第67話 「女帝」
「袖は、いかがいたしましょう」
仕立て屋の老人は、針を持ったまま震えていた。
帝都の宮殿に、人がいない。皇帝の紋の文官は、昼の鐘の七つ目で全員死んだ。リュミエールの兵が出ていくとき、金庫も書庫も持っていった。残ったのは、がらんとした広間と、やけに立派な仕立て屋だけである。
即位の礼装は、白い絹に金糸が入っていた。肘の下まで、長い袖がついている。
「切ってください」
「殿下。歴代の皇帝陛下の、お召しものでございます」
「はい。肩から切ってください」
「ですが、その、お腕のものは、これからは袖で隠されるのがよろしいかと、諸侯の方々も」
「辺境伯は何とおっしゃいましたか」
「『隠したら、わしが切る』と」
「では、そうしてください」
老人は泣きそうな顔で、金糸に鋏を入れた。
カーヤが長椅子に足を乗せて、帳面をめくっていた。袖を肘までまくった左腕に、三重の輪が見えている。
「諸侯のうち、十一家が来ないって。奴隷がいなくなったら誰が鉱山を掘るんだって手紙が来てる。第四皇女はそっちへ逃げたって。第五皇女からは降伏の手紙。絹猫の爪あとつき」
「給金を出せば、誰でも掘ります」
「ピエトロみたいに?」
「あれは見本です」
「あんたねえ」
カーヤは帳面を閉じた。今日からこの人は宰相である。誰もなりたがらなかったし、字が読めて計算ができて、私に怒鳴れる人が他にいなかった。役所の机についているのは、鉱山で帳場の手伝いをしていた者たちと、大学の新入生と、片腕の紋を持つ者たちだ。
「字の間違いがひどいわよ。『麦』が全部『妻』になってる。今年の妻の値段が決まらないって、さっき苦情が来た」
「それは大変ですね」
「笑ってんじゃないわよ」
その日の正午、私は広間の階段を上がった。
四十二段あった。
杖をついて、一度も休まなかった。百二十歩の内である。左右に貴族の列があり、広間の外の広場まで人が埋めていた。みんな、両腕を見ていた。
玉座の前に、小さな老人が立っていた。冠を両手に持っている。背が足りないので、踏み台を使っていた。
「降りてこい、とは言わんぞ。首が疲れるが」
「はい」
「かがめ」
私はかがんだ。髪の上に、重いものが載った。ずいぶん重かった。
「鍋より重いですね」
「何の話だ」
向き直った。
吐いて、吸った。
書いてきた紙は、持たなかった。短いので覚えられる。
「法を三つ、定めます」
声が広間を渡っていった。広場の者には、書記たちが順に叫んで伝えていく。
「一つ。今日から、この国で奴隷紋を刻むことを禁じます。すでにある紋は、奴隷の印ではなくなります。両腕の者も、片腕の者も、罰で刻まれた者も、今日から同じ民です」
広間の外で、低い音が広がりはじめた。
「二つ。皇家の紋を刻むことを禁じます。主が死んで死ぬ者を、今後一人も作りません」
貴族の列で、誰かが咳をした。
「三つ。医療局の札を、全部焼きます。帳簿は焼きません。番号の横に、名前を書きます。わかる限り全部です。それが終わるまで、何年かかっても、私の役所の仕事はそれです」
「お待ちください、陛下」
太った伯爵が、一歩前へ出た。
「紋をなくされるのはけっこう。しかし医療局がなくなれば、高貴な方の病はどうなるのです。陛下ご自身の、その、お体の中のものも、医療局のおかげで」
広間が静まった。
杖を握り直して、私はその人の顔を見た。ヴェルダー伯爵だった。札に家の名前があった。
「はい。おかげで、私はこうしております」
「でございましょう」
「カミラ先生」
「はい、陛下」
四十ほどの女が、袖を肘までまくって、壁際から歩いてきた。
「医療局の長に任じます。本人が生きているうちに、自分の言葉で承知した者からだけ、死んだあとにいただきなさい。買うことも、売ることも、札を書くことも死罪です。腕を縫いたければ、そのやり方を考えてください」
