第62話 「地下」
「鶏小屋ね」
カーヤが、小屋の戸を閉めた。
リュミエールの王宮の庭は、夜明け前の霧に沈んでいた。軍が国境へ出払って、見張りの姿はまばらである。
「塔から数えて三つ目だと、書いてあります」
私は手燭の陰で、リシャールの図を広げた。
「どの塔からよ。七本あるわよ」
「北の印がついています。北の塔ではないですか」
「北はどっち」
三人で空を見た。霧で、星は一つも見えない。
「上下は合っているのか」
五歩後ろから、ラズが低い声で言った。声が少しかすれている。左の耳の下で、黒い根が頬の傷のすぐそばまで来ていた。今朝は固形のものを飲みこめなかった。
「殿下は、何度も確かめたと書いています」
「それで三つ目が鶏小屋か」
「はい」
「どうすんのよ」
《おい、この小屋の鶏、うまそうだぞ》
「ピピン、静かに」
手紙の文面を、もう一度思い出した。庭師の小屋の場所は、塔から数えて三つ目です。たぶん合っています。
合っていなかったら、すみません。その場合は、私の行かなかった道が正しいと思ってください。
鶏小屋の裏から、砂利道が二本分かれていた。右には、きれいな白い石の道が伸びている。左は雑草の生えた細い道である。
「あの方は、幼いころ、かくれんぼでこの庭に来たのでしたね」
「だから」
「この図の通りに進むと、どちらの道が地図の『右』になりますか」
「右でしょ。白いほう」
「では、左へ行きましょう」
カーヤが呆れた顔をして、口を開けた。それから閉じて、弓を担ぎなおした。
雑草の道を三十歩行くと、崩れかけた小屋があった。
壊れた鍬と、肥料の袋が積んである。奥の板壁を、ラズが肩で押した。壁が音もなく回って、湿った冷たい風が吹き上がってきた。
下へ下りる石の階段だった。
手燭の火が、横へ倒れた。
「合っていました、殿下」
誰に聞こえるわけでもないが、言っておいた。
《おい》
ポケットの中で、ピピンが妙な声を出した。
《おい、この匂い、知ってる》
「ええ」
《暗いぞ。狭いぞ。おれ様、ここ、やだ》
「降りますよ」
階段は、ずっと下まで続いていた。
百二十歩で足が止まった。カーヤの肩を借りて、また百二十歩。壁に霜がついていた。
「何段あるのよ、これ」
「今、三百十です」
「数えないでよ。あいつ、こんなとこまで迷いこんだの」
「はい。十歳で、お一人で」
「よく死ななかったわね、あいつ」
《おれ様も帰る。もう帰る。寒い》
「あなたはポケットにいるだけでしょう」
《心が寒いんだ》
「その毛玉、何て言ってんの」
「心が寒いそうです」
「あたしもよ」
階段が終わると、白い部屋があった。
長い棚がずっと奥まで並び、小瓶がぎっしり詰まっている。甘く腐った匂いが、喉まで入ってきた。
十年、毎朝かいだ匂いである。
「誰か来るぞ」
棚の陰で、白い上っ張りの男たちが顔を上げた。鈴の紐に伸ばした手の袖を、カーヤの矢が棚に縫いとめた。ラズが別の男の襟を手袋でつかんだ。
「ここで瓶を作っているのか」
「は、はい」
「元はどこだ」
男の指が、震えながら部屋の奥を指した。
床に、細い溝が彫ってあった。溝は壁の下をくぐって、向こうから続いている。黒いものが、ゆっくりとそこを流れていた。
溝をたどって歩いた。
その先に、扉があった。
城の門よりも大きな、鉄の扉である。太い閂が三本かかっていて、溝はその下から出てきていた。扉の前に立つと、足の裏に振動が伝わってきた。
低い音がする。
誰かが、泣いている。
ずっと遠くから聞こえるようで、すぐ耳もとのようでもあった。ラズの顔を見ると、眉を寄せて扉を見ていた。
「風の音だと言ったのか、あの侍従は」
「はい」
ラズが閂に手をかけた。手袋の指が、ぎちりと鳴った。一本目が持ち上がる。二本目が落ちた。
三本目を床へ放った腕が、ひどく震えていた。
「開くぞ」
「はい」
扉が、向こうへ押された。
寒さが、顔を打った。
手燭の光が、どこまで行っても壁に届かない。
その真ん中に、白い山があった。
山だと思った。
動いた。
「なによ、これ。山でしょ」
「動きました」
「山は動かないわよ」
手燭を掲げた。山の表面に、光が返ってくる。鱗だった。一枚が私の体より大きい鱗が、ずっと奥まで続いている。ナフルが小さな蜥蜴に見えるほどの体が、鉄の鎖で岩に縫いつけられていた。鎖の一本は、私の胴より太い。
首と、胸と、足の付け根に、管が刺さっていた。何十本も。そこから滴るものが溝を伝って、こちらへ流れている。
色は、黒かった。
「あれが、元」
「はい」
「あれ、生きてんの」
「はい」
「何よ、あの管」
「血を抜いているのだと思います」
「いつから」
「わかりません。ですが本には、三百年前に死んだと書いてありました」
「馬鹿じゃないの」
カーヤの声が、途中で少し変わった。
《あ》
ピピンが、ポケットの中で動かなくなった。
杖をついて、私は歩いた。一歩ごとに音が響く。あの巨大な頭がどこにあるのか、見当もつかない。
百歩ほど進んだところで、十歩の内側に入った。
《かえして》
声が、頭の中いっぱいに広がった。
膝が折れかけて、杖にしがみついた。大きいのに、ひどくかすれた声だった。
《かえして。かえして。わたしのこ》
砦の夜に、この言葉を聞いた。
あれは、塔の周りを回っていた魔物の声だった。その言葉だけを、三十万匹が覚えて、泣いていたのだ。血に混じって、彼らの体の中へ入っていたから。
「竜の女王」
言葉が口から出た。
「あなた、さっき、なんて言ったの」
《かえして。わたしのこ。かえして》
「私の声が聞こえますか」
《かえして。かえして》
「聞こえますか!」
声は同じ調子で続いていた。
届いていない。十歩の私の声では、この暗闇の底にいる何かには、触れることもできなかった。
カミラは元を断てと言った。元を断つには、これを殺すのか。この泣いているものを。
「殺すか」
ラズが、五歩後ろで言った。低い声が、今度は熱でかすれていた。
「お前が決めろ。俺には泣き声しか聞こえん」
「待ってください」
「長くは待てん。上で三日と言ったのは、お前だ」
「はい」
指先が冷たかった。これは寒さのせいだ。
そのとき、後ろの扉のほうから、小さな足音が聞こえた。
軽くて、弾むような足音だった。
カーヤが振り向いて、弓を上げた。ラズの手が、剣の柄へ動いた。
白い部屋の灯りを背にして、二つの影が入ってきた。一人は盆を持っている。もう一人は、胸に小さな箱を抱いて、楽しそうに首をかしげていた。
「ねえ、聞いて」
甘くて軽い声が、暗闇に響いた。
「お兄様の図、やっぱり左だったでしょ?」
息が止まった。
国境の川にいるはずの蜂蜜色の髪が、手燭の光の中で揺れていた。
「遅かったから、心配しちゃった。ね、ダフネ」




