第61話 「駆けつける」
「数えた」
辺境伯は地図の上に小石を置いた。
「こちらが、帝国の八千とザハリアの一万で一万八千。向こうは十万に魔物が三十万だ」
「魔物だけでも、一人で十七匹ですね」
「計算が速いな、殿下。ちなみに明日の昼には着くぞ」
国境の川の北岸に、また陣を張っていた。あの日と同じ岸である。枯れた草に霜が降りて、焚き火の煙がまっすぐ上がっている。
「やることは一つです」
私は地図の南の端に、リシャールの図を重ねた。
「私たちが王宮の地下へ行きます。黒露を作っている元を断ちます。魔物はそれで止まるはずです。それまでの間、ここで持ちこたえてください」
「はず、か」
「はい。はずです」
「何日だ」
「ボルグで三日かかります。帰りのことは考えておりません」
「六日は無理だ。二日で全滅する」
「ですから、三日です。お願いできますか」
小さな老人は、白いひげをしごいて小石を見た。
「四十年、賢く生きてきたつもりだったが」
「はい」
「お前に会ってから、馬鹿なことばかりやらされる。わかった。三日だな」
軍議はそれで終わった。
大鍋のところへ行くと、ラズが一人で灰麦をかき回していた。左の首筋の黒い根は、もう耳の下まで来ている。カミラが棒で測って、あと四日と言った。
かまどの横の石の上に、椀が三つ並んでいた。大きな椀と、縁の欠けた椀と、背の高い男が使っていた深い椀である。
五歩の距離で、私は立ち止まった。
「兵たちの顔が暗いです」
「だろうな」
「死にかけ自慢をしても、今日は誰も手を挙げませんでした。全員、明日死ぬからだそうです」
「お前は気の利いたことを言わんのか」
「言いました。おなかが減りました、と」
「それは気が利いている。座って待て」
ラズが鍋の縁を匙で叩いたとき、見張りの声が上がった。
「北だ! 何か来るぞ!」
陣がざわめいた。兵たちが槍をつかんで立ち上がる。
北の丘の上に、影が一つ立っていた。夕日を背にしている。角のある大きな魔獣だ。背に誰かが乗っている。
たった一騎である。それはゆっくり丘を下りて、見張りの槍の前で止まった。乗っていたのは片腕のない、三十近い女だった。残った腕に、三重の輪が見えた。
「ここにラズって奴がいるって聞いたんだけど」
女は背負い袋の中から、何かを取り出した。
木の椀だった。縁が黒く焦げている。
「四年前、旧校舎の地下で粥を食った。卒業して前線へ送られて、腕をなくして、それからは南の谷で薬草を売ってる。あたしの札を結んでくれた先輩が死んだとき、あの男が飯を食わせてくれたの。あの粥、塩が足りなかった」
かまどの前で、ラズの手が止まった。
「足りていただろう」
「足りなかったわよ。おかわりある?」
女は椀を差し出した。
ラズは女を見ていた。琥珀色の目が、何か言いかけて、やめた。それから匙を取って、椀によそった。
角笛が鳴った。
ザハリアのものでも、帝国のものでもない。かすれた牧童の笛だった。西の尾根に、魔獣が十頭ほど現れた。角山羊に、牙犬に、荷馬ほどの土熊である。
「地下で三冬越した!」
「鱗馬をなくした馬鹿はここか!」
「闘技場で、背中を預けた奴がいるって聞いたぞ!」
東の川沿いからも、灯りが近づいてくる。北の丘にも、また影が立った。今度は一つではなかった。二十。五十。空に、見たことのない翼の影が混じった。
「な、なんだ、あれは」
兵の一人がつぶやいた。
「敵か! あれは敵か!」
「いいえ」
カーヤが、矢を下ろしていた。目を丸くして、丘を見ていた。
「札なしの子たちだ」
丘を下りてくる中に、見覚えのある新入生がいた。北の砦で、グンナルにかばわれた少年である。地下から沢へ逃げた子たちが、知らない魔獣にまたがって、痩せた顔で手を振っている。
