序章
「第10回C★NOVELS大賞」第一次選考落選。元々は仲間内で回し読みしていた連作をまとめて応募した。今回の「小説家になろう」投稿にあたり、本来の連載形式に戻しました。
なお、作中に登場する人物などの固有名詞は実在と同じ名称であっても、人格等は作者の創作であり、現実とは異なります。
【序章】
一九四〇年七月、ワシントンDCのウエストポトマック公園は市民で賑わっていた。
だが、世界恐慌の生活苦にあえぐその表情は、夏だというのに暗い。もっとも、人類史上最悪の戦争が戦われている大西洋を越えたヨーロッパ大陸の民衆の苦難に比べればまだマシであるのは、彼らには遠い世界の出来事。そう、他人の心配をしてやる余裕などないのだ。
一体この先、人類はどうなってしまうのだろう。ため息をつきながら一人の青年が、一人ベンチにたたずむ老人の前に立った。
「お待たせしてしまったようですね。申し訳ありません、ラビ。」
「いや、ハリソン君。政府の仕事で多忙な君をこんなところに呼び出してしまって、こちらこそ申し訳ない。余人を交えず、どうしても君に聞いて欲しいお願いがあってね。まあ、座ってくれ。」
老人の繰り言を聞かせられるのかと、ハリソンはもう一つため息をつきかけたが、それが先達に失礼であることを知るだけの礼儀は持ち合わせていたので思い止まり、老人の横に黙って座った。が、ラビと呼ばれた老人はその気配を鋭敏に読み取った。
「時間は取らせないよ。簡潔に結論から言おう。日本との戦争を回避してくれ。」
ハリソンは息を飲んだ。米国が密かに対日戦準備を進めている合衆国最高機密を老人が知っていたからではない。この好々爺ぜんとした老人が、実は世界中に広がる彼らの宗教ネットワークを通じて入手した、信じがたいほど正確な情報を使って世界に少なからぬ影響を与えていることは、これまでの経験で思い知らされていた。
ハリソンは、ラビは日米戦を望んでいると思っていた。なぜならば、彼らの民族は二度目の世界大戦を引き起こしたナチスドイツに虐殺されており、日本はあろうことか、そのドイツを頼りこの国とは対決しようとしている。愚かな日本人は勝つつもりなのかもしれないが、アメリカの国力を持ってすれば日本を屈服させるのは容易であろう。日本の敗北はドイツの弱体化に直結し、ラビと青年の一族はそれだけ生き延びることが出来る。
「ハリソン君、君はリトアニアの日本領事館の杉原千畝という人物を知っているかね。彼は我らの同胞がナチスの魔手から逃れるために、出国ビザを不眠不休で発効し続けているそうだよ。」
「聞いたことはあります。日本の外務省はドイツとの関係から対応に苦慮しているようです。ラビ、杉原の行為には敬意を払いますが、それはあくまで例外です。日本に情をかけてはいけません。日本は同胞を害虫扱いして虐殺しているナチスと同盟を結ぼうとしているのですぞ。」
「そうだ。ヒトラーの「マインカンプ」は日本でもベストセラーだ。出版物といえば、少年向け科学空想小説ですら我々は悪者扱いされているそうだ。我が同胞が日本人の反感を買うような非道などあの国でやった覚えはないというのに、嘆かわしいことだ。」
「ではなぜ、日本を助ける必要があるのですか?」
「今の日本は異常だよ。野獣のような欧米の侵略から身を守るために必死で軍備を拡大させていったら、いつの間にか日本の方が手のつけられない野獣となってしまった。
私は昔、日本に滞在したことがあってね。大概の日本人は礼儀正しくて親切だったよ。歴史を見れば、あの勤勉さが日本人の本質だと、私は思う。」
「だからといって、ヒトラーの同調者がこのまま増長してファシズムが広がるのは民主主義のために、いや世界のためになりません。」
「そのとおりだ。だが、この民主主義の国でもヒトラーの支持者は多いのを忘れてはいけない。」
ハリソンは今度こそため息をついた。
自由と平等を国是とするアメリカで、それと全く正反対の思想を標榜するヒトラーの人気が高いのは合衆国政府にとって頭の痛い問題であるからだ。
原因はアメリカの経済政策は効果が上がらず、世界恐慌に始まる不況が続くことにある。ハリソンは大衆からウンザリするほど批判を聞かされている。
『俺たちの生活は苦しいのにユダヤ人はあくどく儲けている。ドイツは敗戦から立ち直って物凄い経済成長している。汚いユダヤ人を許さないヒトラーの政策が正しいからだ。』
一体何度違うと言えば理解してもらえるのだろう。『金持ちのユダヤ人がいるのは事実だが、ユダヤ人全部が豊かではないし違法に儲けている訳じゃない。ヒトラーの経済政策の成功とユダヤ人排斥は別の事項だ。』
