表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドーバーの零  作者: 北長六功
2/8

【第1章】 出港

 脂汗が滲むのは夏の暑さからだけではない。軍令部総長室に出頭した嶋田繁太郎海軍中将は伏見宮博恭王総長の言葉に混乱していた。

 この見た目は鷹揚な、いかにも宮様といった風防の老人は、外観からは想像も使いなほどの影響力を海軍、いや日本帝国に与えることが出来ることを嶋田は改めて思い知らされた。

 分かっていたつもりだった。皇族と云うだけでは元帥の地位まで上り詰めることは出来ない。しかも軍令部総長を務めてもうじき8年にもなる。この間に伏見宮は海軍に確固たる発言力を築いてきた。そのための様々な活動――なかには「暗躍」と表現すべき行動も――のいくつかには嶋田も関わっている。嶋田が現在の地位に登り得たのも、伏見宮軍令部総長の信任があったためとも云える。

 それにしても、この作戦は嶋田の理解力を超えていた。

「どうも飲み込めていないようだね。もう一度要点を伝えよう。

 一 友邦ドイツを援助するために零式艦上戦闘機をもって義勇軍を組織する。

 二 欧州義勇軍は空母「瑞鶴」「翔鶴」の二隻で輸送する。各艦に零式艦上戦闘機はそれぞれ八一機、合計一六二を搭載する。

 三 昭和一五年八月までに出港する。」

 言葉の意味は分かる。だが、どうやって実現しろと言うのだ。

「もうじき同盟も締結される。ドイツは日本に対して石油や物資の援助を惜しまないと言っているそうだ。ヨーロッパの戦争が継続中だというのにだ。それに対して我が国が、ドイツで不足気味の戦闘機隊を贈るのは見返りとしては少ないぐらいだ。無論、他国を刺激したくないので日本の国籍は消すがね。

 さて、それに対する君の反論は無理な要素が多すぎる、ということだが。本計画が無理ではない説明も、もう一度しようか?」

「いえ、結構です。」

 充分であった、自分の反論がことごとく封じられたのは理解したのだから。

 作戦の意図や他国に与える影響について反論すれば議論は堂々巡りとなり、結論をうやむやにすることも出来るだろう。だがそれは政治の問題であり、「軍人は政治に関与せず」を教え込まれてきた嶋田には出来ないことであった。

 嶋田は考え落としている反対理由はないか、伏見宮総長の答弁をもう一度考えてみた。

 第一の反論は翔鶴、瑞鶴ともいまだ完成していないこと。ところが、予定では竣工まで一年かかるはずだったのが、まもなく偽装が終了すると云う。嶋田が支那方面艦隊司令官として内地から離れている間に建造計画が変わっているのだ。

 『当然人員も急遽編成されるが、艦そのものは戦闘目的でなく輸送のためだから少々の不備は克服できる。』

 この点、伏見宮は将兵を道具としてみる傾向があるものの、似たような傾向が皆無とは言えない嶋田も反論を封じられる形となった。。

 『それよりも、最新鋭で高速な二艦なら2ヶ月でドイツまで辿り着ける。長大な航続距離を持つから給油は一回で足りる。』

 嶋田を驚かしたのは、補給物資を満載した補給艦と給油艦は既にインド洋に向かっている、と告げられたことだ。自分が知らないうちに既に計画は動いている。

 『どうしても油が足りないならイギリス東洋艦隊からインド人が奪う腹案もある。』

 陸軍は乗り気で石原中将が密かに動いている?――冗談だろう。この戦備が調わない状況でイギリスと開戦するつもりか? そういや総長はこれを言うとき本当に笑っていたな。どこまでが本当の話なんだ?

 『零戦の生産は急ピッチで進み、開発元の三菱だけでなく、中島飛行機にも手伝わせたから必要機数はほぼ確保される見込み。』 

 これに関してはメーカー同志の駆け引きや利害関係が複雑に絡み合っているのだが、それは経済の知識がないという点においては典型的な軍人である嶋田の想像力を越えていた。ただ、日本の航空機生産の過半をつぎ込めば、そりゃ数はそろうだろう、と思っただけだ。

 『搭乗員の訓練は航海中に仕上げる。我が海軍の精鋭なパイロットを持ってすれば、機種変換は二ヶ月で充分だろう。』

 そんなものかと思いつつ、航空機は不得手な嶋田には細かい反論が出来なかった。

 『零戦の図面や治具一式を送ってドイツで生産させるのは無理。ドイツも自国の戦闘機生産で手一杯なので、もう一本生産ラインを作る余裕は無い。日本としても、いくら同盟国にでも新鋭機の機密が丸裸になってしまうのは面白くない。同じ理由で機体のみの輸送も却下。新鋭機をドイツ人に運用させたくはない。』

 海軍が出来ないというなら、陸軍が新鋭戦闘機をドイツに送り込むとの主張は信じがたい。しかしヒトラー総統の信奉者が多い陸軍は、ドイツを助けるためとなれば無茶を押し通すかもしれない。そういえば、商船を改装しようとして、あれこれ新機軸を盛り込みすぎたために使い物にならなくてお蔵入りしていた特設空母を、陸運は輸送船にするとかいって引き取ったはずだ。

 他の海軍将官と同様に嶋田にも陸軍への反目がある。内容はなんであれ、陸軍に出し抜かれる事態は耐え難い。

 逆に云えば、この計画は既に海軍の枠を越えて動いている。海軍――そういえばこれほどの大事に海軍省と及川海軍大臣は何をしているのだ? 政府は、近衛首相はどう考えている?

