↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/79

第60話 「王妃の断罪」

「一つ目の子は、井戸でございます」


 セルジュは白い広場の真ん中に置かれた椅子で、膝に帳簿を載せていた。助かるためなら何でも話す男は、証人としてこれ以上ないほど便利である。


「王の第一の庶子《しょし》、当時七歳。王妃様のご実家から、黒露《こくろ》が二瓶。こちらに受領の印がございます。井戸のそばで見つかったときには、もう喉が腫れておりました」


「二つ目は」


 裁きの席に座ったラズが、短く聞いた。王の椅子ではなく、広場の砂に置いた木箱に腰かけている。ナフルの巨大な頭が、その後ろに横たわっていた。


「熱を出した子でございます。九歳。一瓶」


「三つ目」


「馬に蹴られた子です。鞍《くら》の下に針、馬の飼い葉に一滴。こちらは少々お高くつきまして」


 朝の広場に、昨日より多くの人が集まっていた。誰も声を上げなかった。帳簿の紙をめくる音だけが、やけに大きかった。


 王妃シビュラは段の上で、喪の白を着て座っている。手は膝の上で重ねられ、顔にはほほえみが戻っていた。


「よくできた作り話ね。その男は帝国の財務官でしょう。敵国の文官の帳簿など、誰が信じるのかしら」


「妃殿下の字で、礼状もいただいております」


「字くらい、誰にでも似せられるわ」


 セルジュは私を見た。私はうなずいた。


 朝のうちに、段の裏で打ち合わせをしてある。この男はリュミエールの商人だ。帳簿の数字には嘘をつかない。それが誇りらしい。


「殿下。こちらの支払いについても、申し上げてよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「先代の帳簿によりますと、二十三年前、リュミエール王弟殿下より、妃殿下の輿入れの持参金に上乗せがございました。名目は、お子様の養育費です」


 シビュラの指が、一本だけ動いた。


「輿入れのときに養育費?」


 ラズが聞いた。


「はい。妃殿下がザハリアへ嫁がれたのは二十三年前の春で、ナサニエル様のご誕生は、その年の暮れでございます。陛下には早産とお届けがございましたが、王弟殿下の持ち物の産科の医師には、輿入れの三月前から支払いが始まっております。リュミエールの帳簿は正確でございますので」


 ざわめきが、ゆっくりと波になって広がっていく。


 ナサニエルが、段の上で立ち上がった。


「嘘だ! 嘘だ! 母上、こんなものは嘘でしょう!」


「座りなさい、ナサニエル」


「竜が頭を下げなかったのは、そのせいだって言うのか! 俺に王の血がないって! 答えてください!」


「座りなさいと言ったのよ」


 シビュラは息子を見なかった。


 ファルークが杖をついて進み出た。枯れ枝のような手で、小さな箱を捧げている。蓋《ふた》を開けると、印の形に布がくぼんでいた。


「王の印は、二年前に妃殿下が持ち去られました。陛下は最後まで、ご自身のお心で字を書かれることはございませんでした。十一人の王の子のうち、十人の葬儀を、私が執り行いました。私の口からは、以上でございます」


 老人は砂に膝をついた。それから、顔を上げてもう一度言った。


「十人でございます」


 ナサニエルの顔が、真っ白になっていた。細い目が、せわしなく左右へ動いている。段の下の兵たちを見て、ナフルを見て、また母親を見た。


 それから、段を駆け下りた。


 砂に膝をついて、ラズの木箱の前で額をこすりつけた。


「陛下! イスマエル陛下! 私は何も知りません! 全部、母がやったのです! 井戸も馬も、私は子どもでした! 村を焼けと言ったのも母です! お願いです、弟として、どうか!」


