↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

70/79

第61話 「駆けつける」

「数えた」


 辺境伯は地図の上に小石を置いた。


「こちらが、帝国の八千とザハリアの一万で一万八千。向こうは十万に魔物が三十万だ」


「魔物だけでも、一人で十七匹ですね」


「計算が速いな、殿下。ちなみに明日の昼には着くぞ」


 国境の川の北岸に、また陣を張っていた。あの日と同じ岸である。枯れた草に霜が降りて、焚き火の煙がまっすぐ上がっている。


「やることは一つです」


 私は地図の南の端に、リシャールの図を重ねた。


「私たちが王宮の地下へ行きます。黒露《こくろ》を作っている元を断ちます。魔物はそれで止まるはずです。それまでの間、ここで持ちこたえてください」


「はず、か」


「はい。はずです」


「何日だ」


「ボルグで三日かかります。帰りのことは考えておりません」


「六日は無理だ。二日で全滅する」


「ですから、三日です。お願いできますか」


 小さな老人は、白いひげをしごいて小石を見た。


「四十年、賢く生きてきたつもりだったが」


「はい」


「お前に会ってから、馬鹿なことばかりやらされる。わかった。三日だな」


 軍議はそれで終わった。


 大鍋のところへ行くと、ラズが一人で灰麦《はいむぎ》をかき回していた。左の首筋の黒い根は、もう耳の下まで来ている。カミラが棒で測って、あと四日と言った。


 かまどの横の石の上に、椀《わん》が三つ並んでいた。大きな椀と、縁の欠けた椀と、背の高い男が使っていた深い椀である。


 五歩の距離で、私は立ち止まった。


「兵たちの顔が暗いです」


「だろうな」


「死にかけ自慢をしても、今日は誰も手を挙げませんでした。全員、明日死ぬからだそうです」


「お前は気の利いたことを言わんのか」


「言いました。おなかが減りました、と」


「それは気が利いている。座って待て」


 ラズが鍋の縁を匙《さじ》で叩いたとき、見張りの声が上がった。


「北だ! 何か来るぞ!」


 陣がざわめいた。兵たちが槍をつかんで立ち上がる。


 北の丘の上に、影が一つ立っていた。夕日を背にしている。角のある大きな魔獣だ。背に誰かが乗っている。


 たった一騎である。それはゆっくり丘を下りて、見張りの槍の前で止まった。乗っていたのは片腕のない、三十近い女だった。残った腕に、三重の輪が見えた。


「ここにラズって奴がいるって聞いたんだけど」


 女は背負い袋の中から、何かを取り出した。


 木の椀だった。縁が黒く焦げている。


「四年前、旧校舎の地下で粥《かゆ》を食った。卒業して前線へ送られて、腕をなくして、それからは南の谷で薬草を売ってる。あたしの札を結んでくれた先輩が死んだとき、あの男が飯を食わせてくれたの。あの粥、塩が足りなかった」


 かまどの前で、ラズの手が止まった。


「足りていただろう」


「足りなかったわよ。おかわりある?」


 女は椀を差し出した。


 ラズは女を見ていた。琥珀《こはく》色の目が、何か言いかけて、やめた。それから匙を取って、椀によそった。


 角笛が鳴った。


 ザハリアのものでも、帝国のものでもない。かすれた牧童の笛だった。西の尾根に、魔獣が十頭ほど現れた。角山羊に、牙犬に、荷馬ほどの土熊《つちぐま》である。


「地下で三冬越した!」


「鱗馬《うろこうま》をなくした馬鹿はここか!」


「闘技場で、背中を預けた奴がいるって聞いたぞ!」


 東の川沿いからも、灯りが近づいてくる。北の丘にも、また影が立った。今度は一つではなかった。二十。五十。空に、見たことのない翼の影が混じった。


「な、なんだ、あれは」


 兵の一人がつぶやいた。


「敵か! あれは敵か!」


「いいえ」


 カーヤが、矢を下ろしていた。目を丸くして、丘を見ていた。


「札なしの子たちだ」


 丘を下りてくる中に、見覚えのある新入生がいた。北の砦《とりで》で、グンナルにかばわれた少年である。地下から沢へ逃げた子たちが、知らない魔獣にまたがって、痩せた顔で手を振っている。