 そこまで考えて嶋田は心の中で自笑した。海軍省すなわち行政主体で運営されてきた海軍を、軍令部、つまり作戦を立案する部局の権限を強化したのはこの伏見宮元帥なのだ。海軍大臣を押さえ込むぐらいはやっているのだろう。

 そうしてきたから、日本海軍は煩わしい政府とそれ以上に口うるさい議会とは関係なしに行動できる範囲が大幅に広まったのだ。それは嶋田自信も喜んでいたのではないか。

 もはや海軍は(陸軍はそれ以前からだが)政府が制御できる組織ではなくなっていることが、国家にどれほどの悪影響を与えるかなど、この時代の軍人は考えていない。

 逆に、政治家としては穏和な傾向が強すぎる近衛首相がなし崩しに計画を黙認しつつあることは、嶋田にも想像できた。

 とはいえ、この計画はあまりに不自然だ。

 大概の関係者が知らされたときには事態は進行し、変更はあり得ないような雰囲気の中で、反対意見を差し挟むことすら許されない暗黙の了解が何となく形成されている計画運営。ことが失敗に終わったときには責任の所在すらはっきりしない組織。そんなあやふやさで国家の一大事を進めてよいのか。

 無理に無理を重ねた計画はどこかで破綻する。嶋田の軍人としての本能が、これはやってはいけないと叫ぶ。

 嶋田は使いたくない最後のカードを切った。

 「|連合艦隊(GF)長官が承諾しないでしょう」

 海軍大臣、軍令部総長と並び、海軍三大ポストのもう一つ、連合艦隊司令長官の認可がなければ日本海軍の艦船は動かせない。そして司令長官、山本五十六は日本がドイツと軍事同盟を結ぼうというこの時期にあってもヒトラーを公然と批判し、それによって引き起こされる可能性の高い日米開戦を否定する男である。そのため、市中では命を狙われ、海軍内でも多くの敵を作っている。それでも自説を曲げない山本がドイツを援助する計画を許すはずがない。

 嶋田は山本の力など借りたくはない。二人は同期だが、格式を重んじる嶋田は自由奔放な山本が嫌いである。山本の方でも嶋田を『おめでたいヤツ』と馬鹿にしているから、両者が和解することはないだろう。

 そんな両者の確執を知っているはずの伏見宮は薄く笑った。

「山本君は説得できるよ。空母を建艦計画順位のトップに持ってきたのは彼の意向だからね、ここで借りを返してもらってもいいだろう。」

 確かに山本は戦艦不要論、航空機優先を唱え続けてきた。大艦巨砲主義を信奉する嶋田にとって、この主張も不愉快である。

 そもそも山本の航空隊への転属は左遷であったはずだ。ところが山本は人事に腐るどころか、逆に航空機の威力を確信して海軍の主流である大艦巨砲主義を否定しはじめ、航空重視を主張する勢力の代表として発言力を強めてきた。

 山本の後ろ盾としては米内光政大将がいるが、彼は海軍士官として一生ついて回る海軍兵学校や大学校の成績順位が低いうえに、口数の少ない性格でもあり、海軍内での発言力は小さい。

 にもかかわらず、航空主兵論者の勢いは強い。彼らの運動は派閥争いではなく、純粋に優れた兵器を用いることを目的とした要素が強いのだ。

 この点、海軍内での地位や権勢を意識していないと云えば嘘になる伏見宮や嶋田とは異なる。嶋田は自分の信じる道を進む山本の性格を心のどこかでうらやましいと思いつつ、伝統を非難する山本の態度は認めがたかった。

 山本が現場責任者の意向として、事もあろうに本来は最優先であったはずの世界最強の大和型戦艦の建造順位を引き下げ、代わりに空母優先を主張したのは、純粋にそれが戦術として有利だと考えたためだろう。

 しかし、組織は機能論だけでは廻らない。所属する人々の思惑が絡み合うのだ。

 艦の種類が違うので単純な比較は出来ないものの、「翔鶴型」空母は「大和型」戦艦より行程が10万以上も多いと云われるほど建造に手間がかかる。実際にはどの程度の戦力となるのか未知数の空母を優先することによって、世界最大の破壊力を持つことが確実な戦艦「大和」・「武蔵」の完成は当初の予定より一年近く遅れそうな状況になったのだから、戦艦の信奉者ならずとも砲術畑を歩いてきた将官、いわゆる鉄砲屋が面白くないのも無理はない。

 ともあれ、結果的に「翔鶴」と「瑞鶴」の二空母が間に合うがために、山本が嫌うヒトラーを援助する計画が成立する運びとなったのは皮肉なことだ。この二空母がなければ、恐らくドイツまで戦闘機を輸送する計画は成り立たなかったろう。

 日本海軍は早くから空母の建設に取り組んでいたこともあり、他国よりデータが集積され、その設計は卓越している。特に「翔鶴」型空母は軍縮条約が期限切れになり、規制を抜きに設計・建造されたために、艦載機搭載量、最高速度、航続距離、武装などの総合的な性能はこれまでのどの空母より優れている。設計陣が「理想型空母」と称しているのは自惚れではない。特に航続距離が九七〇〇海里もあるのは本計画に打って付けである。

 それに新鋭の搭乗機を積み込めば、アメリカやイギリスの新鋭空母が相手でも互角以上の戦いができるだろう。

 「例の新型艦戦ね。あれが一等国相手にどの程度使えるのか、一番知りたがっているのは山本君だ。イギリス空軍と戦えるチャンスを逃したくはないはずだよ。」

 伏見宮の予想は当たっているだろう。海軍の指揮官なら、いや軍人なら自分が手塩にかけて育てた部隊の実力を知りたい。出来るならば世界最強であると証明したい。

 ましてや山本の場合は海軍の主流に逆らってまで航空機を育成してきたのだ。その戦闘機がドイツと並んで世界最強といわれるイギリス空軍を打ちのめせば、これほど痛快な勝利はなかろう。博打好きな彼の人生でも最高の喜びとなるに違いない。

