第68話 「調印」
川の水が、雪解けで増えていた。
中洲に白い旗が二本立って、その真ん中に粗末な木の机が一つ置かれていた。
両岸が、人で埋まっていた。上流の岩に、ナフルとボルグが並んで日に当たっている。
「三十年前の国境線まで、占領地をお返しします」
カーヤが、机の前で文書を読み上げた。少し声が上ずっている。
「帝国は占領地の民に償いをします。ザハリアは帝国の捕虜を全員返します。リュミエールの借金はどちらも払いません。両国の民は、国境を手形なしで行き来できます。以上」
「異議は」
腰の曲がった侍従が、南の側から聞いた。
「ない」
低い声が答えた。
机の向こうに、赤い髪の男が立っていた。
砂色の上着は新しいものだったが、留め金が一つずれている。冠は持ってこなかったらしい。左の頬の傷に、春の光が当たっていた。少し太ったようだ。あれから三月、顔を見ていない。
そして、両手に白い手袋をしていた。
指の付け根のところで布が突っ張った、薄汚れた小さな手袋である。縫い目が二か所、不器用な糸で留めてあった。
「こちらも、異議はございません」
私は言った。
五歩の距離だった。
書記が筆を持ってきた。ラズは手袋のまま筆を握り、汚い字で、イスマエルと書いた。字の大きさが、途中で変わった。私は隣にアマリアと書いた。両腕の紋が、机の上で日に当たった。
カーヤが砂を振って、二枚の紙を持ち上げた。
「調印しました!」
書記の声が、岸へ叫んだ。
十二年の戦が、それで終わった。
最前列で、小さな老人が白いひげをしごいていた。
「十二年の戦が、紙一枚か。安いものだ」
はじめ、声は上がらなかった。
南岸で、老婆が一人、川へ歩いてきた。北岸でも、片腕の男が水際まで出ていった。川幅を挟んで、二人は何か言い合っていた。よく聞こえない。
「あんた! うちの村の、あのときの!」
「婆さん! 生きてたのか!」
そこから、音が広がった。誰かが川へ入って、腕を伸ばしている。歓声はずいぶんあとから来て、それから止まらなくなった。
《おい! あいつ、尻を向けてるぞ! 今なら噛めるぞ!》
「やめなさい」
ポケットのピピンを親指で押さえて、机の向こうを見た。
ラズは岸を見ていなかった。
カミラが、砂の上を歩いてきた。袖を肘までまくって、長い棒を持っている。
「ご機嫌よう、陛下がた。忙しいので、手短に」
棒の先に、薄い布が巻いてある。カミラはそれをラズの首筋に当て、耳の下をこすり、手首の内側に当てた。ラズは黙って左腕を差し出した。手袋の縁をめくって、皮膚をこすって、布を日にかざした。
白いままだった。
「通ったわ。冬の間に十二回測って、十二回とも白い」
「知っている」
「あなたに言っているんじゃないの。陛下」
カミラは私を見た。
「心臓は戻らないと言ったのは、私よ。取り消すわ。私は嘘はつかないけれど、間違えることはあるの」
「はい」
「では、ごゆっくり」
棒を担いで、カミラは歩いていった。カーヤが文書を抱えて、舌打ちをして、その後を追った。書記もファルークも、いつの間にか机から離れている。
中洲の真ん中に、二人だけになった。
二十歩くらい、離れていた。
いつ、そんなに下がったのか。ラズが後ろへ下がっていたのだ。手袋の手を下げて、砂の上に立っている。
私は杖を持ち直した。
「そこからでは、聞こえません」
「お前が来い」
「どうしてですか」
「校庭で、お前は二十歩歩いてきた」
「はい。ひどく疲れました」
「俺は柱に縛られていた。お前が来るのを、見ているだけだった。もう一度、見たい」
「性格が悪くなりましたね」
「お前に習った」
息を吐いて、吸った。
歩いた。
杖が砂に沈む。足の奥の空いた場所が、ゆっくり痛みはじめる。五歩。十歩。あの日は膝が笑って、泥が長靴に入った。あの日、この人の唇は、帰れ、と動いた。
