第4話 「声」
この世界の魔獣は、人と魂の契約を結ぶことができる。
竜も、グリフォンも、鱗馬のような小さな魔獣も同じだ。契約を結べば、人と魔獣は言葉を使わずに話せるようになる。これを念話という。ただし、聞こえるのは自分と契約した一頭の声だけで、それがこの世の決まりだ。
私は、その決まりの外にいる。
十年前、毒から目を覚ました朝に、窓の外で小鳥が言ったのだ。《死ななかったぞ、あの子》と。それ以来、私には契約もしていないすべての魔獣の声が聞こえる。
誰にも言うな、とベルタは言った。契約もなしに魔獣と話す者は、帝国では異端者扱いされかねない。知られれば、皇女でも片腕に紋を刻まれるかもしれない。このことを知っているのは、私とベルタだけだ。毎日そばにいるネリネにも話していない。これは私の切り札だ。だから、人には言わない。
隣の飼育場にいるのは、大学が軍事訓練のために飼っている騎獣だ。誰とも魂の契約を結んでいない。だから、どれほど叫んでも、言葉の届く相手がいない。
私は裸足のまま部屋を抜け出し、壁を伝って飼育場へ入った。
暗がりに、鱗馬が十頭、角山羊が六頭、牙犬が四頭。どれも目をむき、口から泡を飛ばして、柵に体をぶつけている。一番手前の老いた鱗馬が、前脚で柵を蹴りながら叫んでいた。
「あなた、さっき、なんて言ったの」
柵に顔を寄せて聞くと、鱗馬の前脚がぴたりと止まった。
長い顔が、ゆっくりこちらを向いた。
《お前、いま、おれに言ったか》
「ええ」
《聞こえるのか》
「聞こえるわ」
《聞こえるのか! おい、みんな! この人間、聞こえるぞ!》
《うそつけ》
《おい人間、おれの名前を言ってみろ》
飼育場じゅうが一斉にしゃべり出した。頭が割れそうになる。私は柱につかまった。
「静かにして! お願い。燃やされるって、どういうこと?」
《ガルムントの連中だ》
老いた鱗馬が言った。
《東の塀の外に六人。壺を持ってる。油くさい。あいつらの鞭の匂いは忘れない。この飼育場の藁に火をつける気だ。ここが燃えれば、隣の寮も燃える》
血の気が引いた。ロザーン寮は元が豚小屋で、壁は板張りだ。寝ているノルンの顔が浮かんだ。
私は廊下を這うように走り、四年生の部屋の戸を叩いた。
「グンナル先輩! 起きてください!」
「んあ。ダフネか。腹でも壊したか」
「東の塀の外に、ガルムント寮の人が六人います。油を持っています。飼育場に火をつける気です」
グンナルは大きなあくびをした。
「どうしてわかる」
「匂いがしました」
「東の塀は、ここから百歩は離れてるぞ」
「貧乏なので、油の匂いには敏感です。高いですから」
グンナルは腹を揺すって笑った。
「いいな、それ。明日みんなに言ってやる。隣の連中は雷が鳴っても騒ぐんだ。寝ろ寝ろ」
戸が閉まった。
間に合わない。人に話しても無駄だ。私はもう一度壁を伝って、飼育場へ戻った。息がうまく吸えない。胸の奥で、ぜいぜいと音がする。
《どうだった》
「信じてもらえなかったわ」
《人間はそうだ。おれたちがどれだけ吠えても、うるさいと言うだけだ》
「あなたたち、東の塀まで走れる?」
あれほど騒いでいた飼育場が、しんとした。
《綱がある。閂もある》
「綱は私がほどくわ。閂も開ける。あなたたちは、できるだけうるさく騒いで、東の塀へ走って。寮の人が全員起きるくらいに」
《それでどうなる》
「塀の外の六人が、油壺を抱えたまま、あなたたちと、起きてきた寮の人に挟まれるの」