「カーヤ先輩! 遅くなりました! 森に入れなかったやつは、途中で拾った荷馬です!」
「馬鹿じゃないの」
カーヤは言った。
「馬鹿じゃないの、あんたたち! 明日死ぬのよ!」
「知ってます! だから来ました!」
日が暮れるころには、陣の北側は人と魔獣で埋まっていた。
三千か、もっといる。どの顔にも知らない傷があった。片腕の紋を持つ者が多かった。紋のない者もいた。商人の格好をした男がいた。闘技場の刺青をした大男がいた。ほとんどの者が、背負い袋から椀を出した。
「知らん」
ラズは、匙を握って立っていた。
「俺は知らん。こんな数は知らん。おい、鍋が足りん。誰が呼んだ」
「誰も呼んでないわよ」
カーヤが、焚き火の向こうで言った。
「あんたが毎晩、飯を作ったからよ」
「任務だ」
「知ってる」
「打算だと言っただろう」
「知ってるわよ。塩が足りないのよ、早く足して」
ラズの右手が、頬へ上がった。
手袋の指が傷に当たった。そこで止まった。下ろそうとして、下ろせないでいた。
「ちょっと、どいて! 通してくださーい!」
人波の間から、丸い顔の娘が走ってきた。年は十五か六である。農家の前掛けをつけて、背中に畑の棒を担いでいる。
足が、地面についたまま動かなくなった。
丸い顔だった。よく笑いそうな口をしていた。
「あの! あんたがダフネ? 違った、皇女様?」
「はい」
「あたし、グレタ。ノルンの妹」
グレタはにかっと笑った。それから、前掛けのポケットをごそごそと探った。
「姉ちゃんの手紙に書いてあったの。すごい変な友達ができたって。銅貨を噛むんだって。顔色が悪いから、紅を分けてやるの、って。手紙の最後に、うちのとっておきがなくなりそうだから、次に帰るとき買ってくるって書いてあった」
グレタが差し出したのは、小さな貝殻だった。新しい、きれいな貝殻である。
「姉ちゃん、帰ってこなかったから。あたしが買ってきた。村で一番いいやつ」
私はそれを受け取った。
手が、なかなか閉じなかった。
胸のポケットには、もう一つ貝殻が入っている。底をこすっても、とっくに何も取れなくなった貝殻である。
「ありがとうございます」
「塗らないの? 青白いと、殺されるよ」
「ええ」
声は、なんとか出た。
「知っています」
貝殻を開けて、指で取った。頬に当てる。自分で塗るのは、もう慣れていた。
「はい、できた。あ、うまいじゃん!」
足もとの地面が、むくむくと盛り上がった。丸い鼻が出てきて、グレタの前掛けをかいだ。
《この匂い! 耳の後ろの人間と同じだ!》
「うわっ! なにこれ!」
「カブです。あなたのお姉さんが、森で見つけた魔獣です。耳の後ろをかいてあげてください」
「ここ?」
《そこだ!》
《おい》
ポケットで、ピピンが顔を出した。
《お前、今どんな顔してる》
「血色のいい顔よ」
《そうか》
焚き火があちこちで上がっていた。歌を歌い出した者がいる。
かまどの前で、カーヤが椀の山を前に、大声を出した。
「今日の死にかけ自慢! 手を挙げた奴から肉を入れる!」
三千の腕が上がった。腕には、紋があった。
笑い声が川を渡って、向こう岸まで届いていった。
川の向こうには、まだ何もいない。南の地平線だけが、夜の中で少しずつ黒くなってきている。
ボルグが後ろで翼を広げる音がした。夜明け前に発つ。私は杖を握って、もう一度だけ、かまどのほうを見た。
五歩の向こうで、ラズも私を見ていた。
手袋の手が、ひしゃくで粥をすくって、こちらへ持ち上げた。
飲めるか、と目が聞いていた。
「いただきます」
私は言った。
「塩は、足りていますか」
「足りている」
低い声が返ってきた。
「全員、足りないと言うがな」




