第1話 「死にぞこない」
八歳より前のことを、私はほとんど覚えていない。
十年前に飲んだ毒が、記憶ごと持っていった。残っている一番古いものは、誰かの泣き声だ。
日の暮れた庭の隅で、子どもが泣いている。顔は思い出せない。男の子か女の子かもわからない。それなのに、今でもときどき夢に見る。
「姫様、お薬の時間です」
目を開けると、馬車の天井が揺れていた。向かいの席で、ネリネが小瓶の栓を抜いている。六つ年上の、私のメイドだ。十年間、一日も欠かさず薬を用意し、私の食事を先に口に入れて毒見をしてくれた人である。
苦い薬を飲みほすと、ネリネはにっこり笑った。
「では、おさらいです。お名前は」
「ダフネ・ブレンナー」
「ご身分は」
「ロザーン領の、貧乏男爵の三女」
「道に銅貨が落ちていたら」
「拾って、噛む」
「よくできました。噛んで、本物か確かめるんです。貧乏人はみんなやりますからね」
「貧乏って忙しいのね」
私の本当の名前は、アマリア。アルテミア帝国の第七皇女だ。
帝国は今、内戦のさなかにある。皇帝は病に倒れ、正妃は十年前に暗殺されて子がいない。だから側妃の産んだ皇子たちが、次の帝位をめぐって殺し合っている。私の実の兄エルネストも、その一人だ。
そして帝国には掟がある。皇族の子は十八になると、帝国軍事大学に入る。例外はない。十八年のうち十年を寝台で過ごし、ひとりで階段も上がれない皇女にも、例外はない。
『皇女として入れば、お前は初日に殺される』
兄は手紙にそう書き、偽の身分を一緒に送ってきた。大学には、偽名で入学してよいという古い慣例がある。本当の名簿を見られるのは学長だけだ。私は十年間、後宮の奥から出ていない。顔を知る者はいない。
馬車が止まった。大学の手前の、最後の宿場だ。
扉を開けて待っていたのは、ベルタだった。
顔の左半分に、青黒い紋がある。皇家の紋だ。皇族に絶対の忠誠を誓った者が顔の半面に刻む印で、刻まれた者は子を持てない体になり、主の命令に逆らえなくなる。模様を見れば、どの皇族に仕えているかが一目でわかる。そして主が死ねば、紋の者も死ぬ。
ベルタの顔にあるのは、私の模様だ。だから、ここから先へは連れていけない。
「ベルタ。私が死んだら、あなたも死ぬのよ。今のうちに謝っておくわ」
「はい、殿下」
「そこは『死なないでください』と言うところでしょう」
「死なないでください、殿下」
ベルタは私の襟元を直し、それから右の脇腹に手を当てた。そこには十年前の手術のあとがある。毒で傷んだところを切り取ったのだと聞いている。寒い日には、今でも痛む。
「冷やさないでください」
「あなた、今日はよくしゃべるのね」
「はい、殿下」
宿場で荷馬車に乗りかえ、山のふもとで降ろされた。貧乏男爵の娘に輿はない。ネリネは使用人用の裏道へ回り、私は一人で校門へ続く石段を見上げた。
二百段あった。
三回休み、一度吐いた。上りきったときには、列の最後尾にいた。
「遺体の送り先は」
受付の上級生は、顔も上げずに言った。それが、大学で最初にかけられた言葉だった。
「入学の手続きではないのですか」
「入学の手続きです。お名前の次に、これを聞きます。今年の新入生は四百人。卒業まで残るのは百人ほどで、送り先がないと、こちらで埋める手間がかかりますので」
ロザーン領ブレンナー男爵家、と私は書いた。兄が金で買った名前の家に、いつか私の死体が届くらしい。
校庭に並ばされた、そのときだった。
頭の上で、大きな羽音がした。グリフォンが一頭、石畳へ舞い降りる。悲鳴を上げて列が崩れた。
《痛い。左が痛い。早く降りろ、重い》
低い、うなるような声だった。誰も振り向かない。私も振り向かなかった。
背から飛び降りた男を見て、私の指先が冷えた。
金糸で猛禽を縫いとった軍服に、大きなあご。肖像画でしか見たことのない異母兄だ。
「よく聞け、ひよこども! 俺はボリス。アルテミア帝国第三皇子で、次の皇帝だ」
ボリスは校庭に響く大声で笑った。
