第63話 「自ら飲む」
「国境の川で待っていると、書いてありましたね」
「うん。ごめんね」
ヴィヴィアンは星を一つ口に入れて、にこにこしていた。
「だって、あなたがここに来てくれないと困るの。十万はちゃんと川へ行ったよ。将軍に任せたの。わたし、戦争って飽きちゃって」
「この図を、ご存じだったのですか」
「お兄様がかくれんぼで迷いこんだのは、王宮じゅうの笑い話だもん。あの人が死ぬ前に書くなら、絶対これだと思ったの。ね、わたし、お兄様のこと、よくわかってるでしょ?」
弓の弦が鳴った。
カーヤの矢は、ヴィヴィアンの頭の横へ行かなかった。
暗闇の上から、黒いものが落ちてきて、矢をはじいたのだ。
馬より大きな影が、ヴィヴィアンの前に降りた。翼はほとんど骨である。肩と背中がいびつに盛り上がり、濁った赤い目が光っている。右の後ろ足を引きずっていた。
銀色の小さな角笛を、ヴィヴィアンが指にぶら下げていた。
「ザラ」
ラズの声は、ほとんど息だけだった。
「ザラちゃん、いい子にしてね。お話が終わるまでよ」
《たすけて。噛む。逃げろ。馬鹿な男。たすけて》
聞こえているのは、私だけだった。
ネリネが、ヴィヴィアンの後ろから歩いてきた。髪をきれいに結い、盆を両手で持っている。
私の前で、膝をついた。
「姫様、お薬の時間です」
盆の上に、小瓶が一本あった。
「ね、簡単なお話なの」
ヴィヴィアンが、私のすぐ横まで来て、女王の鱗を見上げた。
「この子、もう三百年、ここで泣いてるの。おかげで血が黒いの。でも最近、弱ってきちゃって、魔物に入れても暴れるばっかり。だから、あなたの耳が欲しかったの。黒露をちゃんと飲んで、全部の魔物に言ってほしいの。リュミエールの言うことを聞きなさい、って」
「それで」
「それで、上のお友達は死なずにすむよ」
「嘘でしょう」
「半分くらいは、すむよ?」
「お断りします」
「だよねえ」
ヴィヴィアンは、うれしそうに笑った。
「じゃあ、こうしよ。あなたが飲んでくれるまで、ザラちゃんに、この赤い人をゆっくり食べてもらうね」
銀の角笛が鳴った。
高くてきれいな音が、暗闇の奥まで響いた。
黒い獣が跳ねた。爪がラズの胸を薙いだ。ラズは剣を抜かなかった。抜かないまま横へ跳んで、肩を裂かれ、岩に背中をぶつけて、それでも立った。
「ラズ!」
「来るな」
手袋の手が、私へ向かって開かれた。
「こいつは斬らん。俺が斬るのは、こいつのあとだ」
獣が、また爪を上げた。
《逃げろ、逃げろ。馬鹿な男。肉を持ってきた。逃げろ。噛むぞ》
「どいて! カーヤさん、お願い!」
二本目の矢が、獣の足の横で跳ねた。ラズの左腕の布が破れて、黒い血が飛んだ。
ヴィヴィアンは星を噛んでいた。
「ねえ、聞いて。わたし、あなたのこと、ほんとに好きなのよ」
指先は冷えていた。
息を吐いた。
吸った。
どうすればいいか、十歩の私にはわからない。あの巨大な何かに届く声を、私は九日かけて自分の中から追い出した。
顔を上げた。白い部屋の灯りが、扉の向こうに見えていた。溝が、足もとを流れている。
ネリネの盆を見た。
「それは、薄めたものね」
「はい。いつもの濃さでございます」
「それでは足りないわ」
杖をついて、歩いた。
ネリネの横を通り過ぎた。溝の前で止まって、膝をつく。黒いものが、ゆっくり流れていく。十年分の朝の匂いがした。
「姫様?」
ネリネの声が、初めて揺れた。
「何をなさるのです」
「あ、すごい! そっちにする?」
手のひらを、溝に入れた。
冷たかった。氷のように冷たいのに、指の黒い爪の根もとが焼けるように痛んだ。すくい上げる。指の間から、どろりとこぼれた。
「おやめください!」
盆が床に落ちた。小瓶の割れる音がした。
ネリネが私の手首をつかんでいた。ひび割れた手で、爪が食いこむほどの強さだった。あの夜、私の膝に食いこんだのと同じ指だった。結っていた髪が、ほどけている。
