

 ヴィクトリア女王の曾孫にあたるマウントバッテンには騎士道へのこだわりがあり、また東洋人を馬鹿にしきってもいた。

「ジャップの空母など、二隻が加わったところで大した戦力にはならないでしょう。この間まで戦艦は我が国が作ってやってた後進国です。」

 日本の空母は太平洋に一〇隻あれば大戦力で、大西洋に二隻来るのは大したことはない。やや矛盾した思考だが、人間、追い詰められたときには自分の都合のよい解釈を正しいと思いこむものだ。

 結局、イギリス東洋艦隊は日本空母に手出しできず、欧州派遣軍はシンガポールからインド洋に抜けていくこととなる。

「戦闘機群団としてはどうだ」

 尋ねられた戦闘機群団司令官、ヒュー・ダウディング大将は苦り切った。何を気楽なことを言ってるんだ、と怒鳴りたい気持ちを辛うじて抑えていた。

 ダウディングの見るところ、日本海軍は強敵である。確かに日本の戦艦は一九一二年進水の「金剛」までイギリスが製造している。だが、「金剛」は二度の改装を経てまるで違う戦艦に生まれ変わっている。見学したイギリスの武官が『私は初めて戦艦(バトルシップ)を見た。これに比べれば我々のは客船(ホテルシップ)だ。』と漏らしたというほどだ。

 七つの海を渡る必要から居住性を重視するイギリスの艦艇を、戦闘力のみを重視した艦に改装したことへの皮肉なのだが、日本人はそれが分からず、素直に誉め言葉と受け取って喜んでいるらしい。そう、彼らは戦うためなら生活を犠牲にすることに疑問を持たない恐るべき兵士なのだ。

 空母を有用と認めて建造に着手した先見性もある。この部門で先進国と自負するイギリスと開発開始はほぼ同時期で、決して性能は劣っていない。しかも、情報部からの報告によれば問題の空母は最新鋭の翔鶴型らしい。明確な性能は分からないが、これまでの日本空母の能力から推定すると搭載機数は八〇から九〇機程度であろう。二隻なら一六〇から一八〇機、無視できる数ではない。

 航空機そのものも侮れない。日本海軍が四年前に採用した九六艦戦は、艦載機は空母に搭載せせる制約があるためその性能は陸上機に劣るという、これまでの常識を破る高性能を示した。四年後の現在、日本は新型艦載機を配備中という。九六艦戦より高性能となれば、おそらく列強の戦闘機に匹敵する性能であろう。

 雷撃機はイギリスのソードフィッシュが複葉布ばりの旧式機なのに対して、日本の九七艦攻は全金属製の引き込み脚、性能は比べるべくもない。イギリスの物より強力だと云われる航空魚雷だけでなく、戦艦の主砲弾を改良した爆弾も搭載可能だという。急降下爆撃が得意な九九艦爆の命中精度はドイツのスツーカより上とも伝えられる。まともに挑んだら、撃沈されるのは我が東洋艦隊の方ではないか。

 このとき、さすがのダウディング大将も、まさか二隻の空母には全て戦闘機が搭載されているとは看破できなかった。彼がその情報を得るのは「瑞鶴」と「翔鶴」がイベリア半島沖まで迫ってきた時であった。

 ともあれ、ドイツ空軍だけでも防ぎきるのは困難なこの時期、ダウディングは日本海軍航空隊がドイツ空軍に荷担するのは脅威だと判断している。かといって合流前に日本空母を排除するのも難しい。

 おまけにインドでは独立運動が活発化する動きがある。イギリス東洋艦隊がインド人から有形、無形の妨害を受けているとの報告は空軍のダウディングの耳にまで入るほどだ。インド独立、逆に云えばイギリスと敵対しそうな勢力ならどことでも結びつきかねない――社会主義者のくせにナチスを頼ろうとするとんでもないヤツ――武闘勢力の有力者チャンドラ・ボースはこの機会に日本と接近する可能性がある。

 日本は欧米によるアジア支配打破を大義名分としているから(何を白々しいことを、とダウディングならずともイギリス人は思うが)、インド独立運動を無視はできないだろう。むしろ積極的にインド人をたきつけている節がある。

 日露戦争で、日本はロシアの共産主義者を支援して内紛を拡大するえげつない戦術まで使ったから、今度も似たような作戦を実施している可能性は高い。その日本人のやり口はイギリス人もよく知っている。なにせ当時は同盟国で、共同してロシアを混乱させたのだから。

 日本艦隊と東洋艦隊との交戦に乗じて、インド武装勢力が決起するような事態になれば、独立運動は容易に沈静化できまい。

 七つの海を支配する大英帝国に、もはや昔日の勢いはない。かつての植民地、アメリカ合衆国からの支援がなければドイツの挑戦を跳ね返すことも難しい。太平洋でも日本の跳梁をねじ伏せることが出来ない。

 「憂慮すべき事態です。対ドイツ戦に関しては、我が方の戦闘機部隊は未だ脆弱なので、戦力が調うまで時間稼ぎが必要です。このうえ日本に介入されると、我が方は極めて不利と言わざるを得ません。」

「ファシストに甘い顔をしてもつけあがるだけだ。ヒトラーは明日にも攻めてくるかもしれん。早急に防空体制を整えたまえ。」

 チャーチルの怒気にダウディングはとうとう怒鳴り返した。

「整えるも何も、戦闘機もパイロットも足りません。」

『あんたのせいでな』と付け加えたい衝動を、ダウディングは辛うじて押さえた。

 ドイツ空軍のBf-一〇九に対抗しうるイギリス空軍の新鋭機スピットファイヤとそのパイロットが不足している理由の一つは、ヨーロッパ大陸に派遣した部隊が消耗したことにある。他国の世話より自国の防衛を優先すべきだったのに、いたずらに部隊を駐留させ続けたのは、ヒトラーとの対決を明確に示したいチャーチルの意向が働いている。

 『あんたが軍事に口を出すとろくなことはない』と言えたら、どんなに気分がいいだろう。先の大戦、ガリポリの戦いの大敗で海軍大臣を辞任したのにこりず、今時大戦では国防相を兼任して指揮を取っている。

 だが、英雄気取りでほとんど毎日のように幕僚を集めて会議を開き、楽観論を聞かされたのでは、軍の指揮官はそれだけで参ってしまう。ダウディングのイライラの原因はこの会議出席にもあった。