「今年の新入生に、俺の妹が混じっている。第七皇女アマリア。偽名で入ったらしいが、学長は名簿を見せん。そこで、お前たちに仕事をやる」
太い指が一本、立てられた。
「第七皇女の首を持ってきた者に、金貨百枚だ」
校庭がどよめいた。金貨百枚あれば、平民の一家が二十年は暮らせる。
「あの、それは、規則に反するのでは」
気の弱そうな新入生が言うと、ボリスの後ろから小柄な男が飛び出してきて、甲高い声で叫んだ。
「校則は一つ! 『学内で死んでも、誰の責任にもならない』!」
「というわけだ」
ボリスは満足そうにうなずいた。
「見分け方を教えてやろう。青白くて、痩せていて、今にも倒れそうな女だ。十年前に毒を飲んで死に損ない、それからずっと寝ていた。宮廷での呼び名は『死にぞこない』だ」
二百段を上がったばかりの私は、四百人の中で、まず間違いなく一番青白かった。
膝が折れた。石畳に手をついた私の前で、列がさっと左右に引いた。
金の飾りがついた長靴が、目の前で止まる。
「おい。名は」
「ダフネ・ブレンナーです」
「聞いたことがないな」
「ロザーン領の男爵家です。家来より鶏のほうが多い家です」
まわりで小さな笑いが起きた。ボリスは笑わなかった。私のあごを靴の先で持ち上げ、じっと顔を見てから、軍服のポケットを探った。
小さな銅貨が一枚、飛んだ。石畳の割れ目のぬかるみに、ぽちゃんと落ちる。
「拾え」
ボリスが妹の顔を見たのは、十年前に一度きりだ。だから試している。皇女なら、死んでも泥の中の銅貨は拾わない。兄弟の誰もがそう思っている。私だって、今朝まではそう思っていた。
私は這っていって、泥に指を突っこみ、銅貨をつまみ出した。
そして、噛んだ。
泥の味がした。
「ありがとうございます、殿下。本物でした」
しんとした校庭で、最初に吹き出したのはボリスだった。
「噛んだぞ! おい、見たか、噛みやがった!」
腹を抱えて笑うボリスにつられて、取り巻きが、それから校庭じゅうが笑い出す。
「取っておけ。お前の葬式代だ」
ボリスは銅貨を握った私の手を踏んだ。体重をかけ、靴底をゆっくりひねる。指の骨がきしんだ。
「皇女でなくてよかったな、死にぞこない」
ボリスがグリフォンの背に上がった。
《左だ。左の金具が痛いと、何度言えばわかる》
ボリスは返事もせずに手綱を引いた。グリフォンが飛び去っても、笑い声はやまなかった。立とうとしたが、足が動かない。
ふと、笑い声が途切れた。
校庭の奥から、人の列が割れていく。上級生までが、目をそらして道を空ける。
赤い髪の男が歩いてきた。
背が高い。肩も腕も、軍服の中に収まりきらないほど厚い。まくり上げた右腕に、黒い紋があった。
奴隷紋だ。帝国に逆らった者や、奪った土地の民の両腕に刻まれる。片腕の紋は、親が奴隷の者と、落伍者や異端者に刻まれる。
後宮の下働きにも、紋のある者は何人かいた。みな背を丸めて目を伏せ、叱られる前からおどおどしていた。紋のある人間とはそういうものだと、私は思っていた。
この男は違った。
誰の顔色もうかがわず、檻から出た獰猛な獣のように歩いてくる。近づけば噛み殺される。寝台育ちの私の体でさえ、それがわかった。
それなのに、顔は驚くほど整っていた。太い眉に、高い鼻。荒々しい顔だちの中で、目だけがほんの少したれている。そこにだけ、思いがけない甘さがあった。それでいて、顔には何の表情も浮かんでいない。左の頬からあごへ走る古い傷さえ、その顔によく似合っている。腕の紋とは、まるで釣り合わない。
こんな奴隷紋の持ち主を、私は初めて見た。
「ラズだ」
「人殺しのラズだ」
「闘技場あがりの、あの」
ささやき声の中を、ラズはまっすぐ歩いてくる。目をそらすべきだとわかっているのに、そらせなかった。
見すぎた。
琥珀色の目が、私の目とぶつかった。
ラズが、私の前で足を止めた。道の真ん中に、私が座りこんでいたからだ。泥だらけの私を、上から見下ろしている。
手を貸してくれるのかと、一瞬だけ思った。
「死ぬなら、端で死ね」
低い声だった。
「通れない」
ラズは私をまたいで、行ってしまった。




