第2話 「札」
青白くて、痩せていて、今にも倒れそうな女。ボリスがそう言ったばかりの校庭で、真ん中に座りこんでいるわけにはいかない。
私は人目を避けて、校庭の端まで這っていった。
校庭の隅の植え込みにもたれて息を整えていると、頭の上に大きな影が差した。
「お前、ロザーンの新入りだな?」
熊のような男が、赤ら顔で私をのぞきこんでいた。
「はい。どうしてわかるのですか」
「さっき受付の名簿を見てきた。今年のロザーン寮の新入りは九人だ。うちは貧乏だから、全員の顔を見に来るのが寮の決まりでな。俺はグンナル、四年だ」
グンナルは私を麦袋のように肩へかつぎ上げ、のしのしと歩き出した。
「あの、自分で歩けます」
「石段で吐いた奴が何を言う。見てたぞ。あと、銅貨を噛むのも見た。あれは傑作だった」
帝国軍事大学の寮は、領地ごとに分かれている。寮は全部で二十あり、それぞれの領地の子弟が入る。有力な寮は側妃たちの実家の領地で、ほかの寮もどれかの皇子についている。だから寮どうしの争いは、そのまま継承戦の代理戦争になる。
ボリスの母の実家、ガルムント領の寮は、丘の上に城のように建っていた。その下を通るとき、グンナルの声が低くなった。
「ベルクハイムの寮には近づくなよ。今朝、やられたばかりだ」
「何があったのですか」
「第七皇女の母親の実家だからな。ボリスの手下が三十人、夜明けに踏みこんだ。前の晩に着いていた新入生の女を全員叩き起こして、中庭に並ばせたそうだ」
「並ばせて、どうしたのですか」
「十年も寝ていた女は背が伸びない。ボリスがそう言ったらしい。だから小柄な順に三人、その場で首を落とした」
グンナルの肩の上で、私は息を止めた。
「護衛は、いなかったのですか」
「札を結ぶ前だ。誰の護衛でもない。上級生が剣を持って駆けつけたときには、もう終わっていた」
「その三人は」
「寮監が泣きながら名前を言ったそうだ。領主の後添えの連れ子で、イルマという娘と、家臣の娘が二人。イルマは第七皇女とは血のつながりもない。ボリスは『違ったか。まあいい』と言って、朝めしに戻った」
「お咎めは、ないのですね」
「校則は一つだ」
グンナルは吐き捨てるように言って、丘の上の城をちらりと見た。
「ただな、あのイルマの実の祖父は、北のドレスラー辺境伯だ。これまでどの皇子にもつかなかった古だぬきが、さて、どう出るかな」
あの異母兄は、それをやった足で校庭へ来て、大声で笑っていたことになる。
指先が冷えた。私も背は低い。ベルクハイム寮に入っていれば、中庭に並んだ三人の中に、私がいた。
だから兄は、母の実家と縁もゆかりもない領地を選んだ。誰にも相手にされない小さなロザーン領だ。その寮は、丘の陰にあった。
「着いたぞ。元は豚小屋だ」
グンナルは胸を張った。
「夏は涼しい。冬は死ぬ。隣は大学の魔獣の飼育場で、臭いは三日で慣れる。新入り、三つだけ覚えろ。一つ目。校則はさっきピエトロが叫んだあれだけだ」
「学内で死んでも、誰の責任にもならない」
「そうだ。寮どうしの襲撃も、夜道の刃物も、全部お咎めなしだ。二つ目。だから、自分の身を守れん奴は護衛を雇う」
グンナルは私を食堂の長椅子に下ろし、懐から細長い木の札を出した。一枚の札を真ん中で割った形をしていて、割れ目がぴったり合うようになっている。
「護衛札だ。入学から七日の間だけ札市が開いて、上級生や同級生と札を結ぶ交渉ができる。片方を自分が、もう片方を護衛が持つ。護衛はお前を守り、お前は報酬を払う。皇女だろうが農民の娘だろうが同じだ。紋の護衛も親の兵隊も、校門から中には入れん」
「結べなかったら、どうなるのですか」
「それが三つ目だ。札市は七日で閉まる。次に開くのは一年後だ。腕に覚えのある奴は札なしで平気だが、そうでない奴は、一年間ひとりで身を守ることになる」
「去年、札なしで冬を越した弱い新入生は何人いましたか」
「零だ」
グンナルは明るく言った。
「先輩に結んでいただくことはできますか」
「俺か? 札は一人三組までだ。俺はもう三人持ってる。悪いな。明日は授業がないから、丸一日札市に出ろ。授業が始まれば、札市は夕方の鐘のあとだけになる」
そこで大きな手が伸びてきて、私の頭をごしごしなでた。髪が全部逆立った。