「しかし、すんなりと承諾するとも思えません。どうやって説得するのです?」

「そのために君を呼んだのだよ。たしか、君と山本は同期だったね。頼むぞ。」

 上下関係で機能する軍人にとって同期とは、それだけでシャバの「親友」などとは比較にならぬほど固い絆を意味する。しかし、それだけに人間関係がこじれると感情的になりやすく、修復が難しい。

 『貴人、情を知らず、とはよく云ったものだな。』

嶋田は心の中でため息をついた。所詮、人にかしずかれるのを当然として人生を送ってきた伏見宮には、二人の複雑な感情など考慮外なのだろう。

 嶋田はこの皇族にしたがってきたのは間違いではなかったのか思いつつ、軍令部長室を後にした。身の破滅だけが問題なのではない、国家の問題だ。

 しかし、今さら伏見宮の意向に逆らうことは出来ない。それが組織というものなのだ。

 この時、嶋田は最も重要な命題を失念していた。すなわち、「日本海軍航空隊はイギリス空軍に勝てるのか?」

 勝てる作戦を立案するのが軍令部のはずだ。勝つことを前提とした用兵、いや政治目的に引きずられて、戦闘に勝つための工面が曖昧なままになっている。こんな馬鹿な話を軍令部が立案するはずがない。嶋田がもう少し冷静であったなら、伏見宮の真意に気付くか、少なくともそれを疑問に思ったであろう。

 しかし、組織や人間関係のありようで頭がいっぱいになった嶋田が総長室に引き返すことはなかった。 

嶋田中将を退室させた伏見軍令部総長宮は深々と椅子に腰を沈め、かすかに微笑んでいた。

『あとは米内がどう動くかだが……、まあ、ヤツの性格からしてそう派手な動きは出来まい。山本、私を困らせた報いは受けてもらうよ。』

 山本五十六と彼の信奉者が主張する反ドイツと航空至上主義は、彼自身にその意図はなかったかもしれないが、海軍組織に大きな亀裂を生んだ。それは伏見宮が精魂傾けて作り上げた海軍軍令部の組織を破壊しかねないほど揺るがした。

『今度は君の大事な航空隊を壊させてもらう。』

 戦艦を何隻保有するかで海軍の力は決まると信じる、いわゆる艦隊派の首魁たる伏見宮にとって戦艦を馬鹿にする山本の言動は許し難かった。彼にとって山本が育てた航空隊は異端児であった。無論その実力など信じていない。異端児は成長するより、むしろ遠い異国でのたれ死にさせてしまい、その父である山本の権威を失墜させたい。万が一、零戦隊が勝ったなら、それはそれでヒトラーが喜ぶからよしとしよう。

 その笑いは国を外敵から守る軍の責任者のものではなく、残酷な復讐の甘美に浸る幼児に近かった。


 上層部の思惑に関係なく、日本各地で空母「瑞鶴」「翔鶴」への転任命令を受けた戦闘機搭乗員達たちは混乱していた。

 転任辞令を受け取っても、肝心の空母がどこに停泊しているのか分からない。それ以前に、急ピッチで進水した「瑞鶴」「翔鶴」そのものを知らない兵士が少なくない。しかも辞令にはこの転属は軍機であるとの但し書きがついている、すなわち尋ね廻ることすら出来ないのだから、どうやって母艦に着任しろというのだ?

 途方に暮れる兵士達に届いた追加辞令は、更に彼らの多くを困惑させた。

『零式艦上戦闘機に搭乗して指定の基地に集合せよ』

 未だ零戦は彼らに行き渡ってはいない。新鋭機の零戦配備の優先順位が高いのは、当然ながら戦闘中の中国大陸の部隊で、転任を命じられた内地の兵士達の大半は九六式艦上戦闘機か、その一世代前の複葉の九五式艦戦に搭乗しているのだ。

 鹿児島県鴨池基地の佐藤正夫大尉は空母「瑞鶴」戦闘機隊長を命じられ、次いで分隊ごと宇佐航空隊への移動命令を受けたものの、いつまで経っても零戦が届かない。にもかかわらず、宇佐からは早く着任せよと督促を受ける。搭乗機が届かない旨を伝えると、それは佐藤の責任だと言わんばかりの叱責が返ってきた。

 航空隊司令部に零戦の配備を求めても、待てとの一点張り。

 業を煮やした佐藤大尉は乗機である九六艦戦の発進準備を命じた。二番機の松井松吉一飛曹と三番機の小八重幸太郎一飛曹にも「ついてこい」と叫ぶ。

「九六戦のまま宇佐に飛ぶのですか?」

「バカ、名古屋に行くんだ」

怪訝な顔の列機搭乗員に佐藤は続ける。

「受領を待っていてもらちがあかん。こっちから三菱の工場に出向いて零式を受け取る。」

 後に小八重一飛曹は、あれは「受け取る」ではなくて「分捕る」だったな、と回想する。

 三菱名古屋工場に到着するや、佐藤大尉は制止する社員を無視してズカズカと駐機場に乗り込み、零戦を物色し始めたのだ。ぐるりと見回り、一機の零戦の前で立ち止まると、まるで子供が玩具屋で気に入った玩具を見つけたような口調で