 確かに、この国難に立ち向かうにはチャーチルのように明るくユーモアに富み、かつ指導力ある政治家が必要であろう。現にほとんど負けかけていると云ってもよい状況にもかかわらず、国民の戦意は旺盛である。一概に非難は出来ないことはダウディングも承知している。が、ドイツからの国防で最も重要な役割を担う戦闘機軍団司令が、この首相とソリが合わないことは明白であった。

 老練なチャーチルは、気に入らないヤツとはいえ、さすがに会議室で大将と怒鳴り合う愚は犯さなかった。

「いいだろう、生産体制は戦闘機主体に整えている。出来うる限りの数は渡す。」

 これは口先だけではない。チャーチルは軍需相の経験もあるから兵器生産に関しても知識が豊富だ。

 ダウディングはひとまず矛を収めた。どのみち、与えられた条件の中で全力を尽くすしかないのだ。怒りを燃やすべき相手はヒトラーと彼が率いる軍団であって、自国の首相ではない。

 ドイツ空軍の作戦開始予定日まで、あと四四日。


 夏の南シナ海は台風が多く通る。かといって航行中は天気予報が充分に入手できる訳ではない。どの程度の暴風になるかは艦内で判断するしかないのだ。

 一時的な集中雨にすぎないスコールとは明らかに違う風と大きな黒雲が「瑞鶴」と「翔鶴」に迫ってくる。

「気圧計は現在九七〇ミリバール、どんどん下がってます。」

 報告を受けた横川司令が考える風を見せたのは、極わずかの時間だった。

「進路を変更しても避けられるとは限らん。このまま進め。」

 「翔鶴」型ほどの大型艦になれば、余程の暴風雨でない限り転覆することなど無い。日本海軍は過去にトップヘビーで簡単に転覆されてしまった苦い経験があるから、それ以降の艦艇は考慮された設計になっている。特に「翔鶴」型の復元性は日本軍の艦艇で最も高いだろう。

 たしかに艦は大丈夫だった。「瑞鶴」は荒波で三〇度も傾斜しながら、スムーズに姿勢を回復した。しかし、中の人間はそうはいかない。もっとやっかいなのは完全に固定できていない荷物が艦の傾きにそって暴れ狂うことだ。逃げられればいいのだが、揺れ動く床の上で自由に動けるはずもない。

 さすがに飛行機格納庫は零戦を傷つけないように大慌てで荷物を撤去して、機体も頑丈に固定したものの、そこから持ち出された荷物の固定まで間に合わないうちに暴風雨に突入してしまったのだ。

 ズタ袋から芋が飛び散るぐらいならまだしも、工具や部品といった堅い物は危なくって仕方ない。バールやリベットもこうなると殺傷能力を持つ。

 整備兵の詰め所では、壁にぶつかった木箱の蓋がはじけ飛ぶ。中に収められていた機銃弾の弾帯が放り出されて床を転げ回り出す。

「なんでこんなところに弾があるんだ。」

 零戦に装填しようと作業中だったものを慌てて持ち出して、そのままになっていたのだ。

 パン、パンと乾いた発射音が響いてくる。何かに雷管がぶつかって暴発しているのだ。

「冗談じゃない」

兵達は真っ青になって逃げ出した。床が揺れるので四つんばいになって詰め所から転がり出る。幸いにして死傷者は出なかったが、「銃撃」された詰め所は穴だらけになった。

 一時間も経たずに暴風雨は抜けたものの、艦内はありったけの家財道具をぶちまけた屋敷の如くメチャクチャな有り様だった。主計課の吉川大尉は呆然として艦内を歩いていた。これを片づけるのにどれだけの手間がかかるか。

 甲板では転落防止用の手摺りがねじ曲がっていた。丈夫な鉄棒なのに、どれだけの圧力を受けたのだろう。しかし、艦そのものには全く被害はなし。艦本式タービンは快調に回り、波を切る艦首は己の頑丈さを自慢するかのようだ。

 「さすが「瑞鶴」だ。「翔鶴」型空母の安定性が証明されたな。」

 満足げにうなずく横川を、吉川は恨めしげに眺めた。

 作戦開始予定日まであと四二日。


 空母「瑞鶴」の兵員室のすみに座った南上等整備兵は木片を削って模型飛行機を作っていた。

「ほー、上手いもんだな。」

 岩井飛曹長が声をかける。

「まあ、訓練も戦闘もなければ整備兵も時間をもてあますわな。」

 台風の後かたづけが終わらなければ零戦が動かせなくなってしまった。あと二~三日で片づく見込みながら、それまでほとんど整備することもない。

 何を考えているのか分かりにくい顔つきの男が、この時は少しむっとした声で言い返す。

「遊びでやってる訳ではないです。」

「じゃあ、なんだよ?」

「参謀の命令です。」

「参謀って、航空参謀の源田中佐か?」

『そんな偉いさんがなんで上等整備兵ごときに命令するんだ? 大体、模型飛行機なんかなんに使うんだ?』と岩井が言いかけた時、当の源田参謀が部屋に入ってきた。

「岩井飛曹長、余計なことは聞かんでよろしい。」

 岩井と南は慌てて敬礼する。源田は返礼しながら南に声をかける。

「できたか?」

「今のところ、これくらいです。」

 荒削りながら、短くて太めの胴体はドイツの戦闘機メッサーシュミットBf-一〇九だと判別できる。

「ふむ、よくできとる。しかし、時間がかかるものだな。」

 後年のプラスチックモデルはパーツを接着するだけなら簡単な作業だが、この時代の模型飛行機は胴体や翼を木材から削りだしていくのだからすぐにはできない。高い技量と根気が要求される職人芸でもある。

「ここだと人目にもつく。よし、南上等整備兵、俺の部屋で作れ。直ちに移動しろ。」

「はい、南上等整備兵、参謀室に参ります。」

 唖然とする岩井の隣で、南は材料や工具をかき集める。よく見ると図面や写真は複数の機体分あるようだ。一体、参謀は何機作らせるつもりなのだろう。

 実は、南は模型飛行機作りの名人として同好の士の間では有名であることを、随分と後になって岩井は知った。あまりに精巧に出来ていたために、スパイの嫌疑をかけられたほどの腕前だという。