「分かるかね、ハリソン君。今は世界中が狂っているのだよ。その狂気の炎は世界を焼き尽くしかねない。残念だがドイツはもう手遅れだ。このままだと恐らく日本も破滅するだろう。その前に、私は一度だけでも日本に、あの気の良い人々に正気に戻るチャンスを与えたいのだ。」
宗教家らしい、愛のこもったラビの言い分は分かる。しかし、それがアメリカの国益や民族の宿願と一致するとは限らない。ハリソンは切り札を出した。
「我らの祖国建設が遅れても、戦争を回避すべきだとおっしゃるのですか?」
日本がアメリカに宣戦布告すれば、アメリカは自動的に日本の同盟国であるドイツを攻撃できる。この反ユダヤの二国を排除してアメリカの勢力が世界に確たるものとなれば、それに比例してアメリカ経済に大きな影響力を持つユダヤの国際社会への影響は増す。それは聖書以来の悲願である祖国再建への道を開くこととなる。
しかし、ラビの決意は変わらなかった。
「そうだ。人々の苦しみを少なくする方を優先したい。戦争は大衆の悲劇そのものだからね。」
ハリソンは三度ため息をついた。
「どうしろと言うのです?」
「対日通牒を日本が飲める内容に緩和して欲しい。」
ハリソンは天を仰いだ。彼の心とは反対に青く広がってる空には、日本から贈られた桜の枝が揺れていた。
その少し後。ベルリン、ヴェルヘルム街にそびえる総統官邸の奥まった会議室で、その言動が世界にもっとも大きな影響を与えるであろうドイツの独裁者は閣僚達に向かって吼えた。
「諸君、日本は対米戦の準備を進めているぞ。」
閣僚たちは言葉を失った。日本人は自滅するつもりか。いや、連中がハラキリするのは勝手だが、アメリカに今時大戦に参戦する理由を与えるのはまずい。開戦以来、戦況は概ね優位に進んでいるが、今のドイツにアメリカを相手にする余力はない。
空軍、もっとハッキリ言えば航空大臣へルマン・ゲーリングの大ホラのおかげで、本来ならば既に開始されているはずのイギリス攻撃作戦は遅れているものの、イギリスを屈服させるのはそう先のことではない。その後はソビエトをヨーロッパから追い出ししてアフリカを取り込めば、ドイツを中心としたヨーロッパ経済圏が確立する。
だが、その構想はアメリカの強大な軍事力が大西洋の向こうで動けないのが前提となっている。ここでアメリカがイギリスを基地として膨大な武力を投入してきては、ドイツの戦略は根本から崩れてしまう。
「あの劣等人種どもは余の構想を、いや世界の動きを理解しようとしていない。」
「総統、いくら日本人が愚かでも相手を牽制して動きを封じる外交の初歩ぐらいはわきまえてのではないでしょうか。第一、アメリカと戦争すれば負けることぐらいは分かっているでしょう。失礼ながら、その情報は誤りでは?」
ゲーリングの発言はヒトラー以外の出席者が一様に感じたことではあった。ゲーリングは正論を吐いてこの会議の主導権を握るつもりでいた。
彼のもくろみはずれていた。他の誰かが同じことを言ったなら、将官たちは素直に賛同しただろう。しかし、ゲーリングはドイツの指導者たちから嫌われている。先の大戦中ははパイロットとして、またその後は指揮官として能力も人望もあったのだが、地位が上昇するとともに増長し、我が侭ゆえの失策が増えてきた。その致命的なミスは、無理を重ねたため初期作戦ですでに空軍戦力をすり減らししまったことだ。その上、この男は兵力がほとんど限界に来ていることを隠ぺいしようとした。
国防最高本部が気がついて、全精力を傾けたイギリスへの攻撃作戦を中止しなかったら、ドイツ艦艇はろくな航空支援を受けられぬまま強力なイギリス海軍の攻撃を受け、ほとんど戦争継続が困難になるほどの被害を受けたことだろう。
ゲーリングの責任は極めて重いのだが、この男はそれを人のせいにして言い逃れをしようとする。今では部下の空軍パイロット達からさえ「豚一号」と蔑まれている。
だから、出席者達はこの時のゲーリングの言うことはもっともだと思いつつ、誰一人として賛同する者はいなかった。
友情に厚いヒトラーは、この失敗はあっても憎めない長年の盟友に国家元帥という最高の官位を創設してまで信義を示したが、さすがに最近は疎ましさを露骨に表現することが多くなってきた。
ヒトラーはその天才性ゆえ、無能と判断した人物に自説を否定されると強い怒りを覚える。この時、無能(とヒトラーが思っていない)他の閣僚が同じことを言ったのなら、もう少し穏やかであったかもしれない。
「国家元帥、間違っているのは君だ。余は日本の来栖大使から直接聞いたのだ。ものを知らないくせに余計な発言は控えたまえ。」
「まさか……」
「いや、国家元帥。来栖大使の発言内容を総統に説明していただこうではないですか。」
ゲーリングをもっとも嫌っているゲッベルス宣伝大臣が絶妙のタイミングで会議の流れを作る。