老いた鱗馬は、しばらく黙っていた。
《鞭の連中を、蹴っていいか》
「いいわ」
《噛んでもいいか》
「いいわ」
《尻でもか》
「どこでも好きなところを」
《お前、気に入った》
端から順に、綱をほどいた。結び目は固く、爪が割れた。最後に閂に肩を入れる。太い木の棒で、私の腕より重い。持ち上げようとすると目の前が白くなった。
もう一度、肩を入れる。足を踏ん張る。体じゅうの血が頭から落ちていく。右の脇腹が焼けるように痛んだ。
ごとん、と閂が外れた。
《行くぞお!》
二十頭が、夜の中へ飛び出していった。
すごい音だった。地面が揺れ、牙犬が吠え、角山羊がけたたましく鳴き、鱗馬がいななきながら寮の前を駆け抜ける。あちこちの窓に灯りがついた。
「なんだ! 魔獣が逃げたぞ!」
「東だ、東へ走ったぞ!」
グンナルの怒鳴り声が聞こえた。ばたばたと足音が東へ流れていく。やがて塀の向こうから、人間の悲鳴が上がった。
「うわああ! なんだ、なんでこんなところに!」
「おい、壺を落とすな!」
「痛い! 痛い痛い痛い! 尻を! 誰か、尻を!」
甲高いあの声は、聞き間違えようがない。
《噛んだぞ!》
遠くで、老いた鱗馬がうれしそうに言った。
私は閂の横に座りこんで、少しだけ笑った。笑うと、口の中に血の味がした。そこで記憶が途切れた。
気がつくと、担がれていた。この肩には覚えがある。空が白みはじめている。
「起きたか、ダフネ」
グンナルの声は、昨夜とは違っていた。
「東の塀の外で、ガルムントの三年を六人捕まえたぞ。油壺も六つだ。ピエトロは尻を七針縫うらしい」
「それは、よかったです」
「飼育場の閂を開けたのは、お前だな」
「魔獣が暴れれば、皆さんが起きると思いました」
「ほう。匂いでか」
「はい。貧乏なので」
グンナルはしばらく黙って歩いた。
「俺がお前の話を信じていれば、お前はこんなふうにならなかった。悪かった」
大きな背中が、一度だけ揺れた。
「お前、鼻がいいな」
うれしかった。うれしいと思った自分に驚いた。私が役に立ったのは、十八年で初めてのことだ。
その気持ちは、朝食の鐘までしかもたなかった。
寮の前庭に、グリフォンが降りた。ボリスはその背に乗ったまま、並ばされた私たちを見下ろした。
「うちの三年が世話になったそうだな、ロザーン寮」
「殿下。夜中に油壺を抱えて散歩とは、ガルムントはずいぶん風流ですな」
グンナルが一歩前に出る。ボリスはそちらを見もしなかった。
「飼育場の閂のそばで、女が一人倒れていたと聞いた。おい、銅貨を噛んだ女」
全員の視線が、私に集まった。ノルンが後ろから私の袖をつかんだ。
「俺のやった葬式代、まだ持っているか」
「はい、殿下」
ボリスは目を細めて笑った。校庭で笑ったときと同じ、心から楽しそうな顔だった。
「札はまだらしいな。札市は七日目の夜に閉まる。次に開くのは一年後だ。そこの熊の札は、もう三組埋まっている。誰もお前を守れん」
「ボリス殿下、そいつは」
「黙れ、四年。これは規則の話だ」
ボリスは太い指を一本立てて、私に向けた。
「七日目の夜、お前を狩りに行く。かわいいピエトロの尻の仇を討ってやらんとな。札を結べるものなら結んでみろ。ただし、はっきり言っておくぞ」
声が前庭じゅうに響き渡った。
「こいつの護衛になった奴も、俺の敵だ。俺が同じように片づけてやる」
その日のうちに、札市の上級生たちは、私の顔を見ると背を向けるようになった。
残りは、三日。