 普通ならそれで模型作りを止めてしまいそうなものだが、この男はお構いなしに作り続けた。好きな物を追及するあまり、それ以外のことはどうでもよくなっているようで、その感覚は世間一般からかなりずれている。

 海軍に入ったのも、早くに両親を亡くして貧しかったためだが、航空を選んだのは飛行機が好きだったかららしい。

 この時代、才能があるが貧しくて学校に進めない少年がその知能を活かしたければ、教員になることを義務づけられる代わりに学資が免除される師範学校に進むか、軍に入るしか道はなかった。

 そして、この時代の少年達の一番の憧れはスマートでハイカラな海軍、特に飛行機乗りであった。南の場合、身体検査で肺活量が足りず搭乗員の選から外れたため、飛行機に触れる整備兵を目指したのだ。

 南は飛行機のために生きているとすら云える。

 後の世なら「おたく」とか「マニア」とか呼ばれる人種に近い。が、軍務は文字通り命がけだから、彼はもっと徹底している。

 その経歴を知った源田中佐は通常任務を免除してまで模型飛行機を作らせた。

 南には夢のような命令であった。好きな模型飛行機を次々に作れるのだ。与えてられた資料は航空参謀の調達だけあって一般人には手に入らない図面や写真がふんだんに盛り込まれており、南は目を輝かして見つめた。

 おまけに食事は参謀の豪勢な物が与えられた。兵員室も戻る時間すら惜しいからと源田が自分の食事を食べさせたのだが、南が見たことも聞いたこともない珍味が次々と給仕されるのだ。ビフテキが出てきたときには本当に食べてもいいのかと尋ねてしまった。こんな美味い物は喰ったことがない。

 だが、それは次第に悪夢に変わっていった。源田は南を参謀室にカンズメにして一日中模型飛行機を作り続けさせ、日に三回は早く作れと督促するのだ。しかも何機作れば終わりなのか教えてくれない。戦闘機が一揃え終わると次は爆撃機、単発機から双発機……切り出しナイフを持ち続ける南の指は血豆が潰れ、肩や腰は筋肉痛で動けなくなるほど作り続けても参謀は解放してくれない。せっかくの美食も喉を通らなくなっていった。

 結局、南は三〇機の五〇分の一模型を製作させられた。ようやく参謀室から解放された時には、充分以上の栄養を摂取しているはずなのに目は落ち込み痩せこけていた。数えられないほどの血豆が潰れた掌は、絆創膏からにじみ出た血が固まって赤黒く染まっている。神経も参っているようで、モールドを均一にしなきゃの、リベットの間隔が広いだの、訳の分からない独り言をぼそぼそと呟いている。

 断片的に判別できる独白から推測すると、作業の多さから来る疲労よりも督促されて不本意な出来でも提出せざるを得なかったことが負担になっているらしい。

 同僚たちはとにかく休ませようとベットに寝かせた。と、当然「主翼の捻り下げがきつすぎる、やりなおさせてくれ」と叫ぶ。周囲の兵がビックリしてのぞき込むと寝息を立てていた。寝言でうなされているのだった。

「あの鬼参謀は兵をこんなボロボロにしやがって、何を考えてるんだ。」

 何を考えているかは次の日に分かった。搭乗員たちは南の模型を使ってのとんでもない訓練を受ける羽目になったのだ。

 飛行甲板の艦首で、源田が箱から模型飛行機を出してぐるりと一廻ししてまた箱に仕舞う。艦尾でそれを見る搭乗員は全力疾走で艦首に走り、機種を申告する。

「スピットファイヤであります」

「馬鹿もん、よく見ろ。」

源田は箱を開く。零戦が収まっている。南はこれのどこが気に入らないのか、搭乗員の目から見ても見事な零戦だ。ただし、それは近くで見ればの話だ。

「貴様、自分が搭乗している飛行機も分からんのか。罰として甲板一周。」

 全力疾走で飛行甲板を走る。足を滑らすと海に落ちかねない。かといってゆっくり走ると鉄拳制裁のうえ、もう一週走らされる。

『見える訳無いじゃないか』とも言えず、搭乗員達は飛行甲板を何周も走る羽目になる。瑞鶴の飛行甲板は二四二メートルもある。その距離から見た五〇分の一模型など、どれも同じ木片にしか見えない。

 しかし、源田はこの訓練をやめようとはしなかった。僚艦「翔鶴」でも奥田参謀が模型を借り受けて同じ訓練を行っている。三カ国の航空機が入り交じる空戦において、機種選別は絶対に必要なのだ。ドイツ機は友軍、イギリス機は敵、徹底的に覚え込まなければならない。

 人間とは不思議なもので、不可能と思っていたことでも繰り返していくうちに少しずつできていく。全体のフォルムだけでなく、特徴的な箇所で識別すればいいのだ。

『固定脚、長い翼、後部機銃。よし分かった!』

岩井は全速力で艦首に走り、源田に申告する。

「ドイツ軍のスツーカ爆撃機であります」

源田は憮然とした中にも笑いを抑えたような複雑な表情で箱を開く。

「そりゃないでしょ……」

岩井は思わず呟く。箱の中身は日本海軍の九九艦爆であった。

「もう一周してこい。」

『南のバカ野郎、イギリスで九九艦爆が飛んでる訳ないだろうに。』

 飛ばなくはない。奥宮参謀の九九艦爆は「翔鶴」に収納されているから、必要とあれば作戦に参加できる。ただし「翔鶴」と「瑞鶴」に爆弾は搭載していないから、爆撃には使いようもないが。

 ともあれ、搭乗員たちの山勘より源田参謀の知恵の方が上を云っている。搭乗員たちが甲板マラソンから開放さえるのはまだ先になりそうだった。

 疲労から回復した南は、今度は搭乗員たちの理不尽な冷たい視線に耐えねばならなかった。それでも、しばらくすると南は木片を削っている。不出来だからと嫌がるのを、源田が無理に持って行った零戦を作り直していたのだ。

「ここまで来ると病気だな」

岩井はあきれ果てた。

 既に艦隊はシンガポールを突破、マラッカ海峡を抜けセイロン島に達していた。

 作戦開始予定日まであと三九日。


 佐藤大尉はイライラを募らせていた。ようやく艦内は通常に戻り、飛行訓練が再開された。それはいいのだが、航海の日程が切り詰められているために訓練の時間が充分に取れない。燃料も節約しなければならない。