「俺はこれがいい。」

 あっけに取られる三菱の社員達などお構いなしに佐藤は叫ぶ。

「こら、松井、小八重、貴様らも早く選ばんか! このまま宇佐に飛ぶぞ。」

 見れば佐藤大尉は垂直尾翼の、本来なら機体番号を書くべき位置に「佐藤大尉」とチョークで大書している。御丁寧にも胴体には「俺ノダ取ルナ」とまで書いてしまった。

「おい、こりゃ、いい飛行機だな。慣熟飛行なんかいらん。一発でどこまでも飛ばせるぞ。」

 早くもコクピットに収まった佐藤は零戦を受領出来なかった鬱積が嘘のように上機嫌だった。それほどに零戦は歴戦の勇士である佐藤の琴線に触れたのだ。

 二人の一飛曹は顔を見合わせる。

「松井先任、こんなことしていいんですか?」

「俺に聞くなよ。」

 いいわけがなかった。佐藤は宇佐基地に着陸直後、司令部への出頭を命じられた。

 そこで待っていたのは基地司令ではなく、空母「瑞鶴」航空参謀に就任した源田実中佐だった。

「無茶をするヤツだ。」

 源田は呆れ顔で佐藤を見つめた。怒鳴りつけられたら配備の不備を言い返してやろうと身構えていた佐藤は拍子抜けした。海軍航空隊きっての知恵者と噂されるエリート参謀は少々のことでは動じないらしい。

 『これが源田サーカスのエリート参謀か。』

 源田が指揮する部隊は各地で曲芸飛行を披露して海軍航空隊の宣伝に大いに貢献した。その華麗な飛行は源田サーカスと呼ばれ、見事な高等飛行に憧れて海軍航空隊を志した少年も少なくない。飛行機好きで「源田実」の名を知らぬ者はいないだろう。

 しかし、源田の真骨頂はパイロットとしてよりも、むしろ参謀に昇進してから現れる。大艦巨砲主義が主流の海軍にあって航空機の優位性を主張し、毎年部隊の拡大を実現させてきたのだ。

 無論、それは山本五十六が推進したためだが、源田実という政治的駆け引きに長けた実務者がいなければこうも早急に航空隊は拡充しなかったであろう。

 当然、航空隊には源田を慕う者が多い。が、目的のためには強引な手法を用いるがために『源田はやりたい放題』と信奉者と同じくらい敵も多い。

 源田の今ひとつの特徴は変わり身が早いことだ。

 零戦がまだ一二試艦戦として計画中のこと、計画要求をまとめる会議で航続距離と速度が重要との方針に反発し、格闘性能重視を強引に盛り込んでしまった。

 現用の九六艦戦より速度を向上して格闘性能は落とすなどと云うのは無理な要求である。その無理を三菱はなんとか許容範囲で実現したものの、一二試艦戦の旋回性能は九六艦戦には及ばない。源田はこれが不満で何かと文句をぶつけていた。

 ところが、出来上がった一二試艦戦に実際に搭乗すると、源田はその操縦性の良さや加速性能に惚れ込んでしまった。設計主務者の堀越技師の手を取り『このような素晴らしい戦闘機をありがとう』と絶賛して堀越技師を当惑させた。

 このような源田の態度をして、その評価は「君子豹変す」と「節操がない」に二分される。

 佐藤大尉は中国との戦争で、九六艦戦の航続距離の短さと他国の戦闘機と比較して速度が遅いことに苦しんだパイロットだから、「サーカス」ばりの格闘戦重視を主張する源田の主張を『現場を知らない』と批判的であった。だからまだ会ってもいないうちに「嫌なヤツ」と思いこんでいる。

 そんな佐藤の心中を知ってか知らずか、源田は続ける。

「貴様の『武勇伝』はもう各地で噂になっとる。貴様の真似をするヤツが続出するんで飛行差し止めを命ずる航空隊まで出る始末だ。貴様らの転任は軍機だと念を押したはずだが、どいつもこいつも事態の重要性が分かっておらん。」

「空母一隻分の艦戦ぐらい、さっさと揃えちまった方が早いんじゃないですか?」

 並の参謀なら口調だけで鉄拳制裁しかねない佐藤の発言を、源田は薄く笑って答えた。挑発して怒らせとうという佐藤に『その手には乗らんよ』とばかりに。

「貴様も今回の計画を知らんから気楽な口を叩く。佐藤大尉、これから話すことは基地司令も知らん。他言無用だ。いいな?」

 そのためにこの場に基地司令はおろか源田中佐以外は誰もいないのか。どれほどの重大事なのか? さすがの佐藤も緊張した。

「貴様は『空母一隻分ぐらい』というが、「瑞鶴」には零式艦戦八一機を搭載する。」

 佐藤は意味を理解できなかった。規模によっても異なるが、空母の飛行機搭載数は最大規模の空母「赤城」で九一機、軍縮条約の制限を受けた「飛龍」は補用を含めても六三機。新鋭の「瑞鶴」は「飛龍」より搭載量が多くなるとしても、八一機は搭載量のほとんど全てだろう。

 艦載機は主に、敵機を撃ち落とすための戦闘機、爆弾を搭載する爆撃機、魚雷を搭載するための攻撃機の三種がある。三種の割合は用兵によって異なるが、攻撃重視の日本海軍は他国に比べて戦闘機の割合が低いのが特徴である。

「「瑞鶴」には全て戦闘機を搭載する。貴様は八一機の大編隊を率いるのだ、しっかり頼むぞ。」

「全て……八一機、でありますか。艦爆や艦攻は搭載しない……」 

「それだけじゃないぞ。僚艦「翔鶴」も同じく全戦闘機搭載(オールファイター)空母(キャリア)になる。」

 佐藤は混乱した。八一機もの戦闘機を部下に持つのは武者震いが来るほど興奮する。

 しかし、問題はその目的だ。空母は敵の艦戦を撃沈するための艦爆や艦攻を運ぶのが目的の艦といってよい。それを敵機が邪魔するから、制空権を確保するための戦闘機が必要になるのであって、戦闘機のみを搭載しても空母は兵器として意味をなさない。

