第66話 「ごめんね」
「ヴィヴィアン王女。罪状は以上です。何かありますか」
カーヤが帳面を閉じた。
国境の川の北岸に壇を組んで、四日になる。帝国と、ザハリアと、リュミエールの使者が席に並び、その後ろの斜面を人が埋めていた。何万人いるのか、もう数えていない。
毒、臓器、三十万の魔獣、兄、援軍の矢。正妃とザハリアの十人の子どもの分は、リュミエール王の罪状に回した。証人は百人を超えた。セルジュが帳簿を読み上げ、リュミエール王が王冠のない頭を下げて、娘の名前で署名した書類を差し出した。読み終えたセルジュは、自分の命の値段を聞いた。話の値打ちの分だけです、と答えて、鉱山の帳場に席を用意した。給金の計算はピエトロと同じである。
壇の真ん中で、ヴィヴィアンは椅子に座っていた。
髪は蜂蜜色に戻っている。縄の跡のある手を膝に置いて、足をぶらぶらさせていた。
「ねえ、聞いて」
甘くて軽い声が、斜面の上まで届いた。
「わたし、全部やったよ。でもね、一番楽しかったのは、この人とお菓子を食べてたときなの。それは本当。ね、殿下」
「はい。存じております」
「殺すの? わたし、痛いのはちょっと嫌だな」
地鳴りのような声が、斜面から上がった。
「殺せ!」
「石で殺せ!」
「俺の息子の腕を返せ!」
私は杖をついて、壇の前へ出た。声が、少しずつ引いていった。
リシャールの手紙を、私は読み上げなかった。代わりに一枚だけ、ヴィヴィアンの膝に置いた。鬼ごっこの段が書いてある一枚である。
彼女はそれを読んだ。
二度、読んだ。
「お兄様、字が揺れてる」
「はい。背中で菓子を催促されていたそうです」
「ふうん」
紙を、指で裏返した。その指が少しだけ止まって、また足がぶらぶら動き出した。
「鬼ごっこ、弱かったなあ。ねえ、殿下。わたしのこと、怒ってる?」
上着のポケットから、銀の小箱を取り出した。地下の溝の縁で拾ったものである。泥は洗ってあった。
蓋を開けた。金色の星が、まだ残っている。
「二つ、どうぞ」
ヴィヴィアンの手のひらに、星を二つ置いた。彼女は目を丸くして、それから、ぱっと笑った。
「わあ。優しい」
私は手を伸ばした。
白い手のひらから、星を一つ、つまみ上げた。
そして、口に入れた。甘かった。舌の上で溶けて、花の匂いが鼻へ抜ける。
片目をつぶるのは、うまくできなかった。
「ごめんね」
私は言った。
「やっぱりそっちのほうが、おいしそうだったの」
ヴィヴィアンは口を開けて、私を見ていた。
それから、声を立てて笑った。心の底から楽しそうな声だった。
「すごい! ねえ、やっぱりあなた、最高!」
「ヴィヴィアン」
「なあに」
笑っている顔を、私はしばらく見ていた。初めて会った朝と、少しも変わらない顔である。
銅貨を噛んだ娘に、友達だと言ってくれた人だ。十八年で初めて、菓子を分けてくれた人だ。
「ごめんね」
同じ言葉を、もう一度言った。
「あなたのことは、本当に好きだったのよ」
川の音がした。
「好きだった?」
「はい」
「じゃあ、今は」
「今は、もう」
息は十分にあった。
「退屈です」
ヴィヴィアンの足が、止まった。
私は振り向いて、使者たちの席に向かって言った。
「判決を申し上げます。ヴィヴィアン王女を、殺しません」
斜面が揺れた。怒号が上がった。カーヤが眉をひそめて、私を見た。
「リュミエールの北の塔に、部屋を一つ用意します。寝台も、本も、絹もございます。蜜星は、毎日、食べきれないほどお届けします。一生、何不自由なく暮らしていただきます」
「ふざけるな!」
「ただし」
声は、大きくなくてもよかった。
「部屋には、誰も入りません。世話をする者は、口をきかない者を選びます。窓は空だけが見えるようにいたします。誰も王女に話しかけません。誰も王女の話を聞きません。王女がどれほどおいしそうに星を食べても、取っていく者はおりません。一生です」