「カーヤ先輩! 遅くなりました! 森に入れなかったやつは、途中で拾った荷馬です!」


「馬鹿じゃないの」


 カーヤは言った。


「馬鹿じゃないの、あんたたち! 明日死ぬのよ!」


「知ってます! だから来ました!」


 日が暮れるころには、陣の北側は人と魔獣で埋まっていた。


 三千か、もっといる。どの顔にも知らない傷があった。片腕の紋を持つ者が多かった。紋のない者もいた。商人の格好をした男がいた。闘技場の刺青をした大男がいた。ほとんどの者が、背負い袋から椀を出した。


「知らん」


 ラズは、匙を握って立っていた。


「俺は知らん。こんな数は知らん。おい、鍋が足りん。誰が呼んだ」


「誰も呼んでないわよ」


 カーヤが、焚き火の向こうで言った。


「あんたが毎晩、飯を作ったからよ」


「任務だ」


「知ってる」


「打算だと言っただろう」


「知ってるわよ。塩が足りないのよ、早く足して」


 ラズの右手が、頬《ほお》へ上がった。


 手袋の指が傷に当たった。そこで止まった。下ろそうとして、下ろせないでいた。


「ちょっと、どいて! 通してくださーい!」


 人波の間から、丸い顔の娘が走ってきた。年は十五か六である。農家の前掛けをつけて、背中に畑の棒を担いでいる。


 足が、地面についたまま動かなくなった。


 丸い顔だった。よく笑いそうな口をしていた。


「あの! あんたがダフネ? 違った、皇女様?」


「はい」


「あたし、グレタ。ノルンの妹」


 グレタはにかっと笑った。それから、前掛けのポケットをごそごそと探った。


「姉ちゃんの手紙に書いてあったの。すごい変な友達ができたって。銅貨を噛《か》むんだって。顔色が悪いから、紅を分けてやるの、って。手紙の最後に、うちのとっておきがなくなりそうだから、次に帰るとき買ってくるって書いてあった」


 グレタが差し出したのは、小さな貝殻だった。新しい、きれいな貝殻である。


「姉ちゃん、帰ってこなかったから。あたしが買ってきた。村で一番いいやつ」


 私はそれを受け取った。


 手が、なかなか閉じなかった。


 胸のポケットには、もう一つ貝殻が入っている。底をこすっても、とっくに何も取れなくなった貝殻である。


「ありがとうございます」


「塗らないの? 青白いと、殺されるよ」


「ええ」


 声は、なんとか出た。


「知っています」


 貝殻を開けて、指で取った。頬に当てる。自分で塗るのは、もう慣れていた。


「はい、できた。あ、うまいじゃん!」


 足もとの地面が、むくむくと盛り上がった。丸い鼻が出てきて、グレタの前掛けをかいだ。


《この匂い! 耳の後ろの人間と同じだ!》


「うわっ! なにこれ!」


「カブです。あなたのお姉さんが、森で見つけた魔獣です。耳の後ろをかいてあげてください」


「ここ?」


《そこだ!》


《おい》


 ポケットで、ピピンが顔を出した。


《お前、今どんな顔してる》


「血色のいい顔よ」


《そうか》


 焚き火があちこちで上がっていた。歌を歌い出した者がいる。


 かまどの前で、カーヤが椀の山を前に、大声を出した。


「今日の死にかけ自慢! 手を挙げた奴から肉を入れる!」


 三千の腕が上がった。腕には、紋があった。


 笑い声が川を渡って、向こう岸まで届いていった。


 川の向こうには、まだ何もいない。南の地平線だけが、夜の中で少しずつ黒くなってきている。


 ボルグが後ろで翼を広げる音がした。夜明け前に発つ。私は杖を握って、もう一度だけ、かまどのほうを見た。


 五歩の向こうで、ラズも私を見ていた。


 手袋の手が、ひしゃくで粥をすくって、こちらへ持ち上げた。


 飲めるか、と目が聞いていた。


「いただきます」


 私は言った。


「塩は、足りていますか」


「足りている」


 低い声が返ってきた。


「全員、足りないと言うがな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。