第8話 「指名」
「あんた、頭打った?」
「今日は打っていないわ」
「おとといの実技で打ったでしょ、ゴルドに! だめだって、絶対あの人だけはだめ!」
夕方の鐘が鳴ると、ノルンは私の腕にしがみついたまま、校庭までずるずると私を引っぱってきた。私の足はほとんど動いていないので、半分は抱えられて運ばれている。文句を言いながら、行き先は間違えない子だ。
札市は今日を入れて、あと二回しかない。上級生たちは私の顔を見ると背を向け、新入生は駆け足で札を結んでいく。
「ねえ、聞いて」
甘い匂いがして、ヴィヴィアンが隣に並んだ。
「ボリスがあなたを狙っているって、本当?」
「本当です」
「ひどいわね。わたしの護衛を貸してあげたいんだけど、札は持ち主を替えられないんですって。わたしが割って入るのもだめ。リュミエールの王女が皇子のけんかに口を出すと、戦争になるって言われてるの」
「お気持ちだけで十分です」
「だから、かわりにこれ」
銀の小箱から、蜜星が一つ、私の手のひらに置かれた。私はありがたく口へ運ぼうとした。白い指が、手首ごと引き寄せた。ヴィヴィアンは私の手から星を食べ、にっこり笑った。
「ごめんね。がんばって」
「今のは、何をくれたのですか」
「励まし」
ひらひらと手を振って、ヴィヴィアンは行ってしまった。ノルンがあきれた顔でそれを見送っている。
「あたし、あの人のこと、まだよくわかんないや」
「私もよ」
校庭の奥で、屋台の片づけが始まっていた。札市の後始末は、片腕の紋持ちの仕事だ。木箱を運ぶ何人かの中に、そばかすのティモがいる。その隣で、赤い髪の男が木箱を三つ重ねて肩に担いでいた。
私はノルンの腕から手を抜いた。
「ここからは一人で行くわ」
「死なないでよ」
「まだ死なないわ。ボリス殿下の予約が、明日の夜に入っているの」
「意味わかんない!」
校庭を横切った。三十歩ほどだが、私にはけっこうな遠出だ。銅貨を噛んだ娘が歩いていると気づいた者たちが、面白がって道を空ける。ざわめきが、後ろからついてきた。
ラズの前で足を止めて、懐から札を出した。
「ラズ先輩。私と札を結んでください」
校庭の音が止まった。
ラズは木箱を担いだまま、私を見もしなかった。
「断る」
「報酬は、お金以外なら、なんでも。私にできることなら、なんでもお支払いします」
「断る」
「あの、先輩、今の聞きました?」
ティモが箱の陰から顔を出した。
「なんでもですよ。女の子に、なんでもって言われたんですよ」
「黙れ」
そのとき、背後で甲高い笑い声が弾けた。
「聞いたか! おい聞いたか、奴隷に札を差し出したぞ!」
ピエトロだった。尻を七針縫った男は、取り巻きに丸い座布団を持たせて、がに股でこちらへ歩いてくる。
「教えてやろう、銅貨の娘。そいつは特殊部隊の三年だ。奴隷の子を放りこんで、敵の裏に捨ててくる部隊だぞ。半年いなくなることもある。帰ってこなければ、それで終わりだ。札を結んだことなど、一度もない!」
「ええ。ですから、三組とも空いていると思いました」
校庭のあちこちで吹き出す音がした。ピエトロの顔が赤くなる。
「貴族の娘が、奴隷に頭を下げるのか。男爵家の恥だな!」
「恥は、いくらでもかきます。私は、札が欲しいのです」
笑い声が、少しだけ小さくなった。私は笑わせに来たのではない。ラズの前へ、もう一歩だけ進んだ。
「先輩。今の私にできることは、多くありません。それでも、いただいた分は、いつか必ずお返しします」
ようやく、琥珀色の目がこちらへ下りてきた。木箱の影の中で、左頬の傷だけが白く見える。
「なぜ俺だ」
三人を殺さなかったからだ。けれど、あの日のことは、何も見なかったことになっている。