「給金は」
「ありません」
「よい職場ね」
カミラは片方の眉を上げた。
「返済は、いま受け取ったわ。伯爵、肝のお悪そうなお顔ね。順番は最後になるけれど、ご相談はいつでも」
伯爵の顔から、血の気が引いた。
低い音が、広場から押し寄せてきた。歓声ではなかった。何万人もの人が、一度に息を吐いた音だった。
誰かが、腕を上げた。
広場のどこかで、老人が一人、痩せた腕を真上に突き上げていた。その隣で、また誰かが上げた。三重の輪と鎖が、冬の日の下で、あちらこちらに上がっていく。何も叫ばなかった。ただ上げていた。
私も、上げた。
重い冠が、少し傾いた。
《おい、落ちるぞ!》
「ええ。あとで直すわ」
式のあとで、控えの間に小さな騒ぎがあった。
「ちょっと! なんであたしが呼ばれるの! あたし何もしてないよ!」
丸い顔の娘が、衛兵に背中を押されて入ってきた。農家の前掛けをつけたままだ。その後ろの廊下に、土を踏み抜いた跡がある。カブが宮殿の床を掘って、ついてきたらしい。
「グレタさん。お待ちしていました」
「あ、皇女様。じゃなくて、陛下?」
「どちらでも。カーヤさん、あの箱を」
カーヤが舌打ちをして、机の上に、重そうな木箱を置いた。蓋を開けると、宮殿にわずかに残っていた金貨が、薄暗い部屋で光っていた。
「金貨百枚です」
「はあ!?」
「私が入学した年、第七皇女の首に、金貨百枚の懸賞がかかりました。首を持ってきた者に支払うと、皇子が全校の前で宣言しました。首は私がまだ使っておりますので、見つけた方にお支払いします」
「え、だって、誰が見つけたの」
「あなたのお姉さんです」
グレタの口が、開いたまま止まった。
「入学の三日目の朝でした。お姉さんは、青白い新入生を見つけました。寝ている顔に紅を塗って、言いました。別人でいなきゃ、と。金貨百枚あったらどうするか、指を折って話してくれました」
前掛けの端を握る手が、白くなっていた。
「見つけたら、黙っていてあげるから金貨を一枚ちょうだいと、私に話を持ちかけるつもりだったそうです。ですから、これは私の借りです」
「屋根」
小さな声だった。
「はい。屋根を直すそうです」
「あたしを、学校へ」
「はい」
「毎日、角兎の串を」
「二本ずつです。約束してありました」
グレタの丸い顔が、くしゃくしゃになった。声を上げて泣き出した。泣きながら、箱をつかんで、そのまま廊下へ向かおうとした。
「持てないわよ、それ。貸しなさい」
カーヤが後ろから箱の縁を持った。
廊下で、丸い鼻が床から出た。
《おい。あの土のやつ、耳の後ろの匂いだって騒いでるぞ》
私の耳には、ピピンのほかはもう何も聞こえない。ピピンの通訳では、畑がどうとか、耕すのがどうとか、やたら喜んでいるそうだ。
奨学金を一つ作った。平民の棟から、貧しい新入生を選んで、札がなくても卒業まで生きられるように、護衛を国が払う。名前は、ユーニにした。黄色い紐をつけていた子である。札市で串を分け合った。それしか知らない。
夜になって、ようやく冠を下ろした。
首が、ひどく痛かった。窓の外で、帝都の灯りがぽつぽつと増えている。
机の上に、南からの封書があった。砂色の封筒で、飾りが一つもない。カーヤが「王様の字が汚すぎて、書記が泣いてる」と言って置いていったものだ。
開けた。
紙に、一行だけ書いてあった。
『春、中洲で。カミラの棒は通った。塩はお前が持ってこい』
喉に、何か固いものがつかえた気がした。
もう一度読んだ。それから、胸のポケットの手巾に挟んだ。
《おい、なんて書いてある》
「何も」
《嘘つけ。お前、耳まで赤いぞ》
「紅よ」
《そんなところに塗るやつがあるか》




