第65話 「露見」
《次はそうする、と言っただろう》
「何の話か、私にはもう聞こえないのよ」
《おれ様が通訳してやってるんだ。この年寄りは、痩せたから尻の肉がないと文句を言っているぞ》
国境の川の北岸で、私は荷車に座って、痩せこけた鱗馬の鼻をなでていた。
割れた額に、新しい皮が張りはじめている。片方の目は白いままだ。もう片方の目は、血の色ではなくなっていた。柵の間から顔を出していたときと同じ、人を馬鹿にしたような目である。
《噛んだ数を自慢しているぞ。銀の尻を四十七だそうだ》
「ありがとう、と伝えて」
《伝えない。お前、聞こえないと急に素直だな》
ピピンは手のひらの大きさに戻っていた。本人は串のためだと言っている。母親の竜の女王は北の山へ帰るとき、《そいつ、もう少し貸してあげる》と残していったそうだ。全部ピピンの通訳なので、信用はしていない。
戦は、あの朝に終わった。
川の岸で、辺境伯は二日と半日もちこたえた。三日目の明け方、三十万の魔物が一斉に足を止めて、それから向きを変えた。蹴りたい相手がいたらしい。十万の銀の軍は半日でほどけて、南へ逃げた。戻る先のリュミエールの王都には、白い竜が腰を下ろしていた。
魔物の半分は、その日のうちに死んだ。残りの半分は痩せた魔獣に戻って、山へ帰っていった。リュミエール王は三日後に王冠を持って降伏してきた。
「残るは一人だな」
辺境伯が包帯だらけの腕で、地図の上の小石をどけた。矢をまた五本受けたそうだ。
「金貨千枚出せば、半月で首が届くぞ」
「金貨は出しません」
「なぜだ」
「金貨を出すと、小柄な新入生が死にますので」
老人の白い眉が動いて、それきり何も言わなかった。
川の北岸には、紋のある者たちが歩いて集まり続けていた。鍋の数は四十を超えた。ラズは毎朝、カミラの棒を腕に当てられながら、鍋を味見して回っている。
「根は手首まで下がったわ。ただし肌からはまだ少し出ている。あの女帝候補の体は一度止まったばかりよ。触るのは、まだ先」
「いつだ」
「知らないわ。冬を越すまでは待ちなさい」
ラズは舌打ちして、匙を持ち上げた。五歩の距離は、まだそのままである。
椀が一つ、五歩の手前の石の上に置かれた。ラズが置いて、下がったのである。
「肉が多い」
「死にかけ自慢は、していませんが」
「お前は毎日、死にかけている」
「いただきます」
十日たった。
その朝、私は鍋の列の端にいた。杖をついて、百二十歩の散歩である。カーヤが「あんたは目立つんだから、一人で歩くな」と怒るので、近くでトビアスが桶を運んでいた。
列に並ぶ人の中に、小柄な娘がいた。
黒く染めた髪を短く切って、頬に煤をつけている。ぼろぼろの袖から、片腕の紋が見えていた。
娘は欠けた椀を持って、順番を待っていた。隣の老婆と話している。
「大変だったねえ、あんた。名前は」
「ダフネです」
小さな声が聞こえた。
「ダフネ・ブレンナー。ロザーン領の、貧乏な男爵の家の者なんです」
杖が止まった。
指先は冷えなかった。
トビアスが桶を置いて、私を見た。
「皇女様? どうしたの」
「トビアスさん。串を二本、買ってきてください。銅貨は、カーヤさんのツケで」
「どうして?」
「お願いします。それと、カミラ先生に、例の瓶を、と」
少年が走っていった。
私は娘の座っている丸太のところまで歩いて、隣に腰を下ろした。娘は粥の椀に顔を近づけていた。私の両腕を見て、少し頭を下げた。
「皇女様。もったいのうございます」
「いいえ。少し足を休めているだけです」
トビアスが、角兎の串を二本持って戻ってきた。私は一本を受け取って、もう一本を、丸太の上の自分の膝のそばに置いた。
