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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第9話 「ザラ」

 七日目の朝、私は初めて授業を休んだ。


 欠席が一回つく。あと二回で片腕に紋がつく計算だが、今夜を越せなければ関係のない話だ。


 裏山は、医務棟の丘のさらに奥にあった。道はない。十歩進んで息を整え、また十歩進む。肩の高さに煙鳥《けむりどり》がついてきて、ひっひと笑っていた。


《そこじゃない、もっと上だ》


「あなた、案内してくれるの」


《死ぬところが見たいだけだ》


 昼近くになって、声が聞こえた。


《痛い》


 低くて、かすれた女の声だった。


《痛い。ああ、くそ。足が、もうない》


 岩の裂け目の奥へ、私は這《は》って入った。


 そこにいたのは、馬ほどもある黒い獣だった。豹の体に、折りたたんだ翼がついている。十年間、本の中でしか見たことのない魔獣だ。南の砂漠の生き物で、この国にいるはずがない。


 右の後ろ足に、鉄の歯の罠《わな》が食いこんでいた。傷の周りの毛が抜け落ち、肉が紫色に腫れている。魔獣狩りの罠だ。皮を傷めずに獲るために、歯に毒が塗ってある。


 金色の目が、私を見た。牙の間から、泡まじりの息が漏れる。


《来るな。人間。首を噛みちぎるぞ》


「噛《か》まないで。私、血が少ないの」


 獣の耳が、ぴくりと動いた。


《今、なんと言った》


「血が少ないから、噛んでもおいしくないわ。足を見せて」


《……お前、聞こえるのか》


「ええ。ちょっと黙っていて。息が苦しいの」


 傷に顔を寄せた。酸っぱい、腐った果物の匂いがする。毒学の教室にはなかったが、兄の持ってきた本にあった。斑蛇《まだらへび》の毒だ。血を固めながら上がってきて、心臓に届けば終わる。


「いつかかったの」


《一昨日の夜だ。狩りから戻る途中で踏んだ》


「誰も、助けに来なかったの」


《来るはずの馬鹿は、鍵のかかる部屋の中だ。人の骨を三人分折った罰だそうだ。今日の夕方まで出てこない》


 焼却炉の裏の、乾いた音を思い出した。


「それなら、まだ間に合うわ。ここに銀葉草《ぎんようそう》は生えている? 裏が白い、ぎざぎざの葉よ」


《岩の外に、いくらでもある。なぜ助ける》


「あなたが、痛いと言ったから」


 金色の目が細くなった。それ以上、何も言ってこなかった。


 這って外へ出て、銀葉草を抱えられるだけむしった。かじって、噛みつぶす。舌がぴりぴりするほど苦い。それを吐き出しては、傷口に詰めた。足の付け根を軍服の帯で縛る。


 罠を開けるのが一番の難題だった。太い枝を歯の間に差し入れ、肩を入れて体重をかける。飼育場の閂《かんぬき》と同じだ。あの夜は倒れた。今日も倒れるだろう。


「開いたら、すぐ足を抜いて。二度は開けられないわ」


《小さな人間。お前、顔色が死人のようだぞ》


「いつもよ。いくわ」


 目の前が白くなった。


 がちん、という音で気がつくと、私は岩の上に転がっていた。獣は裂け目の奥で、血の出る足を舐めている。罠は開いたまま、空になっていた。


《お前の仕事は、終わりか》


「ええ。その葉を朝と晩に替えて。舐めないで。苦いけど、毒より苦くはないわ」


 獣が、のそりと首を伸ばした。熱い息が顔にかかった。


《名を言え》


「ダフネ」


《私はザラだ。お前の耳のことは、黙っていてやる。だから、お前も私を見たことは黙っていろ》


「誰に、黙っていればいいの」


《わかっていて聞くな。毎晩、肉を運んでくる馬鹿な男にだ》


 やっぱり、そうだった。頼むなら今だと、自分でも思った。ラズに一言言ってほしい、札を結ぶように言ってほしい。


 口を開いて、やめた。


 片腕の仲間を巻きこまないために、私を突き放した人だ。ザラが何を言っても、同じ答えを返すだろう。それに、足を食いちぎられそうな相手に貸しをつけるのは、ボリスのすることのように思えた。


《望みはないのか》


「あるけれど、あなたには頼まないわ。お大事に」


 夕方の鐘に間に合うよう、私は山を下りた。半分は尻で滑った。


 札市の最後の夜は、校庭にかがり火が焚かれる。


 かがり火のまわりに、全校の半分が集まっていた。見物に来たのだ。屋台の串がよく売れている。校庭の真ん中でボリスのグリフォン、ボルグが羽を畳み、その前に置かれた椅子にボリスが足を組んで座っていた。ピエトロは座布団の上で、まだ少し斜めに腰かけている。


