第3話 「親友」
「はい、動かないで。青白いと殺されるよ」
朝、目を開けるなり、頬に何かをこすりつけられた。
「何をしているの」
「紅。あたしのとっておき。妹の結婚式まで取っとくつもりだったんだけどさ」
同室のノルンは、丸い顔でにかっと笑った。農家の娘で、奨学生だ。入学してから同じ部屋で二晩寝たが、私が口をきく前に眠り、私が起きる前に起きている。よく働き、よく笑い、驚くほど大きないびきをかく。
「ユーニのこと、聞いた?」
「ユーニ」
「昨日の、麻袋の子。よその寮の、平民の棟の子でね。黄色い紐の」
紅を持つノルンの手が、少しだけ止まった。それから、また動き出した。
「あんたも同じくらい顔色が悪いんだから、気をつけなよ。はい、できた」
ユーニ。私はその名前を、口の中で一度だけ言った。
鏡を見ると、頬にほんのりと血色が差していた。病人の顔が、少し寝不足の娘くらいには見える。
「別人みたいだわ」
「別人でいなきゃ。首を切られたくないでしょ。行こ、朝ごはん」
食堂へ向かう道で、ノルンはうれしそうに指を折った。
「金貨百枚あったらね、まず実家の屋根を直すでしょ。下の妹を学校にやるでしょ。残ったお金で、毎日角兎の串を食べるの。毎日だよ」
「第七皇女を見つけたら、首を切るの?」
「あたしが? 無理無理、鶏だって父ちゃんにやってもらうのに」
ノルンはけらけら笑った。
「見つけたら、本人に話を持ちかけるよ。『黙っててあげるから金貨一枚ちょうだい』って。皇女様なら金貨くらい持ってるでしょ」
「持っていないかもしれないわ」
「そんなわけないでしょ。皇女様だよ? きっと今ごろ、大金で強い護衛を雇ってるって」
当の皇女が使えるお金は、銅貨四枚である。私は血色のよくなった顔で、なるべく健康そうに歩いた。
全寮が使う大食堂は、朝から戦場だった。灰麦の粥をよそう列に、私たちが並んだときだ。
「おや、銅貨を噛んだ娘だ!」
甲高い声がした。校庭で校則を叫んだ小柄な男、ピエトロだ。後ろには、頭一つ大きい巨漢のゴルドがいる。二人ともガルムント寮の三年で、ボリスの取り巻きである。
「なんだ、紅なんか塗って。そんなもので貧乏人の顔が変わるか?」
ゴルドが牛のように笑った。ピエトロは私の盆をのぞきこむと、指で銅貨を弾いた。銅貨はまっすぐ飛んで、私の粥に沈んだ。
「さあ、噛め。殿下のお気に入りの芸だ」
「ちょっと、やめなよ」
ノルンが前に出ようとする。ゴルドの腕が、それをハエでも追うように払った。ノルンは尻もちをつき、盆が床に転がった。
私は粥の中の銅貨を見た。噛むのは簡単だ。これで全財産が五枚になる。ただ、ノルンのこぼれた粥は戻らない。
「ねえ、聞いて」
のんびりした声が、割って入った。
食堂の空気が変わった。蜂蜜色の髪を緩く編んだ少女が、護衛を二人連れて立っていた。私と同じ新入生の軍服なのに、彼女が着ると礼服に見える。
「わたし、今朝すごく退屈なの。その子、わたしの友達だから、いじめるならわたしを通してくれる?」
ピエトロの顔がひきつった。
「ヴィヴィアン王女殿下。ご冗談を。こいつは一昨日来たばかりの、銅貨を噛む娘で」
「知ってる。だから友達になったの」
「いつです」
「今」
リュミエール王国の王女ヴィヴィアンだ。リュミエールは帝国のただ一つの同盟国で、内戦の続く帝国に兵糧と金を貸している。いくらボリスの取り巻きでも、手は出せない。
ピエトロは舌打ちを飲みこみ、ゴルドを連れて引き下がった。
ヴィヴィアンは私の向かいに座り、頬杖をついて、にっこり笑った。