 極端な話、攻撃機が敵戦闘機を自力で突破でき、敵の攻撃機は対空砲で撃退できるなら戦闘機は不要となる。ムシがよすぎる論理だが、現実に日本海軍には「戦闘機不要論」を主張する高官が少なからず存在する。

 要するに日本海軍では戦闘機の扱いは軽く、全戦闘機搭載空母などあり得ない

「いったい何のために?」

 佐藤はつい尋ねてしまった。命令絶対服従の日本軍において上官への質問などあり得ない。当然、返答はないか怒鳴られるかと思いきや、源田は手招きして佐藤を口元まで近寄らせると小声で言った。

「別命あるまで絶対に漏らしてはいかんぞ。友邦ドイツを支援するため義勇軍となってイギリス空軍を撃滅するのだ。どうだ、痛快であろう。」

「そりゃ……」

佐藤は絶句した。

 そりゃ、痛快ではある。この時代の日本人の多くと同じく、佐藤にも英国への反発がある。世界は自分たちの思い通りに動かせるとでも思っているかのごときに驕り高ぶった英国人どもに鉄槌を下してやりたい。そして、今、佐藤たち海軍航空隊には日本人の手で作り上げた世界最高の戦闘機と鍛え上げた搭乗員がある。

 しかし、本当にそんなことが可能なのか?

 それが表情に出たか。源田は続ける。

「出来る、貴様らがいればな。分かるな、佐藤大尉。貴様の任務は重大だ。くれぐれも軽挙妄動は慎み、責務を果たせ。以上だ、下がってよし。」

「ハッ、佐藤大尉、下がります。」

敬礼して回れ右した佐藤の背中に源田は声をかける。

「ああ、佐藤大尉。ところで、零式艦戦はどうか?」

振り向いた佐藤は笑みを浮かべる。

「素晴らしい戦闘機であります。これほど操縦しやすい飛行機に乗ったことがありません。」

「俺もそう思う。最初に見たときは機体が大きすぎるし風防が邪魔っけだと思ったが、操縦してみると手足のように動いてくれる。

 どうだ、今夜は零式をサカナに語り明かさんか? いい地酒もあるぞ。」

 源田は机の下から地元の銘酒「西の関」の一升瓶を取り出した。

佐藤はニヤリと笑った。彼も酒には目がない。それに、なんのかの言いつつパイロット同士は飛行機の話を持ち出されると共鳴してしまうのだ。


 このころ、酒盛りどころでなかったのは「瑞鶴」「翔鶴」の乗組員たちであった。そもそも、いくら当面は戦闘がないといっても偽装も終了していない空母を出撃させる自体が無茶なのだ。ようやく防水隔壁のチェックが終わったものの、細かい設置はまだまだ終わらない。

 防水隔壁を降ろして水を入れるために一度撤去した艦内電灯の再据付すら完了しておらず、電線を這わせる係官と館内放送のスピーカーを設置する工員が配線位置の取り合いでケンカになる。備品の搬入は何処に何を設置すればいいのか分からない、指示を伝えに走った伝令の方が迷路のように入り組んだ通路で道に迷って帰ってこられなくなる、等々、乗組員の混乱は頂点に達していた。

 特に欧州派遣義勇軍の旗艦に決定された「瑞鶴」の司令部要員は出港準備だけでも忙しいのに、次々と持ち込まれるトラブルの処理に寝る間もないほど多忙であった。

 指示を出してくる連合艦隊司令部自体が混乱して命令が二転三転する始末だから手がつけられない。

 現時点で宇佐と佐伯に集結しているだけでも艦載機を収容すべく別府湾に迎えとの命令で呉を出港した後に、宇佐に集結する予定の艦載機はまだそろっていないから取りあえず佐伯に停泊して出撃準備を整えろと命令が変更され、更には物資が集まっている別府に迎えと変更される。

 普通、別府停泊とは乗組員を上陸させての休養を意味するのだが、この時の「瑞鶴」は休養どころではない。乗組員は港から見える湯煙を眺める余裕すらなかった。

 上陸するとすれば任務のためだ。「瑞鶴」信号員の橋本寛兵曹長は、航海参謀・雀部利三郎少佐の海図受け取りに同行して別府海軍病院へ迎えとの指示を受けた。

 これは常識外れの措置である。どの海図を積み込んだかでその艦の目的地が分かるから、海図そのものが機密事項に当たる。したがってその受け取りは海軍文庫――九州なら佐世保で行うのが常識だ。いくら海軍の施設とはいえ、病院のような人の多い場所に海図を持ち出すなど考えられない。さらに、機密なので参謀が一人で行うべき海図受け取りに下士官が同行するというのも珍しい措置だ。

「佐世保に廻る時間が惜しい、ってことだな。」

 と、雀部参謀は橋本兵曹長に語る。

「橋本、言われんでも分かっとるだろうが、これから運ぶ海図については一切他言するな。いいな。」

「はい」

と答えたものの、橋本は不安になる。穏和で部下思いの雀部少佐をして、こうまで強い口調にさせる海図とはなんなのだ。

 別府の夏は暑い。いたる所から立ち上る湯煙は温泉でのんびりしている分には長閑に感じるが、仕事の最中は湿度と不快指数を上昇させるかのようだ。じっとしていても汗が噴き出してくる。このところの疲労から橋本は意識が朦朧としてくる。

 別府海軍病院に着いた雀部と橋本は、一息入れる間もなく、陸戦隊員の案内で奥まった一室に通された。随分と物々しいなと思った橋本は、そこに積まれた海図を見てウンザリした。木箱に収められたそれは通常の航海に使う量の軽く三倍は積み上がっているのだ。

