第69話 「白い場所」
カミラは十二年と言った。
私は十四年、生きた。
「また計算を間違えたわ」
カミラは年を取って、棒の代わりに杖をつくようになった。私の脈を取りながら、悔しそうに言った。
「薬のおかげです」
「薬は効かないと言ったでしょう。あなたの肝がしぶといのよ。もう何度も、そう言っているわ」
「はい。あの子は元気です」
中洲の家は、半分が砂で、半分が泥である。女帝の仕事は、カーヤが毎朝山ほど持ってきて、ザハリア王の仕事は、ファルークの孫が持ってきた。
帳簿の名前は、十一年かかって、最後の一人まで書き終わった。腕に輪のある老人に、川辺の子どもたちが「なんで絵を描いてるの」と聞くようになった。カーヤはそれを聞いて腹を立て、その晩、一人で酒を飲んで、少し笑っていた。
子どもはできなかった。次の皇帝は、選挙で決める。貴族たちは三年騒いで、疲れてやめた。グレタの村の屋根は瓦になり、カブは畑を十倍にした。
ネリネの十年は、四年前に終わった。
三千六百五十二本目を飲みほした朝、ネリネは老婆のような顔で、右の脇腹に手を置いて、言った。
「今日も、動いておいでです」
「刑は終わったわ。もう来なくていいのよ」
「はい。明日も参ります」
それから四年、毎朝来ている。薬は持たず、盆も持たず、手だけ置いて帰っていく。私たちは、それ以上の話をしたことがない。
その朝も来た。
手のひらが、いつまでも脇腹から離れなかった。
「ネリネ」
「はい、姫様」
「どうかしら」
しばらく、返事がなかった。
「シオンは、よく、がんばりました」
声はいつもと同じように優しかった。
「それは、ようございました」
ネリネは深く頭を下げて、戸口を出ていった。足音は、川の下流へ静かに遠ざかった。二度と戻ってこなかった。
昼から、目を開けているのが難しくなった。
窓の外で、誰かがしきりに翼を打っている。夜の色をした大きな翼だ。
《おい》
胸の上に、重さが来た。いつもと同じくらいの重さだ。
《おい、人間。串、食うか》
「食べられないわ」
《じゃあおれ様が食う。お前の分も食う。全部食う》
「ええ」
《おい。寝るな。おい》
親指が、ちくりと痛んだ。
小さな歯が、そこを噛んでいた。ずいぶん長いこと、噛んでいた。
日が傾くころ、大きな手が、毛玉を持ち上げてどけた。
「起きているか」
「はい」
寝台の横に、椅子を引く音がした。
赤い髪は、半分白くなった。顔の傷は同じ場所にある。腕に抱えているのは、ひどく古びた一冊の本だった。
海賊の話である。あと三十枚のところで、私は読むのをやめた。読み終わったら死ぬような気がすると話したら、この人は「俺が読む。一年に二枚だ」と言った。毎年、調印の日に、二枚読んでくれた。
十四年で、二十八枚である。
「二枚、残っていますね」
「残っている」
「結末は」
「まだ読まん。来年だ」
「来年ですか」
「そうだ。だから来年まで生きろ」
「あなたらしくない、無理を言いますね」
「知っている」
大きな手が、私の手を取った。
熱かった。十四年、一日も変わらなかった。私の手はいつも冷たくて、この人はいつも文句を言った。もげなかった。
手巾を二枚、私は胸に入れてある。一枚はもう、布の形をしていない。婚礼の夜に、この人が革の袋ごとよこしたものだ。
息が、胸の底まで入らなくなっていた。吐いて、吸うのに、ひどく時間がかかる。それを教えてくれた人の顔を、見ていた。
「ラズ」
「ああ」
「痛いの」
「それは俺が聞くほうだ」
低い声が、少しかすれた。
「痛いのか」
「いいえ。少しも」
「そうか」
窓の外が、赤くなっていた。川面が光っている。右から左へ流れていく光を見ていると、どちらが上か、よくわからなくなった。空はどちらを向いても合っていると、言った人がいた。
「何か言いますか」
私は聞いた。声になっていたかどうかはわからない。
ラズの親指が、私の手の甲を一度なでた。
それから、あごの筋が動いて、低い声が、絞り出された。
「探す」
「はい」