「ね、友達でしょ?」
「初対面です」
「ほら、もうおしゃべりしてる。ねえ、その紅、誰が塗ったの? すごく上手。わたしにもやって」
「あの、殿下、なぜ私に」
「銅貨を噛んだでしょ。あれを見て思ったの。わたし、この学校に来てから、みんなにお世辞しか言われてないの。お世辞ってすぐ飽きるのよ。あなた、わたしにお世辞を言える?」
「言えません。家には鶏しかいなかったので、言い方を知りません」
「ほらね!」
ヴィヴィアンは声を上げて笑い、ノルンにも手を差し伸べて立たせた。それから銀の小箱を開けた。金色の星の形をした菓子が、ぎっしり並んでいる。
「蜜星。リュミエールの夜光蜂の蜜を固めたの。はい、二つあげる」
私の盆に、星が二つ置かれた。ノルンが目を丸くして、自分の分を両手で受け取っている。
一つ目を口に入れた。甘かった。舌の上で溶けて、花の匂いが鼻へ抜ける。二つ目に手を伸ばしたとき、白い指が先にそれをつまんだ。
「あ」
ヴィヴィアンは私の星をぱくりと食べ、片目をつぶった。
「ごめんね。やっぱりこっちのほうがおいしそうだったの」
箱の中には、まだ山ほど入っている。
「同じものですよ」
「うん、でも、人のって、おいしいじゃない?」
私は呆れた。呆れたまま、口の端が上がるのがわかった。十八年生きてきて、菓子を分けてもらったのも、横取りされたのも、初めてだった。
「ダフネ様、お薬の時間です」
気がつくと、ネリネが盆の横に立っていた。使用人棟から、毎日朝と夕方に届けに来る手はずになっている。学内では、実家から連れてきた乳姉妹ということにしてあった。
小瓶を差し出してから、ネリネは私の盆に目を留めた。
「召し上がったのですか。毒見の前に」
声はいつもと同じように優しかった。
「ごめんなさい。友達ができたの」
「それは、ようございました」
ネリネはほほえんで、私が薬を飲みほすのを見届けた。それからヴィヴィアンに深く頭を下げ、静かに帰っていった。
「大変ね。毎日飲むの?」
「毎日です」
「ふうん。がんばって」
ヴィヴィアンは小箱を閉じ、ひらひらと手を振って立ち上がった。
「また明日ね、ダフネ。あ、わたしのことはヴィヴィアンって呼んで。呼ばないと、また星を取っちゃうから」
その日から授業が始まった。私は朝の走りこみで倒れ、夕方の札市では、また札を一組も結べなかった。
けれど夜、固い寝台に横になったとき、私は生まれて初めて、明日が来るのを少しだけ楽しみにしていた。友達が二人できた。一人は、私を見つけたら金貨をせびると言っている。もう一人は、私の菓子を食べた。
ユーニにも、あったはずの明日だった。
ノルンのいびきが始まった。寮の壁は薄い。隣の飼育場の気配も、よく聞こえる。
うとうとしかけたときだった。
壁の向こうで、魔獣たちが狂ったように騒ぎ出した。
牙犬が吠え、鱗馬が甲高くいななき、角山羊が柵に角を打ちつける。板壁がびりびりと震えた。
「うるさいぞ! 黙らせろ!」
隣の部屋の誰かが怒鳴って、壁を蹴った。ノルンは寝返りを打っただけだった。
私は毛布の中で、動けなくなっていた。
吠え声に重なって、声が聞こえたからだ。
《くさい! 油だ! 東の塀の向こうだ!》
《五人いる。いや、六人だ!》
《起きろ! 人間ども、起きろ!》
低くて、がらがらした年寄りの声だ。そのあとから、いくつもの声が叫んでいる。
ほかの人間には、ただの吠え声にしか聞こえない。けれど私にだけは、これが言葉に聞こえる。ベルタのほかには、誰も知らないことだ。
《今夜、ここは燃やされるぞ!》