「来たな、死にぞこない」


 ボリスは大きなあごを上げて笑った。


「俺の贈り物は気に入ったか」


「はい、殿下。よく燃えました」


 笑いが起きかけて、止まった。ボリスの目が笑っていなかったからだ。


「札は」


「ございません」


「最後の鐘が鳴り終わったら、札市は閉まる。そうしたら、お前はただの札なしだ。俺の寮の地下に吊《つ》るして、毎晩、鞭《むち》で遊んでやる。ピエトロの尻は七針だったな。一針につき百発だ。すぐには殺さんぞ。殺してくださいと泣くころには、死ぬのが慈悲に思えるだろうよ」


 札係の老人が、鐘楼の綱に手をかけた。一つ目の鐘が鳴った。


「やめろ、ボリス!」


 グンナルが前へ出て、ガルムントの上級生三人に囲まれた。別の方向から、丸い体が人垣を割って飛び出してくる。


「ダフネ! はい、札! もういいから持って!」


 ノルンだった。自分の札を握りしめ、もう片方の手に畑の棒を持っている。


「だめよ。帰って」


「帰らない!」


「いいぞ、農家の娘も敵に数えてやれ」


 ボリスが楽しそうに言った。二つ目の鐘が鳴る。ノルンの手が、私の手に札を押しつけた。その手は震えていた。


 そのときだった。


《遅い》


 頭の上の暗い空から、低い声が降ってきた。見上げても、何も見えない。かがり火の明かりが届かない高いところで、何か大きなものが風を切る音がした。


《借りは返せと言っただろう。私の足の分だ。お前が払え》


 人垣が割れた。


 赤い髪の男が、上着もつけずに歩いてきた。上級生たちが、また目をそらして道を空ける。ラズはボリスの椅子の前を素通りし、私の前で止まった。


「札を出せ」


 声が出なかった。ノルンの札を押し返し、自分の札を懐から出すと、大きな手がそれを取り上げた。ラズは自分の札を首から引きちぎった。三年間、一度も結ばれなかった札は、手垢で黒くなっていた。


「じいさん。結べ」


 札係の老人が、鐘の綱を握ったまま目をむいた。


「鐘が鳴り終わる前なら、有効じゃが」


「知ってる」


 三つ目の鐘が鳴った。老人は綱を放して駆けてきた。二枚の割れ目を小刀で削り合わせ、かがり火に突っこんであった焼きごてを押す。煙が上がり、一対の札が私の手に戻された。


「俺の分の報酬はいらん」


 ラズは片割れを首にかけた。低い声が、私にだけ聞こえた。


「借りは返す。それだけだ」


 借り。ザラの足のことだ。頼まなかった貸しが、こうして返ってきた。


 老人が綱へ戻り、最後の鐘が、夜の校庭に鳴り響いた。


 ボリスはしばらく椅子に座ったまま、動かなかった。それから、ゆっくり立ち上がった。


「奴隷。俺の言葉を聞かなかったか。そいつの護衛になった奴は、俺の敵だ」


「聞いた」


 ラズは振り向きもせずに答えた。


「お前らじゃ、俺は倒せない。この女は俺が守る。殺させはしない」


「奴隷が皇子に盾突くのか! なら、お前から死ね! ゴルド!」


 巨漢が牛のような声を上げて走ってきた。


 息を一回するほどの間だった。ゴルドの右手の指が、まとめて妙な方向を向いていた。悲鳴が校庭に響く。ラズはゴルドの襟《えり》をつかんだまま、取り巻きたちを見回した。


「次」


 三十人はいたはずだ。誰も、前へ出なかった。


 ボリスは手下たちの顔を順に見て、ゆっくりと笑った。あの楽しそうな顔だった。


「いいだろう。しばらく遊ばせてやる。狙うのは、札の奴隷一人にしておいてやろう。地下の鼠《ねずみ》どもには、その札が続くあいだは手を出さん。皇子の約束だ。札が切れたら、その女も、奴隷も、鼠どもも、順番だ」


 ボリスがボルグの背に上がると、風でかがり火が大きく揺れた。


「おい、死にぞこない。葬式代はなくすなよ」


 その晩、ロザーン寮の食堂で、ノルンが角兎の串を山ほど買ってきた。私の銅貨二枚で、である。


「だって、お祝いでしょ! 先輩も食べてよ、ほら!」


 戸口に立っていたラズの胸に、串が押しつけられた。護衛の仕事はもう始まっているらしく、ラズは嫌そうな顔で一本受け取った。


 それを口へ運ぶ前に、ほんの一瞬、手が止まった。


 鼻の下へ串を通す。匂いをかいだのは、ほんの一瞬だった。それから裏返して、焼き目を見て、ようやく歯を立てた。


 誰も見ていない。みんな串に夢中だ。


 私の指が、膝の上で止まった。今の仕草を、私は知っている。杯をすすめられたとき、私の鼻が勝手にやろうとしたことだ。十年間、毒見のあとの皿しか知らなかった人間の癖だ。


 闘技場あがりの奴隷の子が、どこでそれを覚えたのだろう。


 琥珀《こはく》色の目が、こちらを向いた。


「何を見ている」


「いいえ、何も」


 私は自分の串にかじりついた。

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