 やむを得ず、一度飛び立つと複数の訓練を続けざまに行う。今日は編隊飛行の訓練を行ってから射撃訓練を行う。

 多くの国と同じく、日本軍も編隊は三機単位である。先頭を飛ぶ一番機に二・三番機が順う。均等間隔で三角形を位置して飛行するのは案外に難しい。ただ真っ直ぐ飛んでいるだけならまだしも、戦闘機は位置や速度を細かく変えねばならないし、ましてや戦闘ともなれば持てる技量の限りを尽くして敵を追う、あるいは捕捉されないように複雑な飛び方をするから、お互いを補完すべく編隊を維持するためには充分な訓練を積まなければならない。個人の技量がいくら高くても、編隊飛行は互いの性格やクセを知り抜くほど緊密な関係を築かなければ出来はしないのだ。

 本来は、更に下川万兵衛大尉が率いる「翔鶴」戦闘機隊との連携も訓練しなければならないのだが、果たしてそこまで出来上がるかどうか。

 だが、佐藤大尉を悩ますのはむしろ射撃訓練の方である。零式艦戦の両翼に装備された九九式二〇ミリ機銃は、威力は大きいものの弾丸が重い分だけ弾道が下がりやすい、いわゆるションベン弾になる。初速も六〇〇メートル/秒と遅くて射程も短いから命中させるのは難しい。おまけに携行弾数は一丁あたり六〇発しかないから、あっという間に撃ち尽くしてしまう。

 「思い切り近づいて、ここぞという瞬間に短く撃つ。」

佐藤は下川大尉に教えられたコツを口に出して言ってみた。言うは簡単だが、実際には至難の業だ。

 下川大尉は零戦がまだ試作時代からテストパイロットを務めていた。いまだ各種試験飛行を繰り返しているところを、源田参謀が無理矢理に「翔鶴」戦闘機隊長に引っ張ってきたのだ。

 機械に初期不良はつきものとはいえ、いまだに細かい問題点が少なくない零戦を技術者もいない外地で実戦投入するのだから、下川大尉のように零戦の構造をよく知るパイロットがいるといないでは、その運用に大きな差を生じる。

 実際、この時期に下川大尉ほど零戦を知る人物はいないだろう。引き抜かれた審査部は零戦の改善や性能向上が遅れると異議を申告したほどだ。

 佐藤が実戦で鍛えられた武人とすれば、下川は沈着冷静な理論家と云えよう。

 台湾の高雄に入港した際、佐藤は「翔鶴」に乗り込んで下川に会いに行った。上陸許可が出ているはずなのに下川が降りてこないからだ。格納庫にいると教えられた佐藤が行ってみると、下川は整備兵に昇降舵の調整を教えていた。

「いいか、零式の方が高速だから、その時に舵角が小さくなるように操縦系統の剛性が九六艦戦より低い。これくらいが適正なんだ……」

 佐藤は黙って下川の話を聞いていた。なるほど、テストパイロットは搭乗員として操縦技量が優れているだけでなく、技術者の能力と情熱が必要なのか。整備員に機体の取扱説明が出来るほど熟知しているのは旺盛な研究心があるからに違いなく、上陸もせずに説明を続けるなど、余程の熱意がなければ出来ることではない。

 下川の方でも佐藤の視線を意識していた。零式艦戦を初めて見た日に列機を率いて長距離飛行をするだけでも大したものだが、経験がほとんど無いままに部下の指導までやってのける。たぐいまれな技量を持つに違いない。それは才能だけでなく、不断の努力があってこそだ。

 話してみて、二人はすぐに、お互いにないものを持つ有能な士官だと認め合った。

「二〇ミリがションベン弾にならないくらい接近して撃つわけだな。」と、下川から大口径機銃の問題点を聞いた佐藤は言う。

「いや、それだけじゃない。両翼の機銃は五〇メートル先で弾道が交差するように調整している。射撃するには手頃な距離だな。だが、この距離でも弾道は下がる。それを見越して射撃しなければならない。それが嫌なら四〇メートルぐらい先で弾道が重なるようにすればいい。これだとかなり命中率は高くなる。しかし……」と、下川が言葉を濁すのを佐藤が続ける。

「そこまで敵に接近するのは容易なことではない。」

「そう、中国軍の旧式機なら零式の方が早いからなんとでもなる。しかし、イギリス軍のスピットファイヤ相手だとそう簡単にはいくまい。」

「零式よりも早いのか?」

「わからん。しかし、設計者がシュナイダー・トロフィーで優勝したミッシェル技師だと聞く。流線型の機体や主翼の薄さから見ても、かなりの高速だと思う。」

 シュナイダー・トロフィー・レースとは水上機のスピードレースで、五年間に三度優勝した国がトロフィーを永久に保有するとしたものであった。一九一三年から開催されたこのレースは次第に加熱し国家単位の競争となった。熾烈な争いの果て、一九三一年、スーパーマリンS六Bによりイギリスは三大会連続優勝し、トロフィーを獲得している。

 彼らが知るよしもなかったが、スピットファイヤMk.一aの最高速度は時速五八二キロ(高度五,六三九メートルにおいて)だから、零式の五三三キロ(高度四,五五〇メートル)よりかなり早い。最高速度だけで戦闘機の優劣が決まるものではないが、この差は大きい。

 「速度といえば、それよりも問題がある。零式はだいたい時速六〇〇キロ以上を出すと空中分解する。」

佐藤は絶句した。どんな飛行機でも急降下で速度を上げ続ければ空気抵抗は大きくなって、どこかで機体強度の限界を超えてしまう。ましてや零式は高性能を目指すために軽量化しているから、当然、機体は脆弱になる。それにしても、六〇〇キロ以上出せないとは厳しい。

 設計した三菱と航空技術廠では九三〇キロぐらいまで大丈夫と推算していた。現実にはそんな速度を出せはしないから、高速飛行で機体強度に問題はないということになる。しかし、実際の試験ではそれより遙かに遅い速度で空中分解してしまった。

