第7話 「人殺し」
「マルコさん、だめ。アドルフさん、だめ。オットーさん、顔を見ただけで逃げた。ルッツさんは片腕の人だから、もう伯爵家の子と結んでる」
ノルンは寮の食堂の机に名簿を広げ、炭の棒で名前を消していった。消された名前で、紙はもう真っ黒だ。
「上級生、全滅だね」
「そうね」
「グンナル先輩は?」
「札は三組までよ。四組目を持つと、持っている札が全部無効になるそうなの」
グンナルは今朝、自分の札の一人に頭を下げに行ってくれた。新入生の男の子は青ざめて泣き出し、グンナルは黙って札を持って帰ってきた。そのあと私の粥に、自分の分の肉を入れていった。
私は机に頬をつけた。頬の紅が、名簿に薄くついた。
札市は、残り二日だ。カミラの言葉が本当なら、私に残された時間はもっと短い。カロリナは、昼になっても教室に戻ってこなかった。
ノルンは炭の棒を置き、腕を組んで、うーんとうなった。それから、ぽんと手を打った。
「よし。じゃあ、あたしが結ぼうか」
「え」
「同級生でもいいんでしょ? あたしまだ札ないし、ちょうどいいじゃん。木の棒なら振れるよ。畑を荒らす猪、追い払ったことあるし」
丸い顔は、本気だった。
「報酬は銅貨四枚でいいよ。あ、ボリスからもらった一枚は嫌だな。三枚にまけてあげる」
指先が冷えた。麻袋の底を濡らしていたものが、目の前に浮かんだ。
「だめ。あなたが死ぬわ」
「ちょっと。今『死ぬ』って言い切った?」
「言い切ったわ」
「ひどいなあ。あたし、けっこう強いのに」
ノルンは唇をとがらせ、すぐに笑った。その笑顔を見ていられなくて、私は名簿に目を落とした。真っ黒な紙の一番下に、一つだけ消されていない名前がある。
「この人は?」
「あ、それはいいの」
「三年生ね。ラズ」
ノルンの手が止まった。
「あんた、校庭でまたがれた人でしょ。あの人は札を結ばないよ」
「片腕の人は、護衛にならないの?」
「なるよ。お金のためとか、忠誠を見せるためとかでね。主の家に気に入られたら、紋を消してもらえることもあるんだって。でも、一度結んだら主は変えない。だから片腕の先輩は、札市の初日にみんな売れちゃうの」
「ラズさんも片腕でしょう」
「あの人は別。自分で護衛を雇わないし、誰かの護衛になったことも一度もないの。三年間、ずっとだよ」
「どんな人なの」
ノルンは声をひそめ、身を乗り出した。
「人殺し。闘技場で百人殺して、領主に買われて、推薦でここへ来たの。去年だけで学内でも六人やったって。あの顔の傷は、殺した相手の最後の一太刀。夜になると、奴隷の仲間を集めて地下で何かしてるって。あと、人の肝を食べるって」
「肝を」
「昨日、寮の子が言ってた。一昨日は腎臓だったけど」
「噂が育っているわね」
「でも本当に死ぬよ、あの人に関わると。ボリスより先にね」
そのとき、入り口からネリネが顔を出した。
「ダフネ様、医務棟へお薬をいただきに参りませんと。今日はお顔を見せるように言われております。午後の実技は、お休みの許しをいただきました」
医務棟は学舎の裏手の、丘の向こうにある。ネリネの腕につかまって半分まで歩いたところで、私の足が先に音を上げた。
「ここで少し休むわ。先に行って、薬をもらってきて」
「お一人にはできません」
「すぐそこに人がいるわ。真っ昼間よ。こんな顔色の悪い貧乏人を、誰が襲うの」
ネリネは心配そうに何度も振り返りながら、坂を下りていった。
古い焼却炉の陰に座りこんだ。煙の匂いがする。炉の屋根に、黒い翼の小さな魔獣がとまっていた。煙鳥だ。人が燃やした残りの木の実を探しに来る、噂好きの鳥である。
《またやってるぞ。ひっひ》
《裏だ、裏。今日は腕だとよ》
腕。私は炉の壁に手をついて、そっと裏をのぞいた。