 橋本は無論まだ知らされていないが、インド洋から喜望峰を回って大西洋を北上、ドイツに至るまでのざっと二万八千キロの長い航海に望むのだから、海図も多くて当然である。

 「これを全部、運ぶのでありますか?」

 艦橋の海図台にはとても収まりきれないなあ、などと考えながら橋本は目の前が真っ暗になり気を失った。

 意識が戻ったとき、橋本はベットに寝かされていた。

「気が付かれましたか?」

ちょうど点滴を取り替えていた看護婦が微笑みかける。

「過労と熱射病ですって。でも運がよい方ね、ここは病院ですから、すぐに処置できましてよ。」

コロコロと笑う看護婦を、綺麗な人だなあ、などとぼんやりとした頭は考えていた。

「もう一本ブドウ糖を点滴しますから、終わるまでは寝ていてくださいね。軍務は気にしなくても大丈夫ですよ。お連れの参謀さんから、今日一日は病院に留めておくよう言い渡されてますから。」

 気が回る人だと思いながら、橋本は雀部の好意に甘え、もう一度眠りについた。

 橋本が「瑞鶴」に帰還したのは次の日の夕方であった。体が回復しきらないせいもあったが、美人の看護婦の世話から離れたくないためも無かったと云えば嘘になる。

 病気とはいえ、極端に忙しい最中に丸一日も艦から姿を消したのだから、同僚たちの視線は厳しい。普通なら上官から『たるんどる』ともう一度気を失う程に殴られて、同僚たちが介抱するケースだが、部下思いの雀部参謀がかばってくれたので制裁はされずにすんだ。

 それで逆に同僚は冷たいのだ。橋本は事情を説明しているうちに、つい看護婦が美人で気だてがよかったとしゃべってしまい、余計に冷たい視線を浴びる羽目になってしまった。

 「あのなあ、病気で気が弱くなってるときはどんなヘチャムクレでも綺麗に見えるんだよ。それに相手は看護婦だろ。病人に親切にするのは仕事なんだから、性格の善し悪しとは関係ないの。」

「そんなことはない。晶子さんは美人だ。面長で目がぱっちりしていて、背はすらりとしている。仕事度してだけじゃなく、動けない俺がして欲しいことを敏感に感じてくれて、何をするにも丁寧で……」

まくし立てる橋本を同僚たちは呆れ顔で見つめる。

「お前、まだ熱がある、っていうかお熱をあげちゃって。もう一回、病院行くか?」

 橋本は真っ赤になる。

『もう一度会いたいなあ』

 橋本だけでなく、「瑞鶴」乗組員には休養の上陸許可が下りることはなかった。「瑞鶴」「翔鶴」はギリギリの日程で出港準備を整えることを求められていたからだ。

 その後、「瑞鶴」が別府港に入港することは二度と無く、戦い続けた果てに壮絶な最期を遂げるのだが、それはまた別の物語である。

 

 佐藤大尉は不安であった。

 彼の部下となった搭乗員たちは中国との戦争を含め経験豊富な者が集められたとはいえ(源田参謀がその政治力を発揮して、各地から優秀な搭乗員を引き抜いたのだ)、機種変換訓練の時間が極端に切りつめられため、佐藤大尉の目から見て、危なっかしい飛行がまだまだ多い。なにせ、この作戦の前は複葉の九五式艦戦にしか乗ったことがない搭乗員までいるのだ。

 固定脚の飛行機しか操縦したことがないから、引き込み脚を出さないまま着陸しようとする者までいた。二度までも着陸禁止を示す赤旗を振られ、三回目に着陸を試みようとしたときに地上員の身振り手振りで、漸く主脚が出ていないことに気がつき、あわてて操作するのが指揮所からも見て取れた。

 その姿を笑う者もいる。しかし、初めての機体で緊張した搭乗員は平素では考えられないミスを犯しがちで、笑った本人が同じく主脚を出し忘れたりする。これまで滅多に部下に手を挙げない佐藤大尉も、この種の失敗には容赦なく鉄拳を振るった。じっくり覚える時間がないのだ。死なせてから悔やむより、生きているうちに痛い思いを忘れないようにした方がいい。恨むなら恨め、佐藤は心で泣きながら部下を殴り続けた。

 そんな佐藤の思いが通じたのか、零戦の優秀性もあって元々が高い技量彼らはあっという間に零戦のコツを飲み込んだ。が、佐藤の目から見ればまだまだぎこちない。

 もっとも佐藤の操縦技量は抜群で、特に航法に関しては「神様」とまで云われるレベルだから、部下への評価はかなり辛い。初めての操縦でいきなり長距離飛行をやってのける神業ができる搭乗員などそうはいないのだ。

 ともあれ、どうにか初歩的なミスがなくなった頃、「瑞鶴」「翔鶴」の出港繰り上げが命令された。それに順うなら、着艦訓練は良くても二度しか実施する時間がない。天候が悪ければそれさえも怪しくなる。

「まだまだ訓練が足りません。このうえ出港を早めるなど無理です。延期してください。」

佐藤は源田に不満をぶつける。

「佐藤大尉、貴様の言い分も分かる。しかし時間がないのだ。多少の訓練は航行しながらでもできる。」

「しかし参謀……」

「佐藤大尉、信じようではないか、我々が育て上げた航空隊の力を。こういう場合に備えて、兵たちは日々の研鑚を重ねてきたのだ。」

『百年兵を養うは、か』佐藤は黙った。源田はどうあっても変更を認めないようだ。確かに、日本海軍は艦船の保有量を軍縮条約で制限されてからは、『訓練に制限はない』と、猛訓練で兵の能力を鍛え上げてきた。特に我が航空隊の技量は世界のどこにも負けないと、佐藤も自負している。