 この時のテストパイロットが下川大尉である。普通なら殉職は免れない大事故だが、下川は的確で素早い判断力と多分の幸運により辛くも脱出し、軽傷で生還している。

 下川はその時の状況を冷静に分析し報告している。この貴重なデータは零戦の改善に大きく貢献した。しかし、この急降下の速度制限は若干の解消はあるものの、最期まで解決には至らず、零戦の泣き所となる。

「空中分解の原因は分からん。だが、速度制限は徹底させなければならない。」

「となると、頼みは操縦性の良さと旋回性能か。」

 空戦は先に敵を発見し、有効なポジションを占めて先制攻撃を行った方が有利で、互いに相手を認識した上での格闘戦は案外に少ないことを、佐藤は経験上知っている。だから操縦性はともかく、旋回性能は圧倒的なアドバンテージにはなりにくい。

「楽な戦いにはなりそうにないな」


 「瑞鶴」戦闘機隊は編隊を組み終わった。発艦開始から一五分、八一機の大部隊にしてはまずまずの成績と云える。本来ならこのまま編隊を維持する訓練を行い、編隊飛行を徹底させるべきなのだが、その余裕がない。

「次は射撃訓練だ」

 佐藤がバンクで合図すると九九艦爆が編隊の前方に出てきた。奥宮参謀が乗ってきた機体だ。後席から長いロープが流されている。ロープの先端には吹き流しがあり、それを標的にするのだ。

 最初は照準しやすい機首の七.七ミリ機銃から訓練すべきだろうが、佐藤は思いきって、いきなり主翼に装備された二〇ミリ機銃の訓練をすることにしている。ベテラン搭乗員は搭乗機が違っても撃ち慣れた機首の七.七ミリ機銃なら命中させられるだろう。

 問題は二〇ミリだ。戦闘機にこんな大口径機銃を搭載するのは日本はおろか他国にもあまり例がない。当然、欧州派遣軍の搭乗員の中でも射撃経験がある者などほとんどいない。特性を熟知しているのは下川大尉ぐらいだ。

 やってみると、案の定、より抜きの猛者ぞろいの射撃だというのにほとんど命中しない。これだけの機数で射撃訓練すれば標的の吹き流しは穴だらけになって、訓練後半の者は命中したのかどうか判別ができなくなりそうなものだが、今回は吹き流しに目立った変化はない。

 この訓練方法に満足できないのも佐藤大尉の悩みだ。戦闘機同士の空中戦は後を取って射撃する場合が多いから、訓練もそうあるべきなのだが、吹き流しを後から射撃するとその前を飛ぶ曳航機にも命中してしまう。だから実弾を使った射撃訓練は目標の横からしかできない。これでは実際の感覚はつかめない。ある程度以上の射撃技量は実戦で会得するしかないのだ。

 弱敵相手ならともかく、イギリス空軍相手ではそんな悠長は出来まい。しかし、他に射撃訓練の方法はない以上、吹き流し相手に射撃の距離感覚だけでもつかむしかない。

 真横からの接近はしずらい。どうしても射撃しやすい後方に回り込みがちになる。実弾を使うのだから、そうならないようにしつこく注意しているのだが……。

「まずい」と佐藤は思ったが、空中では制止しようがない。

 田所達也二等飛行兵長は吹き流しのほぼ真後ろから射撃した。実戦なら誉めてやるべき絶好の射撃位置だが、訓練は別だ。吹き流しを曳航する九九艦爆の真下を曳航弾が流れていくのが見えた。二〇ミリのションベン弾でなく、低進弾道の機首七.七ミリだったら命中していただろう。

 田所も事の重大さが分かっているのだろう。訓練集合後に整列した田所は真っ青な顔をしている。

 佐藤大尉の鉄拳制裁は激しかった。田所は何発殴られたか分からなくなるほど鉄拳を受けた。ようやく開放されたときには、頬が真っ赤に腫れ上がっていた。

 搭乗員室で呻きながら横になっている田所に南が氷水に漬けたぬれタオルを持ってくる。冷たいから傷にしみるが腫れは引くだろう。

「ここまで殴らなくてもいいじゃないか」

岩井の不満を田所は制する。

「いえ、自分のミスですから」

「そりゃそうだが、当たったわけじゃないし……」

 南はまだ立っている。

「佐藤大尉には口止めされたんですが……その氷水を調達したのは大尉です。」

 岩井は南を凝視する。

「訓練が進まない苛立ちのあまりつい感情的になって、すまなかったって。主計課の吉川大尉に頭を下げて冷蔵庫を開けてもらったんです。」

「あの吉川大尉にか。」

 主計課が配給に優遇のある搭乗員を目の敵にしているため、搭乗員の指揮官である佐藤大尉も最近では吉川大尉とほとんど絶縁状態にある。

「はい、佐藤大尉は、ギンバイ禁止の厳命を自分から破る訳にはいかない、筋は通すって。」

 田所が痛む口を開く。

「隊長が殴るときは必ずちゃんとした理由があります。それに、隊長は自分の手で殴ります。」

 言われてみれば、確かにそうだ。兵が「整列」で制裁されるときには、たいがい精神注入棒と称する堅い木棒か鉄棒で尻を殴られる。これは人間の拳で殴られるより遙かに痛い。気絶することもしばしばだ。

「きっと殴る方も痛みを感じるように、自分を律しているんだと思います。」

「厳しいけど立派な方です。自分は、佐藤大尉のような上官を持てる搭乗員の皆さんがうらやましいです。」

 南は敬礼して部屋を出て行った。

 艦隊はインド洋に入り、そのまま西進していた。

 作戦開始予定日まであと三四日。


 欧州派遣軍は敵と戦う前に熱波と戦っていた。なにせ8月に赤道の少し北を航行しているのだから。インド洋は東南アジアとはまた違った暑さだ。インド洋も北部ならば吹いているはずの季節風がここでは弱い。そのせいか空気すら重く感じる。

 もう少し北を航行すれば気温も少しは低いのだろうが。

 帆船の時代はインド洋北部の季節風を利用して航行していたせいもあって、主要な航路は北部を通っている。インド西岸沿いに一度北上してアラビア半島のアデンを目指すルートがその代表だ。しかし、それはインドから欧州を目指すイギリス船が多いということでもある。