少しずつ、斜面の音が消えていった。
最前列で、石を握っていた老人が、その石を足もとに置いた。
「え」
小さな声がした。
ヴィヴィアンが、私を見ていた。笑った形の唇のまま、首をかしげている。
「ねえ、それって、誰もいないの?」
「はい」
「誰も、わたしのこと、見ないの?」
「はい。お世辞も言いません」
「ねえ、聞いて」
「いいえ」
カーヤの口の端が、ゆっくり持ち上がった。
「性格悪いわね」
「はい」
兵が両側から、細い腕を取った。ヴィヴィアンは立ち上がって、引かれていきながら、まだ笑おうとしていた。
「ねえ、殺してよ。ねえ、そんなの、つまらないじゃない。ね? ダフネ。ねえ、聞いて。殿下? ねえ、誰か」
誰も答えなかった。
何万人もの人間が、黙って彼女を見ていた。
「ねえ! 聞いて! ねえってば!」
甘い声が裏返って、遠ざかっていった。蜂蜜色の髪を、私は最後まで見なかった。
肩の上で、ピピンが星をかじっていた。
《まずくなったな、これ》
「同じものよ」
斜面を見た。
最前列に、痩せた女が膝をついていた。髪をきれいに結い、ひび割れた手に盆を持っている。縄はかけられていない。逃げないからだ。
あの朝も、逃げなかった。天幕に入ってきて、私の右の脇腹に手を置いて、今日も動いておいでですね、と言った。それから見張りの兵に、自分から両手を差し出した。眠り薬は、もう覚めるころです、と。
「次の方」
「ネリネ」
カーヤの読み上げは短かった。
「和議の夜から十年、皇女に毒を飲ませた。エルネスト皇子の居場所を売って、薬に毒を入れた。地下で、皇女の胸を叩けと命じた。以上」
最後のところで、斜面が少しざわめいた。カーヤの顔は、とげのある無表情だった。
私はネリネの前まで歩いた。十二歩だった。
「十年分、覚えておくと申しました」
「はい、姫様」
「白い部屋の棚に、薄めた瓶が三千六百五十二本、残っていました。女王が泣きやんでも、瓶の中は毒のままです。カミラ先生に確かめていただきました」
「左様でございますか」
「毎朝、一本ずつです。一日も欠かさず。十年」
ネリネの顔は、少しも変わらなかった。
「お届けは、どなたが」
「私が」
そこで、ようやく細い眉が動いた。
「刑の間、あなたは私の暮らす場所に住みます。朝、瓶を飲んだら、この脇腹に手を置いて、確かめなさい。今日も動いているか。腫れていないか。今までと同じです」
息を吸った。胸の底まで入った。
「私の命は、半分になりました。カミラ先生の見立てでは、あと十二年か、十三年です。あなたの十年が終わったあと、まだ少し残ります。その最後の朝まで、確かめていただきます」
「姫様」
「シオンさんがもう一度死ぬのを、あなたは一番近くで見るのです」
川風が、ほつれてもいない髪を揺らした。
盆の上に、私は手を伸ばした。ネリネが持ってきた小瓶を取って、栓を抜いた。あの朝の匂いがした。
両手で、差し出した。
「ネリネ」
十年分の、優しい声は出なかった。自分の声で言った。
「お薬の時間です」
ひび割れた手が、瓶を受け取った。
飲みほした。咳もしなかった。一度だけ、口の端を指で押さえて、私を見上げた。
「苦うございますね」
「はい。十年ですから」
「姫様。一つ、お聞きしてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「あの朝から、お体がお元気になられたと聞きました。野原は、お走りになれましたか」
杖を握る手に、力が入った。
「いいえ」
「左様でございますか」
ネリネは深く頭を下げた。下げたまま、ほほえんだのが、声でわかった。
「それは、ようございました」