「ほかの皆さんには、もう断られました」
「俺にも断られた」
「はい。これで全員です」
「なら、帰って手紙を書け」
「なぜ断るのか、聞いてもよろしいですか」
「ボリスが言ったことを、聞いていなかったのか」
ラズの声は低く、私にしか届かなかった。
「奴隷紋に関わるな。死ぬぞ」
それだけだった。
木箱の陰で、ティモが破れた袖を引っぱって、片腕の紋を隠していた。ボリスは、私の護衛になった者も敵として片づけると言った。片づけられるのは、ラズ一人では済まないのだろう。
言い返す言葉がなかった。ノルンが札を結ぶと言ったとき、私が断った理由と同じだったからだ。
「わかりました。失礼なことを申しました」
私は札を懐にしまった。ラズは一度だけ、私の手元を見た。それから何も言わず、木箱を担ぎ直して歩いていった。
「お疲れさまでした! いい勝負でした!」
ティモが振り向いて、大きく手を振った。その襟首を、ラズの手が後ろからつかんで引いていく。
「奴隷にも断られたぞ!」
ピエトロの声が校庭じゅうに響き渡った。
「新入生の諸君! とうとう奴隷にまで断られた女がここにいるぞ! お前、明日の夜が楽しみだな。あ、そうそう。殿下から、お前の寮に届け物がある」
座布団を抱えた取り巻きが、そろって笑った。
届け物の意味は、寮へ帰るとすぐにわかった。
豚小屋の前庭の真ん中に、棺桶が一つ置いてあった。
白木の、まだ新しい棺だ。寮の全員がまわりを囲み、グンナルが腕を組んで見下ろしている。
「ガルムントの一年が、荷車で置いていった」
蓋に焼き印が押してあった。
『ダフネ・ブレンナー殿 葬式代は前払いにてお預かりずみ』
私の懐には、あの銅貨が入っている。ずいぶん律儀な皇子だ。
「大きさを見ろ」
グンナルの声は、いつもより低かった。
「並の女なら入らん。ベルクハイムの中庭で、小柄な順に選んだ男だ。お前の背丈を、誰かに測らせたんだろう」
誰も何も言わなかった。新入生の何人かが、そっと後ずさりした。指先が冷えて、懐の銅貨がやけに固く感じられる。
ノルンが前へ出た。棺の周りをぐるりと一周し、板を拳でこんこんと叩いて、丸い顔を上げた。
「これ、いい板だよ」
「ノルン」
「節もないし、乾いてる。うちの屋根より上等。先輩、ここの冬は寒すぎて死ぬって言ってましたよね? これ、ぶっこわして薪にしましょう!」
グンナルが、一拍おいて腹を揺すりはじめた。
「わはは! 言った、言った! おい、誰か斧を持ってこい! 今夜は暖かく寝られるぞ!」
寮の連中が笑い出し、棺は蓋から順に薪になっていった。元が豚小屋の寮に、こんな上等な薪はめったに来ない。
私も少しだけ笑って、柵のそばへ下がった。笑うと、ゴルドに打たれた肋骨が痛んだ。
《ひっひ。燃やしちまったな》
飼育場の屋根に、煙鳥が一羽とまっていた。
《あれは高いぞ。もったいない》
《もったいないのは、そっちの娘だ。明日で終わりだ》
二羽目が言う。私は柵にもたれて、唇だけを動かした。
「あなたたち、なんでも見ているのね」
《見てるとも。おい聞いたか、また聞こえてるぞ》
「赤い髪の人のことも、知っている?」
《あいつか。あいつは夜になると、肉を持って裏山へ行くぞ》
《自分の飯を半分残してな。毎晩だ。ひっひ》
《ゆうべは来なかったけどな。骨を三人分折って、鍵のかかる部屋に入れられた。昼は木箱運びだ》
薪の割れる音が、遠くなった。
ラズは片腕の仲間のために、私の札を断った。その人が、自分の食事を半分残して、毎晩、誰にも言わずに山へ運んでいる。
「裏山に、何がいるの」
《知らん》
《でかいぞ》
煙鳥たちは、声をそろえて笑った。
《今朝から、痛い痛いと泣いてるけどな》




