第5話 「訓練」
帝国軍事大学の一日は、鐘で決まっている。
日の出の鐘で起きて、軍服に着替え、朝食。二の鐘で校庭を走る。三の鐘から昼までが座学で、毒学、薬学、救命学、獣学、尋問、諜報を習う。午後は実技で、剣、槍、弓、銃、体術、魔術、幻術のどれかだ。夕方の鐘のあとが札市で、夜は自習になる。新入生は全部を一通り受け、二年から兵士、騎手、魔術師、ヒーラー、諜報員、暗殺者、特殊部隊などの専門に分かれる。
休めば欠席が一回つく。医者の許しのない欠席が三回で、脱走と同じ扱いになる。脱走した者は落伍者として、片腕に奴隷紋を刻まれる。
昨夜、閂の横で倒れた人間にも、免除はない。
「新入生は校庭を十周! 遅れても誰も待たんぞ!」
武術教官のマルガは、片目のない大柄な女だ。ノルンが軽い足取りで私の横に並んだ。
「ダフネ、肩貸そうか」
「あなたまで遅れるわ」
「じゃあ先に行く。走りきったら串おごってね」
ノルンは片手を振って走っていった。私は二周目で走るのをやめ、四周目から歩いた。七周目で地面に手をついた。マルガの長靴が、私の前で止まった。
「ブレンナー。遺体の送り先は聞いてある。やめるか」
「続けます」
「なぜだ」
「やめると、欠席が一回つきますので」
マルガは片方の目で私を見下ろし、何も言わずに歩いていった。十周を終えたのは、三の鐘が鳴り終わったあとだった。
座学の教室は、天国だった。椅子がある。
最初の授業は毒学だ。白髪の教官が、教卓に小瓶を三つ並べた。
「宮廷でよく使われるものを持ってきた。飲まされた者をどう見分けるか、答えられる者」
ざわざわと帳面をめくる音がした。隣の席のヴィヴィアンが、私の袖を引いた。
「ねえ、聞いて。わたし、薬の名前を聞くと眠くなるの」
「さっきから寝ていますよ」
「だから起こして、答えを教えて」
私は小さく手を挙げた。
「左の瓶は、舌がしびれて指先が冷え、半日後に血を吐きます。右の瓶は、息が甘く匂います。真ん中は毒ではありません。色をつけた薬草酒です」
教室が静かになった。教官が眉を上げた。
「ブレンナー、だったな。どこで習った」
十年間、寝台の上で、毒の本ばかり読んでいたからだ。自分が何を飲まされたのか、知りたかった。その毒の名前だけは、どの本にも載っていなかった。
「貧乏なので、道端のものを食べる前に、鶏で試します」
どっと笑いが起きた。教官だけは笑わず、帳面に何か書きつけた。ヴィヴィアンが私の帳面をのぞきこみ、すらすらと写している。
「ごめんね。あとで星をあげる」
「また取るのでしょう」
「うん」
諜報の教官は、にこやかな小男だった。
「偽名の者は、名を呼ばれて一拍遅れます。毎年、何人かおりましてね。では、出席をとりましょう」
小男は笑顔のまま名簿を読みはじめた。教室の何人かが、急に背筋を伸ばした。
「ダフネ・ブレンナー」
「はい」
一拍も遅れなかった。馬車の中で、ネリネに千回は呼ばれている。
獣学では、老教授トマソが、教卓にしがみつくようにして話した。
「魔獣に、人のような心はない。契約者が聞く声は、己の魂の反響にすぎん。諸君は来月、契約の森に入る。入れるのは在学中に一度きりだ。魔獣を得られなかった者は、卒業後、歩兵として前線へ行く」
《あのじじい、毎年同じことを言ってるぞ》
窓の外の木で、煙鳥が笑った。
《去年は、おれの糞が頭に落ちても気づかなかった》
私は咳をするふりをして、笑いをごまかした。
午後は、剣の実技だった。隣の射場からは、上級生の撃つ銃の音が絶えず響いてくる。
新入生が木剣を持って二人一組で打ち合い、上級生が助手として見回る。訓練場の隅には片腕の紋を持つ上級生が数人立たされていて、打ちこみの的にされていた。防具はない。何度打たれても、声を上げる者はいない。
その端に赤い髪が見えて、私は目をそらした。
組む相手を探していると、大きな影が差した。
「ブレンナーの相手は、俺がしてやるよ」
ガルムント寮のゴルドだった。三年生の助手が、木剣を手に牛のように笑っている。
「マルガ教官、よろしいですか」
「好きにしろ」
校則は一つだ。私は木剣を持ち上げた。腕が震えて、切っ先が定まらない。
最初の一撃で、木剣が手から飛んだ。
「拾え。銅貨より簡単だろう」
拾うと、今度は左の腕を打たれた。次は腿だ。肋骨の上を、軽く、音だけ大きく叩いていく。骨は折らない。倒れれば、立つまで待っている。
「殿下のご命令でな。七日目までは殺すなとさ。ちょうどいい加減に打ってやるよ」
「ちょっと! もうやめなよ!」
ノルンが飛び出そうとして、まわりの新入生に腕をつかまれた。
七回倒れ、七回立った。八回目は足が動かなかった。
「終わりか、つまらん。また明日な」
ゴルドは私の頭の横に唾を吐いて、歩いていった。
夕方の鐘が鳴った。札市には、一応行った。腫れた顔の私を見て、上級生たちは今日も背を向けた。
札市は、あと三回しかない。
夜、ノルンに肩を借りて寮へ戻った。飼育場の前を通るとき、老いた鱗馬が柵の間から長い顔を出した。
《ひどい顔だな、人間》
「少し先に行っていて。息を整えるわ」
ノルンが戸口へ入るのを待って、私は柵にもたれた。
「ゴルドを噛んでくれてもよかったのに」
《次はそうする。昨夜の礼に、いいことを教えてやる。ガルムントの連中が怖がる人間が、この学校に一人だけいる。煙鳥どもが言っていた》
「誰なの」
《名前は知らん。人間の名前は覚えられん。赤い毛で、腕に黒い模様のあるやつだ》
老いた鱗馬は、歯をむいて笑った。
《校庭で、お前をまたいだやつだ》