「ま、死ぬなよ、ダフネ」
私が銅貨を噛んだ話は、夕食までに寮じゅうに広まっていた。
翌朝、校庭で札市が開かれた。
護衛を引き受ける上級生が、札を首から下げて立ち並ぶ。札には値段が書いてある。金貨五枚。金貨八枚。契約の魔獣を連れた四年生は、金貨二十枚。新入生たちが革袋を手に、声を張り上げて交渉していた。屋台まで出ている。
片腕に紋のある上級生の札だけは、金貨一枚と安かった。そのかわり、朝のうちに貴族の新入生に買われていく。売れた一人が、太った新入生の荷物を両手に下げて、黙ってその後ろを歩いていった。
金貨なら、ある。兄が持たせた金貨が、ネリネの荷の底に縫いこんである。けれど、貧乏男爵の三女が金貨を出せば、その場で正体を疑われる。ボリスの手下に知られた日が、私の命日だ。
だから、使えるお金は、ダフネ・ブレンナーの財布の中身だけだ。銅貨三枚。ボリスの葬式代を足して、四枚。それが、今の私の身分にちょうどいい全財産だった。
金貨のほかのもので、護衛を雇うしかない。
「予算は」
「銅貨四枚です」
「ひと月にか?」
「全部で、です」
一人目の上級生は、笑って手を振った。
「得意なことは」
「魔獣の世話です。どんな子でも、すぐに機嫌がわかります」
「護衛が魔獣の世話をしてもらってどうする。剣は」
「持ち上げるところまでなら」
二人目は、笑いもしなかった。
「あんた、銅貨を噛んだ子か。悪いことは言わない、実家に手紙を書いときな」
三人目には親切にされた。七人目で座りこみ、十五人目からは名乗る前に首を振られるようになった。銅貨四枚で首を預かってくれる人は、どこにもいなかった。
「ね、そこ、あいてる?」
昼過ぎ、屋台の脇の木箱に座っていると、同じ年ごろの女の子が隣に腰を下ろした。肩まで伸びた髪を黄色い紐で結んでいる。やせていて、顔色がひどく悪い。
「あなたもだめだった?」
「三十二人に断られたわ」
「勝った。あたし、四十人」
女の子は弱々しく笑って、胸を押さえた。
「あたしも心臓があんまりよくなくてね。石段、四回休んじゃった。あなた、銅貨を噛んだ子でしょ? すごいよね。あたしだったらあの皇子の前で気絶してた」
「気絶するところだったのよ。銅貨を噛んだら目が覚めただけ」
「あはは、なにそれ」
女の子は屋台の角兎の串を一本買い、半分に折って私にくれた。毒見のすんでいない食べ物を口にしたのは、生まれて初めてだった。焦げた塩の味がして、おいしかった。
「今日の晩、食堂で一緒に食べようよ。札がなくても、ごはんは食べていいんだって」
「ええ、いいわ」
「よかった。じゃあ、あと十人は断られてくるね!」
女の子は手を振って、人ごみの中へ戻っていった。
夕方、私はまた何人かに断られ、ふらつく足で寮へ戻ろうとしていた。
丘のふもとに人だかりができていた。その真ん中に、ボリスが立っている。
「殿下! 見つけました、第七皇女です!」
新入生らしい男が二人、顔を真っ赤にして、麻袋を引きずってきた。袋の底が濡れていて、石畳に黒い筋を引いている。
「青白くて、痩せていて、心臓が悪いと自分で言っていました! 金貨百枚、お願いします!」
ボリスはあくびをしながら、袋の口を靴の先でめくった。細い手が一本、石畳にこぼれ落ちた。
一目見ただけだった。
「違うな」
「え」
「手のひらを見ろ。まめだらけだ。畑仕事の手だな。皇女の手じゃない。捨てておけ」
「で、でも、殿下、俺たちはもう」
「次は確かめてから持ってこい。おい、臭いぞ。どこか別の場所でやれ」
まわりの取り巻きがどっと笑った。ボリスは手の甲で鼻を押さえ、石畳の汚れを避けて歩き去っていく。
男たちが袋を残して逃げ出した。誰も近寄らない。夕暮れの風で、袋の口が小さくめくれた。
黄色い紐が見えた。
動けなかった。指先の感覚がなくなり、足の裏がどこにあるのかわからなくなった。泣こうとは思わなかった。泣き方を、私はとうの昔に忘れている。
まめだらけの手。袖の中で、自分の手を握りしめた。私の手のひらには、まめが一つもない。
その晩、私は食堂で二人分の席を取って、一人でごはんを食べた。
あの子の名前を、聞いていなかった。
七日のうち、二日が終わった。