 発見される危険を避けるため、艦隊はインド南端からモルディブ諸島を抜け、アフリカの東、ソマリア半島南端を目指す。そのため、一番暑い地帯を一番暑い季節に通る羽目になったのだ。

 もともと日本海軍は日本の近海に接近してくる敵艦隊を迎撃する戦略を基本としており、長距離航行など考慮していない。云い換えれば、攻撃力を強化するために居住性を犠牲にしている。南太平洋が主戦場と想定しているとはいえ、日本の艦船は熱帯を長期間航行できるような代物ではないのだ。

 「翔鶴」型空母のような大型艦は小型艦よりはマシだが、それも折りたたみ式ベットが備え付けられているだけで水兵が喜ぶと云った程度だから、他は推して知るべし。

 艦内気温は摂氏四〇度近くにまで上昇し、特に風通しの悪い機関区などは蒸し風呂になる。甲板に出れば航行しているから風はあるが、逆に強烈な太陽に灼かれる。熱射病で倒れる兵が続出する。

 源田参謀の模型を使った機種識別訓練も中止された。甲板に陽炎が立ち上ってとても見える状態にはないのだ。

 ようやくインド洋を横断した艦隊はアフリカ東岸で補給艦・給油艦艦隊と接触した。航海参謀の雀部は近くの艦橋要員がそれと分かるほど、大きく安堵の息をついた。

 ランデブー・ポイントは指定していても、目標物のない大海原で迷わず会合するのは難しい。日程通りに航行できるかどうかも分からないから、こんな遠距離航行で間違いなく接触するのは至難の業だ。

 交信して互いの方位を確認し合えば良いのだが、この航海は秘密だから迂闊に電波を出す訳にも行かない。予定通りに接触できたのは奇蹟に近い。

「おい、あれは「間宮」だぞ。」

 誰かが叫び、兵は一斉に前方を凝視した。「どこだ」「確かにそうだ」「俺にも見せてくれ」と嬌声が飛び交う。

 給糧艦「間宮」は食糧専門の補給艦である。一八〇〇〇人が三週間は食べられる食糧を積み込めるうえに、施設も充実し、艦内で羊羹まで製造できる。場合によっては牛を生きたまま搭載してステーキまで配給できるほどの贅沢ぶりだ。食べる以外に楽しみのない航海では、水兵にとって「間宮」は宝船に等しい。騒がしくなるのも無理はない。

「よくもまあ、ここまで来てくれたものだ」

 横川はつぶやく。「間宮」は大正一三年の竣工、もはや老朽艦といっていい。重油を節約するため、なるべく石炭で走るように設計されている。そのため、高い煙突からは黒煙が噴き上がっている。無論、速度も遅い。

 このほかに「極東丸」を始めとする給油艦隊が見える。いずれも速度の遅い艦ばかりだ。遠距離航海の苦労は最新鋭の「瑞鶴」「翔鶴」より更に大きかっただろう。

 給油作業を開始した「極東丸」の兵達は頬がこけ落ちているようにすら見える。彼らは作業終了、休む間もなく日本に引き返すのだ。

 給糧艦「間宮」からは食料品が補給される。全員に極上の羊羹が支給され、大喜びに沸き立った。ギンバイが厳禁されているために特に下級の者達は甘い物をほとんど口にしていなかったのだ。

 特別に入湯も許可された。士官には専用の浴室があるが、節水のため下士官・兵は風呂など入れるものではない。

 兵には航海中、大体二日おきに入浴券が配られる。その木札は入浴券と称してはいるが、引き替えにもらえるのは洗面器一杯の湯だけ。これで体を洗えというのだから無茶な話だ。が、人間はたいがいの事には適応出来るもので、慣れてくるとこれで体を拭いてハンカチの一枚ぐらいは洗濯も出来るようになってくる。

 とはいえ、そんなことで熱帯を航行する暑い艦内でサッパリできるはずもない。体を洗えるのはスコールが来たときだ。雨雲が近づくとたいがいの作業は中断して、裸になった兵が甲板に出てくる。スコールはそれこそバケツをひっくり返したような激しさだから、天然のシャワーを楽しめる。もっとも降り止むのも一気だから、まごまごしていると石鹸を塗りたくったところで「入浴」が終わってしまう。むろん、いつ雨が降るかは分からないから、大概は何日も汗まみれのままで過ごすことになる。

 水兵にとって入浴は何よりの贅沢と云えるだろう。艦内は歓声に包まれた。


 手紙を出すことも許された。兵達は酒輔のハガキを奪い合うように買い求め、家族への手紙をしたためる。

 喧噪の中、田所と南は静かに羊羹を食べていた。彼らには便りを出すべき家族がない。搭乗員と整備兵、兵科は違うが似たような境遇の者は近寄ってしますのだろう。

 橋本は別府海軍病院の晶子へ手紙を書く。普通は家族以外への手紙は許されないが、雀部参謀の計らいで認められたのだ。そうでなければ女への手紙など出そうとするだけで制裁ものだ。

『その後お変わりありませんか。僕はお陰様で元気です。いつか御礼をさせてください。』 晶子は3ヶ月後にそれを受け取った。

 あなたらしい純粋で繊細な文章。任務中に気を失うなんて、あんなに線が細くて軍人としてやっていけるのでしょうか。 

あの日、私があなたに微笑んだのは、そんなあなたを可愛いと思い、からかいたくもなったから。

 そう、私はあなたが思うほど純真でもなければ心根が良くもない。看護婦の仕事は病気や怪我で増幅された人間の嫌な面を見させられるの。海軍はハイカラでスマートだなんて世間では格好をつけてるけど、入院する男たちは粗野で下品。看護婦ごときとバカにしているから本性を出しちゃうのね。

 だから、海軍病院の女はいつまでもウブではいられない。それが分からないなんて、本当にあなたは純朴な人。私の本性を知ったら、さぞがっかりするでしょうね。

 それでも私は、恥ずかしげに私を見るあなたの視線を愛おしいと思った。あなたが望む女でいたいとすら思った。今、あなたからの手紙を見て、簡素な文面に乙女のようにときめいている。

 お待ちしましょう。御武運を、とは申しません。どうか無事でお帰りください。


 補給が一段落した夜、橋本は雀部参謀の私室に呼ばれる。幕僚事務室の書類整理とは表向きで、雀部は酒の相手が欲しかったのだろう。とっておきのジョニー・ウォーカー黒ラベルを開いた。

