第64話 「ピピン」
毛玉が、私の胸の上に乗っていた。
重さは、いつもと同じくらいだった。
《おい、聞いてるか。お前、そんなところで死ぬな。おれ様の話を聞け》
聞いている。
聞こえるだけだ。目は半分開いていて、暗闇と、自分の手と、白い手袋が見えた。体はどこも動かなかった。
《かくれんぼだ》
ピピンが言った。
《おれ様、かくれんぼをしてたんだ。人間どもが網を持って山へ来た。かあちゃんが、言ったんだ。小さくなって隠れてなさい、って。見つかるまで出てきちゃだめよって。だからおれ様、小さくなった。すごく小さくなった。うまかったぞ。誰にも見つからなかった》
毛玉は、ころんと私の胸から落ちた。
《小さくなりすぎて、戻り方を忘れた。自分が何かも忘れた。森で、ずっと、ごろごろしてた。なんで他のやつらがおれ様を見て逃げるのか、わかんなかった》
床の上を、白いものが転がっていく。
《お前の薬、くさかったんだ。くさいのに、知ってる気がしたんだ。七本飲んだら、もっと知ってる気がした。あれ、かあちゃんの匂いだったんだ》
「な、なに、あの毛玉」
ヴィヴィアンの声がした。初めて聞く、少しだけ戸惑った声だった。
毛玉は溝を飛び越えて、暗闇の真ん中へ転がっていった。
巨大な頭が下りてきた。かすれた声が、頭の中でまだ続いていた。
《かえして。かえして。わたしのこ》
その鼻の先に、手のひらに乗るほどの毛玉が止まった。
《おい》
ピピンが言った。
聞いたことのない声だった。
《かあちゃん。見つかったぞ》
声が、止まった。
三百年、止まらなかった声が止まった。
巨大な鼻の穴が、ふくらんだ。溝の黒いものが波立つほどの息が、ゆっくりと吸いこまれていった。
《おれ様だ。ごめん。隠れすぎた》
暗闇全体が、震えはじめた。泣いていた。泣き方が変わっていた。
毛玉が、光った。
はじめは手燭くらいだった。
「ねえ、ちょっと」
光は大きくなった。私の頭より大きくなり、人より大きくなり、白い毛が長く伸びて、その下から白銀の鱗が現れた。小さな翼が音を立てて広がった。それは天井の闇へ届くほど伸び上がって、首を振った。
馬より大きかった。ナフルよりは小さかった。
《おお! やった! 戻った! 見ろ!》
大きな、ばかでかい声だった。
《おれ様だ! 竜だ! すごいだろ! おい、人間! おれ様、竜だったぞ!》
知っている声である。
竜が首を伸ばして、母親の胸の管に噛みついた。引きちぎって、吐き出した。
《まっず!》
太い鎖が一本、岩から抜けた。天井が崩れはじめて、棚の倒れる音がした。
「逃げるよ、ネリネさん! あ、いない。もう」
軽い足音が遠ざかっていった。
もう一つの足音は、逆にこちらへ近づいてきた。
誰かの手が、私の肩をつかんだ。ひび割れた手だった。
その手が、私の体を横に転がした。
右を下にして、である。
「心臓を叩いてください! そこの方、早く! ここです、指二本下を!」
「お前っ!」
「叩きなさい!」
聞いたことのない怒鳴り声だった。
カーヤが飛びついてきて、私の胸をこぶしで打った。一度。二度。三度。肋骨がきしんだ。何も来なかった。私はそれを、ひどく遠いところで見ていた。
溝の黒いものが、薄くなっていた。
色が抜けていく。黒から灰色へ。灰色から水の色へ。女王の胸を伝っていた黒いものが、赤くなった。私の喉を焼いていたものが、そこで、ふっと軽くなった。
《あの人間か》
低い、大きな声が、頭の上から降ってきた。
もう、かすれていなかった。
《この子を拾ってくれたのは。あの人間か》
《そうだ! 口が悪くて、血が少ないやつだ! 串をくれない! かあちゃん、そいつ死にそうなんだ!》
《そう》
息が吹きかけられた。
温かかった。
胸の中に残っていた黒いものが、その息に引かれて、指先から抜けていった。爪の根もとの黒が、私の目の前で消えていく。
脇腹の奥で、何かがとくんと動いた。
次の一回が、来た。
「はっ」
息が入った。肋骨が痛い。カーヤの顔が真上にあって、見たことのない形に歪んでいる。
「馬鹿! 馬鹿! あんた本当に馬鹿じゃないの!」
「殴るのを、やめてください。折れます」
「もう折れてるわよ!」
声が、自分の喉から出た。
暗闇に、音が戻っていた。天井の石が落ちてくる音。カーヤの息。誰かの足音。
それだけだった。
あれほどうるさかった声が、一つもなかった。十歩の内にも、何も聞こえない。
《おい、聞こえるか! おれ様の声は聞こえるか!》
一つだけ、やかましいのが残っていた。
「聞こえるわ」
《よし! 噛み跡があるやつは別だからな!》
「ほかは、何も聞こえない」
《おう。全部抜いたからな。かあちゃんが抜いた》
そうだろうと思った。女神の言っていた、等価交換である。
後ろで、何か大きなものが倒れる音がした。
首を動かした。五歩先の岩の前で、ラズが片膝をついていた。その前に、黒い獣が崩れている。いや、もう黒くなかった。いびつに膨らんだ肩が、息をするたびに小さくなっていく。
獣の目が、開いた。
金色だった。
何か言っているらしい。唇が、歯の間からかすかに動いている。私にはもう聞こえない。
ラズには聞こえたのだろう。肩が大きく上下した。
「馬鹿はお前だ」
かすれた声でそう言って、血だらけの額を、獣の鼻に押しつけた。
首筋の黒い根が、耳の下から、ゆっくりと襟の中へ下りていくのが見えた。
「ラズ」
呼ぶと、顔が上がった。
琥珀色の目が、私を見た。立ち上がって、一歩こちらへ来た。また一歩。五歩を、四歩にした。
「息は」
「しています。肋骨は折れましたが」
「それなら、いい」
「止まって」
カーヤが、ラズの胸に弓の先を当てていた。
「棒で測らせてもらうまで、それ以上来ないで。肌からまだ出てるかもしれないんだから。あいつの胸、さっきまで動いてなかったのよ」
ラズは止まった。
「言う」
「はい」
「全部言うと言った」
「はい。あとで聞きます」
ラズの口が開いて、何の言葉も出ないまま閉じた。私はそれを見て、肋骨の痛みも忘れて、少し笑った。
肩が、軽くなっていた。
私の肩を転がした、あのひび割れた手が、もうどこにもなかった。
天井が大きく崩れて、外の朝の光が、一筋、暗闇に落ちてきた。女王の大きな頭が、そちらを見上げていた。
《おい! かあちゃんが、外へ出るって! おれ様も行く! お前も乗れ!》
ばかでかい白銀の竜が、私の真上で首を曲げた。鼻息で髪が飛んだ。
それから、小さく首をかしげた。
《おい。この体だと、串が小さく見えるぞ》
「そうでしょうね」
《それは困る》
考えこんでいる竜を見上げながら、カーヤの腕につかまって、体を起こした。
「ヴィヴィアンは」
「逃げた」
カーヤは、溝の向こうをあごで指した。
水の色になった溝の縁に、銀の小箱だけが転がっていた。蓋が開いて、金色の星が泥にまみれている。
銀色の小さな角笛が、その隣に落ちていた。