 訓練延期を事情が許さないというなら、ここは部下を信じるしかない。

 その「事情」とは、ドイツが新型戦闘機引き渡しを督促してきたことによるのだが、それは佐藤の知るところではない。


 結局、「瑞鶴」の受け入れ準備が調わず、日程が遅れたために着艦訓練をそのまま収容作業とすることになった。ぶっつけ本番など、あまりに無茶が過ぎる。

 不安な佐藤に、松井一飛曹は『大丈夫ですよ』と、言いたげに微笑んだ。

 零戦は次々に見事な三点着陸で着艦していく。着艦に失敗して海に落ちた乗員を拾い上げるための、いわゆるトンボ釣りのために併走する駆逐艦も出番無しのままだ。

 これならば何とかなるだろう。不安があるとすれば、零戦搭乗員よりむしろ収容作業を行う「瑞鶴」乗組員の方だろう。無理もない。各部隊から優秀な者を選抜したといっても、着任後は艦の整備に忙殺され機器の位置すら把握しきっていないし、ほとんど零戦を扱ったこともないのだ。多少動きがぎこちないとしても、事故も起こさず作業を続ける彼らの力量には賞賛すべきものがある。

 佐藤がそう思っていたとき、驚くほどの技量を披露する搭乗員が現れた。その零戦は拘束フックを降ろさないまま着艦してみせたのだ。

 艦載機を着陸させる際の空母は何本もの制動索が甲板を横切る。艦載機は胴体尾部から降ろした拘束フックでこれを引っかけて強制的に制動をかける。制動索は空母の艦尾側、つまり着艦する機体が最初に横切る方から順番にテンションが高くなるようにしているので、艦尾側で引っかけると制動索は伸びてゆっくり止まり、艦首に近い方に引っかけると急激な制動がかかる。どの制動索であれ、引っかけられれば機体は止まることは止まるのだが、最初の方の制動索に引っかけると制動距離が伸びるので収容作業に時間がかかる。逆に最後の制動索だと急激すぎて機体に無理がかかる。無論、最後まで引っかけそこなうとオーバーランして防護網に突っ込んでしまい、機体は損傷する。大体3本目に引っかけるのが良いとされている。

 拘束フックなしでの着艦は不可能ではない。飛行甲板のギリギリ後ろで失速させて着陸距離を稼ぐ、効きが悪い零戦のブレーキを加減するといった極端に高度な技能を必要とするから、試そうなどという者はまず現れないが。

 ところがその零戦は、あっさりと飛行甲板のやや前方で止まった。作業員はやんやの大喝采。搭乗員は平然と甲板に降り立った。

 佐藤大尉は苦り切った顔でその搭乗員、小隊長・岩井勉飛曹長に近づく。こんな危険を許す訳にはいかない。

「貴様、なぜ拘束フックを使わないか。」

 岩井飛曹長は平然と答える。

「故障であります。」

「バカモン!」

 訓練なのだから、機体に不備があって着艦に支障があるなら発進した陸上基地に戻って、着陸距離に余裕が持てる飛行場に着陸すべきだ。その前に、何度か着艦をやり直してでも拘束フックの作動を何度か試すのが常識だ。それさえせずに、あえて困難な着艦に挑戦したのはよほど腕に覚えがあるのだろう。しかし、これを認めていては命と機体がいくつあっても足りない。

「足を半歩開け、歯を食いしばれ。」

 佐藤は岩井の頬に平手打ちを喰らわせた。岩井は微動だにせず立っている。悪いとは思っていない。その態度が佐藤の勘に障った。

「なめるなぁ!」

 渾身の力で殴り飛ばされた岩井は不様に倒れた。

「戦闘機は玩具じゃないんだ。二度とこんな真似は許さん。」

『しかし、大した技量だ。度胸もいい。慎重さを身につければ良い小隊長になるだろう。』

 終わってみれば全機無事着艦。やはり、海軍航空隊の中でも選りすぐりの精鋭は尋常な技量ではないのだ。

「こんなでかい艦なら、失敗しっこないです。」

 小八重一飛曹は軽口をたたく。

「うむ、貴様らの上達に俺も感心しておる。だが慢心は命取りだ。これから先は失敗して海に落ちても拾ってくれる駆逐艦はいなくなる。心して訓練に励むように。以上、解散。」

 搭乗員たちは佐藤大尉の言葉を怪訝に思った。空母のみで航行することは普通ない。着艦訓練失敗の救助、いわゆるトンボ釣りのためにだけ駆逐艦は同行するのではない。作戦行動ともなれば護衛のため、訓練よりもよほど多くの駆逐艦が随伴する。特に潜水艦に狙われたら、小回りが利かず爆雷を搭載していない空母には反撃の手段がない。

 どうしても駆逐艦を伴えないのは、航続距離が短い駆逐艦では到達できない遠距離に、それも速度の遅い給油艦を使えないほど急いで航行しなければならない作戦を実施する場合、となるが。

 搭乗員たちは様々な憶測を噂し合うが、そのどれもが真実からはほど遠いものばかりだった。


 ともあれ、「瑞鶴」と「翔鶴」に艦載機の収容は終わった。

 源田以下の航空隊はほっとしたものの、艦そのものは更に騒然としていた。物資搬入はまだまだ続いている。むしろ一番場所を喰う飛行機を収容した後は搬入作業に拍車がかかり、零戦の足下にまで食料品が積まれていく。なにせ「瑞鶴」には一六〇〇人もの乗組員がいるのだ。長距離航海で食料は多すぎるということはない。

 通常は魚雷や爆弾を積むべき広い倉庫には燃料のドラム缶が転がされていく。この二艦は艦載機の搭載量や速度といった性能だけでなく、弾薬の搭載量も既存の空母より優れているから、これを使わない手はない。