 「ツマミがないな」

 と、雀部は「間宮」製造の羊羹を橋本に勧めた。辛いスコッチは意外にも羊羹があう。「これから戦う国の酒が好きだなんて、変な気分だな」

 などとつぶやく雀部は見るからに疲れていた。気の休まるときのない長い航海はようやく半分強。しかも、これからドイツとイギリスが戦っている大西洋へと向かうから、航海はこれからの方が困難になる。

 この補給が終わり欧州へ出発すれば、もう戻ることは出来なくなる。引き返せば日本へ帰り着く前に燃料が尽きてしまうからだ。それが更に航海参謀にプレッシャーをかけるのだろう。

 あまり飲んでもいないのに酔った雀部は、日頃は口に出来ない苦悩を語りだした。

「ヒトラーは友邦である日本を助けると言っているが、自国もイギリスとの戦争で手一杯の状態で、アテにして良いものかどうか。この航海が成功したとしても、その結果、日本はイギリスという強敵を作るだけに終わるのではないだろうか。」

雀部はスコッチをあおる。橋本はどう答えて良いか分からない。が、雀部は自分の感情を吐露したいのだろう。返事が無くても続けていく。

「日本はシナ事変でもう国力の何割かを消耗している。おまけに中国は粘り強くて戦争はいつ終わるのか分からない。」

雀部は羊羹を大きく切って口に入れた。

「この上、衰えたとはいえ七つの海を支配する大英帝国を敵に回して戦線を維持できるのか。」

 と、唐突に話題を変えて橋本に語りかける。

「この羊羹、美味いな」

「はい、自分は初めて「間宮」の羊羹を食べました。こんなにおいしい物だとは知りませんでした。」

「娑婆じゃ羊羹どころか駄菓子でさえ品薄になってきている。フネに乗ってばかりだと感じんがな、上陸する度に物資が欠乏していくのが分かる。」

「はい、自分も帰郷してカンズメを持って買えると母に喜ばれます。あ、ギンバイではありません、酒輔で買った物です。」

 雀部は薄く笑った。

「お前の里は広島だったな。海軍のお膝元だから物はあるはずの町でな。

 いいさ、海軍にばかり物があって娑婆じゃ喰う物も足りないってのもな。物資を節約する航海だと云っても、俺たちはアフリカくんだりでこんな美味い物を喰ってる。」

 雀部はまたジョニ黒をあおった。少しずつ飲むという意識はないようだが、それにしても目つきが怪しくなっている。疲れのせいか酔いが早いのだ。

「なあ、日本は物事を解決するのに、こんな戦争ばかりする国でいいのかな。地図を見てみろ。いや、航路図じゃない、あれだ。」

 杯を持った手が示す壁にはメルカトル図法で描かれた世界地図が貼ってある。

「日本の廻りは敵だらけだ。」

 確かにそうだ、と橋本は思った。中国とは交戦状態、ソビエトは仮想敵国、太平洋の反対側のアメリカとは緊張関係にある。

「これだけの強国と同時に戦争するんだ。なあ、戦争ってのは負けることもあるんだぞ。」

「参謀!」

 橋本は思わず叫んだ。神州日本が敗北するなど、いやしくも帝国軍人たる者は思うことすらあってはならない。

「すまん……飲み過ぎたようだ。今のは忘れてくれ。」

雀部は杯を置いて目尻を押さえた。

「疲れている。いかんな、航路を示すべき者がこのざまでは、いい笑い者だ。」

「いえ、参謀は立派であります。自分は参謀を尊敬しております。思慮深く部下思いの上官の下で働けて、自分は果報者であります。」

「そうか……、ありがとう……」

雀部は寝入ってしまった。橋本はそっと毛布を掛け、部屋から出て行った。


 そして艦隊はアフリカ東岸を南下。天候が許せば飛行訓練も行うが、ひたすら先を急ぐ。甲板に立つと蒸し焼きにされそうな熱波のなか、艦隊は赤道を越える。

 南半球は季節が逆だから9月はこれから暑くなるのだが、さすがに赤道から離れるにしたがって熱波も穏やかになっていく。アフリカ南端は日本の春を思わせる穏やかな気候だ。

 九月九日、ついに喜望峰を越える。これから先は大西洋、ドイツとイギリスが激しく戦っている海だ。そう思うと温暖な気候ながら波が鋭いように感じる。

 「瑞鶴」会議室では航路と日程の確認が行われた。

「西経10度付近まで西進、進路をほぼ北に取りアフリカ海岸に沿って進みます。ギニア湾でふたたび西進、アフリカ西端からは海岸沿いに進み、ヨーロッパを目指します。現在、艦隊は高雄出港時に作成した予定通りに航行しております。」

 『奇跡的に』と雀部は付け加えたい衝動を抑えた。よくぞここまで無事に進めた。その代わり、乗員の疲労は限界を超えつつある。別府を出港して今日で一ヶ月、台湾の高雄での短い上陸を除けば、あとはソマリア沖で補給を受けたとき以外は休養も取らずに進み続けているのだ。

 航空参謀の源田が発言する。

「北西に進路を取って、大西洋を一直線にダカールに向かった方が航行距離が短い。燃料も節約できるんじゃないか?」

この男はどうしてこうも元気なんだろう、と思いながら雀部は答える。

「それだとドイツとイギリスの交戦域に入る恐れが高いのです。」

 源田の言うルートは、通常の航海なら正しい。現に、イギリス領南アフリカからロンドンに向かう一般航路に使われているコースがそれだ。イギリスの輸送船もこれを航行するため、それを狙うドイツのUボートが潜伏している。無論イギリスも黙ってUボートの餌食にはならないから、ここでは両国の激しい戦闘が繰り広げられている。

 警戒すべきは弱体したイギリス海軍よりも、むしろドイツのUボートの誤射だ。日本から空母が派遣されていることは各艦長には伝えられているそうだが、箱形の船体は潜望鏡越しには大型タンカーに見えるだろう。空母と認識されても、ドイツ海軍に空母は存在しないからイギリス艦と間違われる恐れが高い。