「お前がどこへ行こうと、探す」
琥珀色の目が、私を見ていた。
「何度でも。見つけてみせる。どこへ行こうと、お前の匂いは、忘れない」
何の匂いだろう、と思った。薬の匂いも、紅の匂いも、もうしない。
おかしな言い方をする人だ。
そう言おうとした。
頬が、濡れていた。
知らないものが、目の縁からあふれて、耳のほうへ流れていった。胸の奥の、どこか知らない場所が、懐かしい痛み方をしていた。
前にも、誰かに、同じことを言われた気がした。
「お前」
ラズの声が、止まった。
「泣くのか」
「はい」
「お前が泣くのを、見たことがない」
「私も、です」
笑おうとした。うまくいかなかった。
「約束、ですよ」
誰の言葉か、わからなかった。私の口が、勝手に言っていた。
「約束だ」
手が、強くなった。
痛いくらいだった。
それが、最後だった。
◇
足が、痛くない。
白い。どこまでも白い。音のない場所に、私は立っていた。杖がない。脇腹も痛まない。腕を見ると、三重の輪が薄く残っていて、それから、ふっと消えた。
「おつかれさまーっ!」
背中に、弾むような声がぶつかった。
振り向くと、知らない女が立っていた。
夢で二度、額をつつかれた人だ。口が、勝手に呼び方を知っていた。
「女神さま」
「はい、おかえりー! いやー、今回は本当にごめんね! ハードモードって言ったけど、あれ、ちょっとやりすぎたかなって。肝のへんとか」
「ちょっとですか」
「てへ」
舌を出した女神を、私はしばらく見ていた。
それから、また目の奥が熱くなった。
「また泣くの? いいわよ。今回の人生で泣いたのは、今日だけだもんね」
「あの」
声が震えた。
「あの子は」
女神の顔が、少しだけ変わった。ふざけた形のまま、目だけが静かになった。
「うん」
「庭の隅で泣いていた子は」
「うん。そうだよ。ひとりぼっちで泣いてた。誰も手を差しのべてくれなかった子。八つのあなたが、布を当てに行った」
女神は私の前まで来て、手を取った。
「あの子を救ってくれて、ありがとう」
もう、立っていられなかった。
私は白い床に座りこんで、声を上げて泣いた。三十三年分を泣いた。女神は隣に座って、背中をさすってくれた。
やがて、女神がぽつりと言った。
「ねえ、ひとつ教えてあげる。あの人ね、前の世の狼の王さまと、その前の氷の大公さまと、魂が同じ人なの」
白い光の中に、知らない景色がふわりと浮かんだ。
雪の庭。銀色の満月。誰かの低い声が、何度でも、と言っている。
思い出したわけではなかった。ただ、あの手の熱さを、私は知っていた。
「はい」
「あれ、驚かないの?」
「思い出せません。でも、匂いの話をされたときに、なぜか泣けましたので」
「ひどーい! ここで言うのが楽しみだったのに!」
「あの人、覚えてないのに、同じこと言ったでしょ? 私、あれ、ちょっと泣いちゃった」
「女神さまも、泣くのですか」
「たまにね」
涙をぬぐって、私は聞いた。
「シオンさんは」
「ああ」
女神は、白い場所の遠くを指さした。
「走ってるよ。とっくに。肝はあなたに貸しといてあげるって、ずっと言ってた。ほら、お姉ちゃんも、ついさっき来たから。怒られてる」
何も見えなかった。ただ、そちらのほうから、草の匂いがした。
私は立ち上がった。足は、どこまでも走れそうだった。走らないでおいた。
「さて、次の世はね」
「はい」
「それは、お楽しみ。あ、そうだ。海賊の話の結末、知りたい? 私、読んだよ。教えようか」
「結構です」
「いいの?」
「あと二枚あります。来年、読んでもらう約束ですので」
女神は目を丸くして、それから、にいっと笑った。
「そっか。じゃあ、あの人の夢に出て言っておくね。来年、ちゃんと読みなさいって」
「はい」
「行ってらっしゃい、アマリア」
背中を押す力は、ずいぶんやさしかった。
振り返らなかった。
白い光が、足もとから広がっていく。私は息を吸った。胸の底まで、まっすぐ入った。
光の向こうで、かすかに、粥の焦げる匂いがした。