 ラズは見下ろしていた。


「お前は弟か」


「はい!」


「さっき王の血はないと聞いたばかりだが」


 ナサニエルの口が、開いたまま止まった。


「それに、俺の隊を後ろから撃ったのはお前だ。あの三百人に八十人、歩けないやつが出た。丁寧ではなかったな」


「それは、母上が!」


「ナサニエル」


 段の上から、静かな声が落ちてきた。


 シビュラは息子を見ていた。今日初めて、その顔を見ていた。ほほえんだまま、ひどく疲れたようにまばたきをした。


「この子は、私の計算の中で、一番つまらないところね」


「母上?」


 兵が二人、ナサニエルの腕を取った。わめき声が遠ざかっていく間、シビュラは一度も振り向かなかった。


 女官が一人、盆を持って段を上がった。杯が二つ載っている。


 シビュラはそれを受け取って立ち上がった。ゆっくりと段を下り、砂の上を歩いてくる。銀の兵はもう、誰も動かない。


「よくできました、庶子殿」


 ラズの前で止まって、杯の一つを差し出した。


「認めましょう。私は負けました。王家に嫁いだ女として、最後の礼くらいは守りたいの。亡き陛下に。二人で、一杯だけ」


 ラズは立ち上がった。


 手袋の手で、杯を受け取った。王妃よりも頭一つ大きい。


 何も言わず、杯を鼻の下へ持ってきた。


 息を一回吸うほどのことだった。それから裏返すように、杯の縁を見た。十年以上やってきた仕草だった。あの地下で、ティモが「つまみ食い」と笑っていた手つきと、少しも変わらなかった。


 ラズは杯から鼻を離した。


「上手いな。匂いがほとんどしない」


「お褒めにあずかって」


「味見をしろ」


 ラズは杯を王妃の手に戻して、代わりに彼女の持っていた杯を取った。


「そちらも同じなら、どちらでもいいだろう」


 シビュラは笑った。


 初めて、声を上げて笑った。


「踊り子の子のくせに」


「ああ」


「あの女も、足が一拍遅いくせに、陛下に杯を投げたわ。私が半年かけて覚えた王の好みを、一晩で台無しにして」


 手の中の杯を、彼女は見下ろした。それから砂の上へ、ゆっくりと傾けた。こぼれた水が、白い砂をわずかに黒く染めた。


「死ぬのは嫌よ。私は計算が得意なの」


「判決を言う」


 ラズは木箱の前に立っていた。


「俺は法を知らん。ファルーク。十人の王の子を殺した者には、どうする」


 老人は、額を砂につけたまま答えた。


「砂の都の法では、同じ死に方を、順に」


「そうしろ」


 広場の砂の上を、風が渡った。


「井戸から順に、丁寧にな」


 それで、シビュラの顔からほほえみが消えた。


 蜂蜜《はちみつ》色の髪の女の、何もない顔を見たのは、それが最初で最後だった。銀ではなく砂色の兵に両腕を取られて、女は段の裏へ連れられていった。


 何日かかったのか、私は聞かなかった。


 夕方、私はナフルの鼻の前にいた。カーヤが鎖を切る音がしている。


《甘いのが、少し抜けてきた》


「笛がないからよ。まだ痛みますか」


《痛い》


「ええ」


 ラズが木箱に座って、自分の膝の上の冠を見ていた。ファルークが砂を払って、渡したものだ。


「かぶらないのですか」


「重そうだ」


「はい。重そうです」


「鍋より重い」


 少し間があいて、その口の端が動きかけた。


 止まった。


 ラズの目が、北の空を見ていた。白い鳥が一羽、まっすぐこちらへ飛んでくる。伝書の鳥だった。銀色の筒を足につけて、砂の上に降りると、そのまま動かなくなった。


 カーヤが駆け寄って筒を開けた。蜂蜜の匂いがした。中から金色の星が一つと、薄い紙が出てきた。


 紙は私に渡された。丸くて、きれいな字だった。


『ねえ、聞いて。


 お父様が、もう全部もらいに行きなさいって。帝都は片づいたから、十万で国境へ行くね。魔物は三十万匹。ザラちゃんも連れていくよ。


 国境の川で待っててね。今度はちゃんと、お薬持っていくから。


 ごめんね。楽しみにしてる。 あなたのヴィヴィアン』


 星を、砂の上に落とした。


 今度は、踏むのも面倒だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。