一本をかじる。うまくない。焼きすぎである。
黒く染めた髪の娘は、粥をすすっていた。
丸太の上の串を、見なかった。一度も見なかった。
私は川を見ていた。
何口か食べた。風が冷たい。列が少し進んだ。
膝のそばで、ほんの小さな音がした。
視線を動かすと、串がなかった。
隣で、ぼろぼろの袖が口もとへ動いていた。煤のついた唇が、角兎の肉をくわえている。娘はそれを噛んで、のみこんで、ふうっと息を吐いた。
それから、ゆっくりこちらを向いて、片目をつぶった。
「ごめんね」
甘くて、軽い声だった。
「やっぱりそっちのほうが、おいしそうだったの」
川の音がした。
私はかじりかけの串を膝に置いた。
「同じものですよ」
「うん、でも、人のって、おいしいじゃない?」
「いつから、気づいていましたか」
「あなたがあっちから歩いてきたとき。だって、歩き方が、ちょっとだけ右に寄るんだもん。かわいい」
「なぜ取ったのです。黙って粥を食べていれば、私も確信はありませんでした」
「ねえ、聞いて」
ヴィヴィアンは、頬杖をついて、私を見た。煤の下で、目がきらきらしていた。
「わたし、もう十日も、誰にも気づいてもらえなかったの。みんな、『大変だったねえ』しか言わないの。お世辞より、もっとつまらないの。すっごく、退屈で」
カミラが荷車の間を歩いてきた。カーヤがその後ろから、弓を握って走ってくる。ピピンがポケットから飛び出そうとして、私の親指に止められた。
「殿下、瓶よ」
小瓶を受け取った。透明な水が揺れている。栓を抜くと、例の匂いがした。
「ヴィヴィアン。腕をお借りします」
「いいよ?」
ヴィヴィアンは、自分から袖をまくった。
丸太の周りに、人が集まりはじめていた。老婆が口を開けて、私たちを見ている。
私は細い腕に、水をかけた。
三重の輪が溶けて、灰色のしずくになって、白い肌を流れていった。下から出てきた腕には、傷一つなかった。
「上手でしょ? 自分で描いたの」
どこかで、息を吸いこむ音がした。
「あの子だ」
「星の、リュミエールの」
「俺の息子の腕を」
誰かが石を拾った。一人、また一人と、地面に身をかがめた。
ヴィヴィアンは、それをうれしそうに見回した。
カーヤが矢をつがえた。ラズが、五歩の外に立っていた。手に匙を持ったままだった。
最初の石が、飛んだ。
私は杖を上げた。
石は杖の腹に当たって、足もとに落ちた。
「やめてください」
声は小さかった。それでも輪の一番前の老人が、手を止めた。石切り場で、私の額に石を当てた老人である。
「どけ。女帝」
「どきません」
「なぜだ! その女が何をしたか、お前が一番」
「はい。私が一番、知っています」
息を吐いて、吸った。
「ですから、順番です。ここで石を投げれば、彼女は笑って死にます。とても楽しそうに死にます。そんなことを、私はさせません」
丸太の上で、ヴィヴィアンが、少し首をかしげた。
「人を集めてください。三国の使者も、リュミエールの民も。全部の前で裁きます。証人は、いくらでもおります」
「あは」
小さな笑い声がした。
「楽しみ」
カーヤの縄が、細い手首にかかった。ヴィヴィアンは引かれて立ち上がりながら、もう一度こちらを振り向いた。
「ねえ、また明日ね。ダフネ」
明け方、天幕の入り口で、布の擦れる小さな音がした。
入ってきたのは、ひどく痩せた女である。髪をきれいに結っている。ひび割れた手で、盆を持っていた。
私の枕もとに、膝をついた。
十年間、毎朝見てきた、優しい顔だった。
「姫様、お薬の時間です」