「それは薄めておりません! 一滴で、大人が倒れます! お体が十年分、覚えているのですよ! 心臓が止まります!」
「ええ。カミラ先生に聞いたわ」
「肝が持ちません! 肝が、シオンが」
声が裏返って、そこで止まった。
ネリネは口を開けたまま、自分の手を見た。それから私の脇腹を見た。
十年間、一度も変わらなかった顔が、崩れていた。
「おやめください、姫様」
小さな声だった。
「お願いです。どうか」
「ネリネ」
私は言った。
「あなたが頼みごとをするのは、二度目ね」
「はい」
「ごめんなさい」
指が、ゆっくりとほどけた。
「アマリア!」
ラズの声が、暗闇に響いた。
爪の下から、ラズがこちらを見ていた。胸を裂かれて、片膝をついている。琥珀色の目が、私の手のひらの黒いものを見て、大きく開いた。
「やめろ!」
立ち上がろうとして、黒い爪に押さえこまれた。
「やめろ! 聞こえないのか! おい!」
あんな声は、柱に縛られたときも出さなかった。
「何か言いますか」
届くかどうかわからないくらいの声で、聞いた。
「言う! 全部言う! だから、やめろ!」
「では、あとで聞きます」
手のひらを、口へ持っていった。
泥と、苦い草の味がした。
そんなものではなかった。
舌が消えた。喉が焼けて、それから凍った。胸の中を落ちていったものが、脇腹で弾けた。心臓が、一度、大きく打った。
もう一度、打った。
世界が開いた。
《たすけて》
《いたい》
《あまい。のどがかわいた》
《おかあさん》
《鞭だ》
《とうさん》
何万もの声が、頭の中へなだれこんできた。
うるさかった。ひどくうるさかった。十歩だった世界が、一息で川まで、海まで、空まで広がっていく。上の庭で鶏が眠っている。王都の軒で鳩がもめている。ずっと北の川の岸で、角山羊が人を背負って走っている。
黒いものたちが、泣いていた。三十万匹が、それぞれの声で泣いていた。
「あ、聞こえた? 聞こえたんだ! すごい!」
ヴィヴィアンが手を叩いた。遠くの音のようだった。
「じゃあ言って! リュミエールの言うことを聞けって!」
口を開けた。声は出なかった。喉がもう、ないようなものだった。
声でなくてもよかった。
私はいつも、それを声でやってきただけだ。
言うことは、一つしかなかった。あの夜、裸足で飼育場へ入って、柵に顔を寄せて聞いたことだ。
「あなた」
《あなた、さっき、なんて言ったの》
三十万の声が、止まった。
北の川で、牙犬が足を止めた。東の空で、黒い鴉が羽ばたきをやめた。目の前で、爪を振り上げた獣の、赤い目が揺れた。
《お前》
どこか遠くで、割れた、がらがらの声がした。
《お前、いま、おれに言ったか》
《聞こえるのか》
《聞こえるのか》
《聞こえるのか》
《おい! みんな! この人間、聞こえるぞ!》
《笛を聞かなくていいわ》
私は言った。
《痛いなら、痛いと言って。噛みたくないなら、噛まないで。蹴りたい相手がいるなら、どこでも好きなところを》
ヴィヴィアンの指で、銀の角笛が鳴っていた。
誰も、それを聞いていなかった。
そして、暗闇の真ん中で、白い山が動いた。
《かえして》
巨大な頭が、持ち上がっていく。鎖が悲鳴を上げた。天井から、小石が落ちてきた。
《かえして。お前。お前は誰だ。わたしのこを、知っているか》
答えようとした。
息を吸おうとした。
胸の中で、次の一回が来なかった。
音が遠くなった。頬に石の冷たさが当たった。いつ倒れたのか、わからない。
白い手袋が、すぐそばの床を叩いていた。五歩の外から、這ってきたのだろう。私の顔の上で、大きな手が止まっている。
その手は震えていた。私に触れられないまま、そこで止まっていた。
「アマリア」
触らないで、と言おうとした。
もう、口は動かなかった。
《おい》
胸のポケットで、白いものがもぞもぞと動いた。
《おい、人間。起きろ》
それは、世界でいちばんうるさい声だった。
《おれ様、思い出したぞ》