「うむ、そろそろドイツ国籍になった方がよいな」

 味方撃ちを避けるため、「翔鶴」と「瑞鶴」の船体に大きく鍵十字を描くのだ。イギリスに日本製と看破されたら、空母二隻をドイツに供与したと云うことにする。名目上はドイツ海軍の所属となるのだ。途方もなく都合のいい主張だが、軍令部はこれで押し通す方針である。

 ともあれ、両艦に鍵十字が描かれた。航行しながら描いたために曲がってしまい、何とも不格好だがやむを得まい。

 後々までイギリスから「身勝手な二重国籍船」「卑怯なコウモリ」と非難される「歪んだ鉄十字」はここに始まる。

 これを見ればドイツからの攻撃はなかろう。しかし、どこまで識別できるのか。特に夜間は潜望鏡から見えるものではないから、気休めに過ぎないかもしれない。しかも、イギリス艦に認識されたら躊躇なく攻撃されることとなる。

 零戦も日の丸を塗りつぶして鉄十字が描かれた。艦内に鉄十字や鍵十字の型紙なんかない。全て手書きになるから、若干線が曲がってしまうのは致し方ない。日の丸を消した部分だけ明灰白色が新しく、その上に塗りたくられた白と黒の十字はいかにもやっつけ仕事で塗り直しましたと言っているようで、どうにも格好悪い。

 せめて指揮官機だけでもちゃんとした塗装にしたいと、南は佐藤大尉の搭乗機を、源田から見せてもらった資料のメッサーシュミットBf-一〇九と同じ迷彩に塗り直した。

「俺の面はどう見ても日本人だかな」と、佐藤は苦笑いした。整備隊長は「命令されもしない事をするな」と制裁したが、塗装はそのままにしておいた。零戦は意外にドイツ機迷彩が似合っていたのだ。


 九月二一日、雀部は幾分か気が楽になっていた。艦隊は現在モロッコ沖を航行している。モロッコはフランス領だが、フランスはドイツに占領されているから友軍の近海を航行しているといっていいだろう。想像以上の苦労だったが、間もなくヨーロッパに入る。あと一息だ。

 気候も随分と穏やかになった。赤道直下を航行してきた身には九月下旬の北アフリカは肌寒く感じるほどだ。

「これから寒くなるんだなあ」

 心配されたUボートからの誤射もなく、この分だと予定通り九月二五日にルアーブルへ到着できそうだ。作戦開始予定の一週間前だから、充分とは云えないが、なんとかドイツ空軍との連携や戦闘準備も調うだろう。

 もっとも心配だった燃料もなんとかなりそうだ。航続距離を伸ばすためにドラム缶を積み込む苦肉の策は効果あった。

 突然、通信が入る。ベルリンの日本大使館からの発信をドイツ占領下のフランスが中継したものらしい。暗号解読された電文を受け取った横川は黙りこくり、源田に用紙を渡した。

「間違いないな」と源田は通信兵に念を押す。日焼けした顔が幾分か青ざめたようだ。

 雀部も電文を見て沈黙した。

〈エックスハ フタフタヒ マルキュウジ〉

『ドイツ軍のイギリス攻撃開始は9月22日午前9時』

 明日の朝である。目的地ルアーブルまであと約二〇〇〇キロ、「瑞鶴」が最高速度の時速六三キロで走っても丸一日以上かかる。

 「間に合わない……」

 源田は海図をにらみ、余白で何やら計算を始めた。

 すぐに答えは出たらしい。顔を上げると横川に作戦会議招集を願い出た。

 幕僚会議室で源田は地図を示しながら説明を始めた。

「これより艦隊は全速航行にてイベリア半島を北上し、リスボンの北、ロカ岬沖まで進出します。翌朝六時ぐらいに到着となります。ここからですと交戦予定のドーバーまで直線距離で一五〇〇キロです。ここで全機発進します。零式を巡航、時速三〇〇キロで飛行すればちょうど攻撃開始の九時に到着できます。作戦終了後は海岸のカレーかダンケルクに着陸すればよいので燃料は持ちます。」

 会議室の一同は黙りこくった。零戦は増槽を活用すれば二〇〇〇キロ以上の飛行も可能である。しかし、これほどの長距離を飛行したことはない。ましてや全く初めての土地で間違えずに辿り着けるものかどうか。

 戦闘機はなんとかなったとしても、艦隊はどうなる。燃料は足りるのか。全速航行は燃焼消費を増加させる。

「カツカツです。入港直前で動けなくなるかも知れません。」

 そのルアーブルに入港するためには、空戦後にイギリス海峡に入らなければならない。おそらくイギリス海軍はいきり立っているであろう。しかも、源田は『全機発進』と言った。直掩機すら無い空母は攻撃されたら反撃手段がない。

 源田は続ける。

「ドイツ空軍の攻撃が成功すれば、イギリスは大混乱になります。我々を攻撃してくる余裕はないでしょう。そのためにも、零式はイギリス攻撃に集中すべきです。勝てばあとはなんとかなります。」

 そうかもしれない。しかし、援護もなしに敵地に飛び込むのは無謀ではないか。

「ドイツ軍に援護を頼みましょう。九九艦爆で自分と奥宮参謀がスペイン北端からルアーブルに飛びます。」

 ドイツ軍の方にもその余裕があるかどうか。

 何よりもまず、零戦隊が戦場にたどり着けるかどうかが問題だ。

「佐藤大尉、どうか?」

 佐藤大尉は航法の神様と云われるほどの名人である。彼が『出来ない』と判断したら、源田がどう言おうとこの作戦は不可能となる。

 一同が注目する中、佐藤はごくあっさりと答えた。

「いけるでしょう」

「真っ直ぐ北西に飛べば、イベリア半島の北端をかすめてビスケー湾、ブルターニュ半島とコタンタン半島を越えてまた海、ルアーブルが右に見えてくるでしょう。目標のない海の上を飛ぶよりは楽です。そこからはドーバー海峡は直前。狭い海峡だから見落としたりしません。空戦後に降りるカレーも大体の位置はこの時に確認できますから、初めてとはいっても間違えずに飛べるでしょう。この距離ですから、燃料消費に気をつけて飛べば充分に空戦するだけの余裕はあります。」

 まるで近所に散歩にでも行くような気安さだ。

「よし、やってみよう。」

横川は裁断を下した。 


                           (第三章に続く)


 次章 出撃

 暖気は終わった、行くぜ 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