十五歩。琥珀色の目が、私の足を見ていた。
二十歩。
手を伸ばせば届くところで、止まった。
風が川の匂いを運んできた。両岸の声が、遠くに聞こえた。
「何か言いますか」
私は聞いた。
ラズの喉が、一度動いた。
「言う」
「はい」
「長いぞ」
「どうぞ。座りましょうか」
「座るな。座ったら言えなくなる」
低い声は、少し震えていた。この人の声が震えるのを聞くのは、二度目である。
「俺は、十一のときに泣いていて、礼を言わなかった」
「はい」
「お前を、またいだ。奴隷紋に関わるなと言って、札を断った。任務でお前の髪をなでた。柱に縛られて、芝居で苦しんで、お前の命を半分もらって、止めなかった」
「はい」
「黙って札を置いて出ていった。ティモが死んだ。村を焼いた。お前の喉に刃を向けた。全部、俺がやった。謝らん。謝っても何も戻らん」
「はい。詫びるのは、なしにしましょう」
「だから、取り消す」
「何をですか」
ラズの右手が、自分の左の手首をつかんだ。
白い手袋の指に、指をかけた。小さな手袋は、なかなか抜けなかった。一本ずつ引いて、最後は歯でくわえた。縫い目が鳴って、ずるりと外れた。
右の手も、同じようにした。
大きな手が出てきた。半年ぶりに見た。ラズは手袋を上着の胸に入れた。
「死ぬなら、端で死ね。あれを取り消す」
大きな手が、持ち上がった。
指一本ぶんの隙間で、一度止まった。
それから、それを越えた。
「死ぬなら、俺の隣で死ね」
熱かった。
私の左手を、大きな手が包んでいた。あの塔の夜と、同じ熱さだった。指の間に指が入ってくる。手のひらのまめが、私の、ふつうの娘の数のまめに当たった。
心臓は、止まらなかった。
ちゃんと次の一回が来た。少し早すぎるくらいだった。
「冷たいな」
「いつもです」
「これでは夏までにもげる」
「もげたら、拾ってください」
「拾う」
手が、強くなった。痛いくらいだった。
「通れませんよ。隣にいると、道をふさぎます」
「通らなくていい。どこにも行かん」
「ザハリアの王様でしょう」
「お前も女帝だろう。この中洲に家を建てる。半分は砂、半分は泥だ。鍋は俺が持ってくる」
「それは、求婚ですか」
「知らん。ファルークに聞け」
笑おうとした。うまく息ができなかった。
右手が、杖を離していた。
砂に杖が倒れる音がした。あの城壁で宙に止まった手が、上がっていく。
今日は、止まらなかった。
指先が、左の頬に触れた。
傷の縁は、まだ紫がかっている。十二年前に小さな手が布を押しつけた場所だ。ラズは頬を、私の手のほうへ、わずかに傾けた。
「痛いの」
「いや」
琥珀色の目が、すぐそこにあった。その目の縁が赤かった。
「もう、痛くない」
額が下りてきた。頬の傷が私の手のひらの中で動いた。口づけは、川と、塩の味がした。
両岸が、爆発した。
誰かが「死にかけ自慢は!」と叫んだ。カーヤが「馬鹿じゃないの!」と叫び、それが泣き声になっていた。
《おい! 今だ! 噛むぞ!》
「やめ」
「ぎゃっ」
ラズが初めて聞く声を出して、私の口のそばで飛び上がった。
《噛んだ! 一年半待ったぞ! まっず!》
「このっ」
ラズの手が、私の手を離さないまま、反対の手で尻のあたりを探っている。
私は声を上げて笑った。笑いすぎて、肋骨が痛かった。
その夜、中洲の焚き火のそばで、カミラが瓶の手入れをしながら、私にだけ聞こえる声で言った。
「あの男には、言ったの」
「はい」
「十二年よ。薬を使っても、十三年」
「はい。十二年、長いと思いますか」
「私は医者よ。長いとも短いとも言わないわ」
かまどの前で、ラズが鍋に塩を足している。隣の石に、椀が三つ並んでいた。その隣に、持ってきた塩の袋を置いた私の椀がある。
長いと、私は思った。
銅貨四枚で入学した娘には、ずいぶんな大金である。