「うむ、いいだろう。ヤツは日本の新型艦上戦闘機の話をしたのだ。我がメッサーシュミットBf-一〇九と比較して、速度は同程度なのに旋回性が良く、二〇ミリ砲を二門搭載していいる。航続距離は何と十倍もあるそうだ。」
誰からともなく、うめき声が漏れた。本当ならば、その新型戦闘機が量産されれば日本の空母戦闘機隊は世界最強といっていいだろう。
「信じがたい性能です。逆に事実ならば、大使がそのような重要な情報をいくら友好国とはいえ、他国に漏らすなど考えられません。」
「軍需大臣、それは技術者らしい真っ直ぐな発想だ。トート君、分からんかね、来栖大使の深意が。彼は対米戦を回避したいのだよ。」
誰もが理論の飛躍についていけなかった。だが、断片的な情報を統合して重大な決定を下すヒトラーの洞察力は時に神懸かり的である。恐るべき事に、その判断は酷い偏見と人種差別に満ちているにもかかわらず次々と的中し、ドイツは破竹の快進撃を続けてきた。
「来栖は慎重な男だ。頭もいい。おまけにアメリカをよく知っておる。戦えば日本は負けると考えているに違いない。追い詰められた秀才は、特に突飛な行動に出るものだ。この点、外交が分かっていない前任大使の大島やお調子者の松岡外相とは違う。まあ、大概の日本人はアメリカに勝つ気のようだがな。
つまりだ、来栖は我々から日本政府に圧力をかけさせ、対米戦を思い止まらせたいのだ。普通に言っても我々は信じないし動くはずはない。日本が本気で対米戦を計画している証拠として、機密を意図的に流したのだ。」
「まさか、そんな。アメリカの国力を考えたら……」
「違うな。経済大臣。あの馬鹿どもは現状で戦艦と空母の数が、太平洋のアメリカ艦隊を上回っているから勝てるつもりだ。」
「日本人は生産力を比較する計算が出来ないのでしょうか?」
「そのとおりだ、労働大臣。あいつらは経済がまるで分かっていない。長期的な計画もない。一時の衝動で国政を決定し、アメリカに先制攻撃をかける気だ」
「どうやって? 艦隊を太平洋の反対側にまで派遣するなど非現実的です。」
「今回の新型戦闘機だよ。自慢の空母部隊でアメリカ艦隊、たぶんハワイを奇襲するつもりだ。」
「その根拠は?」とは、もはや誰も尋ねない。恐らくヒトラー本人にも理論的な説明はできないだろう。彼の天才がそう判断させたのだ。あっけに取られる一同をよそに、ヒトラーの言葉に熱がこもる。
「そうだ。近衛首相は軍事など分かっていない。ルーズベルト大統領以上の愚か者だ。ルーズベルトは余と同じ経済政策を採用する能力はあるが、貴族出身の近衛には経済政策そのものがない。どうすれば民衆の支持を得ることが出来るかすら考えていない。馬鹿だ、どうしようもなく愚かな劣等人種だ。あの馬鹿ども同盟にどれだけの勢力をつぎ込んで……」
次第に早口となるヒトラーの演説は段々と一人ごとになくなっていくが、止める者はいない。迂闊に遮るとどれほどの叱責を受けるかしれたものではない。興奮状態を収まるのを待つしかない。そう長くはかかるまい。
「話を戻そう。」
案の定、唐突にヒトラーの口調が他人に聞かせる口調になる。
「この際、来栖の思惑などどうでもいいのだ。要点は日米戦の回避だ。何としても日本を思い止まらせろ。」
「どのようにして?」
誰もが聞きたくない質問をヒムラー内務大臣があえて尋ねる。
「石油輸出削減が、日本がアメリカに反発する理由だ。アメリカは当初の強硬な態度から段々と輸出枠を拡大する妥協案を示しているが、外交交渉が出来ない日本人相手に話がまとまらないようだ。
そこでだ。不足分はドイツが売ってやると云えば、日本はアメリカと戦争しなくてすむ。単純で、猿にも分かる足し算だ。」
「我が国から日本に石油を輸送するなど不可能です。アメリカも黙っていないでしょう。第一、いくら日本人が愚かでもそんなことは信じません。」
「空手形で充分だ。信じさせたまえ。世界平和のためだと言えばアメリカも強硬に反発はできんよ。具体的手段は内務大臣と外務大臣に任せる。」
リッベントロップ外務大臣は露骨に引きつった。
ヒムラー内務大臣は顔色一つ変えない。その平静さが一同には不気味だった。この有能だが冷酷な、平素から何を考えているか分からないナチスそのもの男が、総統の命令を盾にどんな無茶を押しつけてくることやら。
会議室の雰囲気など意に介せず、ヒトラーは続ける。
「それと、石油の手付け金は新型戦闘機で代替すると交渉したまえ。そのくらいはもらっていいだろう。アメリカと戦争しないのなら使い道がなくなるのだし、日本にはこれまで散々、技術援助してきてやったはずだ。
余はその戦闘機が欲しい。イギリスのどこでも攻撃できるとは魅力だ。」
一同は天を仰いだ。が、彼らの上には分厚い灰色の天井が見えるばかりだった。