ガルムント寮の軍服の男が三人いた。そのうち一人に後ろから羽交い締めにされて、そばかすの痩せた少年が、壁に押しつけられている。袖を破られた左腕に、黒い紋が見えた。片腕の紋持ちだ。
「殴るなら右でお願いします」
少年は、血の出た口でへらへら笑った。
「左は昨日の分がまだ治ってなくて。先輩方も、同じところばかりじゃ飽きるでしょう」
「まだしゃべるのか、ティモ」
正面の男が、腰から小刀を抜いた。
「お前ら片腕は、成績がよければ紋を消してもらえるんだってな。手間を省いてやるよ。腕ごと切れば、紋も消える」
「わあ、親切だなあ。ついでに爪も切ってもらえます?」
「押さえてろ」
小刀が振り上げられた。私の喉がひとりでに鳴った。声を出そうとしたが、かすれた息しか出なかった。
小刀は下りてこなかった。
振り上げた手首を、後ろから誰かがつかんでいた。
まくり上げた右腕に、黒い紋。
「手を離せ」
低い声だった。男が振り向く間もなかった。
乾いた音がして、小刀が地面に落ちた。手首があり得ない方向へ曲がっている。男が悲鳴を上げるより先に、ラズはその膝の横を蹴り抜き、崩れてくる体の陰から、二人目の懐へ入っていた。
二人目がティモを放して剣に手をかける。ラズはその手を上から押さえつけ、同じ手でひじを逆に折った。剣は半分も抜けなかった。三人目は棒を拾って背中から打ちかかった。ラズは振り向きもせずに一歩下がって棒の内側に入り、相手のあごの下へ肘を当てた。
息を三回するほどの間だった。
三人の男が地面に転がって、うめいている。ラズは息も切らしていなかった。
落ちた小刀を拾い、焼却炉の口へ放りこむ。
「次は、腕だけではすまない」
転がった男たちが、ひいひい言いながら這って逃げていく。
ティモがずるずると壁から滑り落ち、地面に座りこんで、へらっと笑った。
「先輩、今日も最高にかっこいいです。惚れました」
「黙れ。立てるか」
「無理です。おんぶしてください」
「立てるな」
ラズはティモの襟首をつかんで立たせた。それで、私は我に返った。
逃げていった三人は、自分の足で歩いていた。
手首と、膝と、ひじと、あご。十年間、寝台の上で聞いてきた医者の話が頭をよぎる。どれも、ひどく痛いが、命にはかかわらない。治るまでひと月かかるが、必ず治る場所だ。喉も、心臓も、目も、ラズの手の届くところにあったのに、触れていない。
人殺しは、あんな殴り方をしない。
「いつまで見ている」
ラズはこちらを見ないまま言った。
息が止まった。隠れていても仕方がない。私は炉の壁につかまって、なんとか立ち上がった。
琥珀色の目がこちらを向く。左の頬の傷に、昼の光が当たっていた。
「お前は今日、何も見なかった」
低い声だった。
「もう行け」
私は黙って頭を下げた。
顔を上げると、ラズはまだこちらを見ていた。私の目が、逃げていった三人の背中を追っていたからかもしれない。道端の石を見る目が、ほんの一瞬、何か別のものを見る目に変わった。
それだけだった。ラズはティモを小脇に抱えて歩き出した。
「ちょっと先輩、荷物じゃないんですから!」
二人の姿が、丘の向こうへ消えていく。
《ひっひ。また死ななかったな。一人でも死ねば、目玉ぐらいは食えたのに》
《残念、残念》
煙鳥たちが、屋根の上で笑っていた。
私は懐から、自分の分の札を取り出した。まだ割れ目の合う相手がいない、片割れの札だ。
ラズは、皇子の手下の骨を折って、礼も言わせずに帰っていった。ボリスが恐ろしいなら、あんなことはしない。金で動く男なら、三年のあいだに、誰かがとっくに札を結んでいる。
あの人は、ボリスにも買えない。金貨百枚を積まれても、私の首をボリスに売ることはないだろう。
坂の下から、ネリネが小走りに戻ってくるのが見えた。
決めた。
私の護衛は、ラズにする。