 空母に魚雷を多く積み込めれば、搭載された攻撃機はそれだけ敵艦に多くの打撃を与えられる。と、攻撃重視の日本海軍らしい設計が、この場合は攻撃ではなく航続距離の増加に役立っている。設計や建造に携わった者が見れば複雑な感情を抱くだろうが、積み込んでいる者はそれどころではない。艦内の運搬はほとんど人力で行わなければならないから荷物運びは大仕事なのだ。過剰な肉体労働で疲れ切り、怪我をしても同情されるどころか作業を遅らせたと叱責される始末だ。

 なりふり構わず運び込まれる物資は、格納庫や倉庫はおろか兵員室までふさいでいく。おかげで兵の多くは暫くは寝る場所を確保するのも一仕事になる。「瑞鶴」程の大型艦になると、寝具は海軍伝統のハンモックではなく収納式のベットが作り付けられているから、小型艦に比べて就寝は快適なはずだ。ところが大量の荷物がベットをふさいでしまったのだ。

 見かねた搭乗員も作業を手伝おうとするが、要領が分かっていない者が手を出すと返って時間がかかる上に危険ですらある。艦内が指示と怒声で満たされる中、搭乗員たちは邪魔者扱いされて身の置き場がなくなっていく。

 仕方がないから飛行機の格納庫に逃げて来ると、ここも文字通り足の踏み場もないほど荷物が積み重ねられている。

「これじゃ零式が動かせないじゃないか。」

「隊長、どんどん運ばれて、どける場所もないんです。」

 佐藤大尉はため息をついた。暫くは零戦を飛行甲板に上げることすらできない。なんとかエレベーターまで零戦を運んだとしても、今度は飛行甲板が未整理の物資でごった返しているのだ。

 岩井勉飛曹長も行き場をなくして、乗機にやってきた。手持ちぶさたもあり、せめてコクピットに入れるようにと、胴体付近に置かれた木箱を後ろの列に積み上げようと持ち上げたら、ガシャガシャとガラスビンのぶつかる音がする。

「隊長、いい物を見つけました。」

岩井はその木箱を引き開けてビール瓶を取り出した。

「おお、誰か栓抜きを持ってこい。」

 勝手な節酒は無論、厳罰だが、普通は飲みたくても酒が手に入るものではない。未整理に放り込まれるから、本来は酒輔で管理されるべきアルコールがこんなところに紛れ込んだのだ。

 搭乗員たちは一杯やり始めた。小八重一飛曹はまたしても尋ねる。

「松井先任、こんなことしていいんですか?」

「俺に聞くなよ。」

 いいわけがない。露見したらただではすまない。が、そういうことは古参兵に任せておけばちゃんと始末をつけてくれると佐藤大尉は見越している。実際、ビール一〇ダースの紛失はうやむやになった。出港時の宴会のドサクサに紛れて誰かが数量を誤魔化してしまったのだ。

 佐藤はどんどんビール瓶のセンを抜かせた。後のことは後になって考えればいい。どうせ飛行機が動かせないのでは搭乗員はすることがないのだ。


 そして、盆休みも返上して準備を整えた「瑞鶴」と「翔鶴」はついに出港の時を迎えた。

 旗艦「瑞鶴」の艦内は、昨日までの喧噪が嘘のように静まっていた。出港といっても航海が秘匿されている二艦には式典はもちろん、見送りさえもない。疲れ果てた乗組員たちには、これからが任務の始まりだというのに、やっと作業が終わったという虚脱感さえ漂っている。

 別府湾を出て、豊後水道を抜け、日向灘に達する頃、艦長よりの訓辞があるので注聴するようにと艦内放送が流れた。

 そういえば作戦目的は知らされてなかったな、と思いながら、疲れ果てた乗組員たちは整列した。荷物を避けるので曲がりくねった列になるのはやむを得ない。

「艦長より達する。総員、その場で聞け。本艦と僚艦「翔鶴」はこれよりドイツに向かう。」 唐突に言われて、聞き違えかと思う者は少なくなかった。艦長は一体何を言っているのだ?

「ドイツまで戦闘機隊を輸送するのが本作戦の目的である。戦闘機隊は義勇軍としてドイツ空軍を支援してのイギリスを攻撃する。本艦と「翔鶴」は戦闘機隊を降ろした後に日本に帰還する。以上だ。」

 横川艦長の説明は簡潔だが、乗組員たちを奮起させるのは充分であった。

 日本はついに盟友ドイツとともにイギリスを叩きのめすのだ。アジア人をバカにする高慢な連中の鼻をへし折ってやる。

 彼らは疲れも吹き飛ばして興奮を露わにした。万歳を叫ぶ者すらいる。

 出港を祝うその夜の宴会は大いに盛り上がった。用意された酒はたちまち無くなってしまった。艦長以下の指揮官たちは各部署を巡回しながら、求められるがままに追加の酒を振る舞った。大量に積み込まれたはずのアルコールが飲み尽くされてしまうのではないかとすら思える勢いであった。

 この夜ばかりはまさに無礼講であった。部署も兵科も階級さえも関係なしに、一つの目標を達成すると誓い合った持った男たちは酒をあおり、気炎を吐き、肩を組んで軍歌を歌った。

 海軍に入って良かった。男として、これほどの生き甲斐に巡り会える場所は他にない。感極まって号泣する搭乗員に、どうか頑張ってくれと整備員が抱きつく。そんな光景が艦内のあちこちで見られた。

 楽しい夜であった。

 たとえ行く手にどんな苦難が待ちかまえていようとも……。

                            (第二章に続く)

 次章「航海」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