第6話 「選択」
「ダフネ、教官にも派閥があるって知ってた?」
翌朝、尋問学の教室へ向かう廊下で、ノルンが声をひそめた。
「寮の先輩に聞いたの。獣学のトマソ先生は、どこの派閥にも相手にされてない。マルガ教官は、死んだ兵に派閥はないって言って、全員に同じくらい厳しい。で、気をつけなきゃいけないのが、これから行くゲルト教官」
「どうして」
「顔を見ればわかるよ」
教壇に立つ痩せた男を見て、私は足を止めそうになった。
顔の右半分に、皇家の紋がある。文官や教官にも、紋の者は多い。模様を見れば主がわかる。
ゲルトの顔にあるのは、校庭でボリスの軍服に縫いつけられていたのと同じ、猛禽の模様だった。
「尋問の第一歩は、観察です」
ゲルトは静かな声で言った。
「人は嘘をつけます。名前も、生まれも、偽ることができる。しかし、体に染みついた育ちは偽れない。今日は女子の新入生に、一人ずつ前へ出てもらいましょう」
教卓の上に、素焼きの杯がずらりと並んでいた。中身は濁った茶色の水だ。
「飲みなさい。それだけです」
教室が静まり返った。これは授業ではない。第七皇女探しだ。
毒かもしれない杯を、教官に飲めと言われたとき、どうするか。農家の娘なら、文句を言いながら飲む。
では、皇女なら。
最初に呼ばれたのは大柄な農家の娘で、顔をしかめて一息に飲み、「まずい」と言って戻ってきた。ゲルトは帳面に小さく印をつけた。ノルンも飲んだ。「おかわりはないんですか」と聞いて、笑いを取った。
七人目は、亜麻色の髪の、姿勢のいい子だった。カロリナという名の、地方の子爵の娘だと聞いている。
カロリナは杯を持ち上げ、無意識に、袖口で飲み口をひと拭きした。
それから、飲んだ。
誰も笑わなかった。カロリナ本人だけが、何が起きたのかわからない顔をしている。
「きれいな作法ですね」
ゲルトはほほえんだ。
「どちらで習いました」
「え、あの、母に」
「お母上によろしく。廊下で、お話をうかがいましょう」
扉が開き、ガルムント寮の上級生が二人入ってきた。
「待ってください。私は違います。ただの子爵の娘です! 父に聞いてください!」
カロリナの声は廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなった。誰も立ち上がらなかった。立ち上がれば、次は自分だ。
私の指先は冷えきっていた。杯の縁を拭く。私も寝台の上で、最初にそう教わった。
「ダフネ・ブレンナー」
前へ出ると、ゲルトが帳面を開いた。そのページに、私の名前と、知らない筆跡の書きこみが見えた。
「毒学の先生から、お話をいただいています。三つの瓶を言い当てた新入生がいると」
血の気が引いた。昨日、帳面に何か書きつけていた白髪の教官の顔が浮かぶ。
あのとき、私は答えを知っていたから、手を挙げた。ヴィヴィアンに頼まれ、少し得意になって、手を挙げた。
札市で金貨を積まなかったのに。銅貨まで噛んだのに。
読んだ本を自慢するのは、皇女のすることだ。
「鶏で試したそうですね」
「はい、先生」
「では、飲む前に匂いでわかるでしょう。かいでごらんなさい」
ゲルトが杯を差し出した。
かげば、毒に慣れた人間の仕草が出る。かがなければ、本当に毒かもしれないものを飲むことになる。十年間、私は毒見のすんでいないものをほとんど口にしていない。鼻が、勝手に杯へ近づこうとする。
私は杯をつかんだ。
「鶏は匂いをかぎません」
一息に飲みほした。泥と、苦い草の味がした。
「お腹がすいていたので、助かりました。おかわりはありますか」
後ろで誰かが吹き出した。ゲルトは笑わなかった。細い目で、しばらく私を見ていた。
「戻りなさい」
帳面に、印がついた。ほかの子と同じ印か、違う印か、ここからは見えなかった。
席に戻る途中で、舌がしびれはじめた。
授業が終わり、廊下の角を曲がったところで、私の足は床を踏まなくなった。
「また倒れた子がいるのね。こっちへ運びなさい」
目を覚ますと、薬草の匂いのする小部屋にいた。救命学の教官カミラが、乱暴な手つきで私の口に苦い液を流しこんでいた。年は四十ほどで、袖を肘までまくっている。ノルンの姿はない。
「吐きなさい。しびれ薬よ。死ぬほどの量ではないけれど、あなたの体には多すぎたわ」
私が桶に吐くのを、カミラは腕を組んで眺めていた。
「あの杯を一息で飲んだそうね。賢いのか、馬鹿なのか」
「貧乏なのです」
「その冗談は、もうやめておきなさい。ゲルトの帳面で、あなたの名前には丸がついているわ」
部屋の空気が冷たくなった。
「どうして、そんなことをご存じなのですか」
「私は第一皇子殿下にお仕えしているの。ボリスのやることは、全部見張っているわ」
カミラの顔に紋はない。袖をまくった腕は、きれいなものだ。
「ボリスの嫌がることなら、なんでも歓迎よ。だから聞くわ。第七皇女について、何か知っていることはない? 話してくれれば、第一皇子殿下の名前で守ってあげる。札も用意してあげるわ」
優しい声だった。
札。守ってあげる。喉から手が出るほど欲しかった言葉だ。皇女らしくこの人の手を取って、助けてちょうだいと言えば、今夜は安全な寝台で眠れる。
第一皇子も、帝位を争う兄の一人だ。第七皇女の首を、金貨百枚より高く使うだろう。
「存じません。鶏のことなら、少しわかります」
カミラは片方の眉を上げ、それから初めて、小さく笑った。
「そう。合格よ」
「合格、ですか」
「今の話に飛びついた新入生は、去年は二人いたわ。二人とも、もういない。この国ではね、弱い者も、騙される者も、死ぬだけなの。味方の顔をした人間から順に疑いなさい。私も含めて」
カミラは立ち上がり、私の胸の上に薄い毛布を放った。
「一つだけ、ただで教えてあげる。丸のついた名前は、今夜のうちにボリス本人へ届くわ。七日目まで待ってもらえると思わないことね」
戸口で、カミラは振り返らなかった。
「札を結びなさい。今日中に」




