第59話 「帰還」
《重い》
「すみません」
《人間三人と、網の中の太いのが一人だ。やっと痛くなくなった翼で、最初の仕事がこれか》
「嫌なら、下ろしてくださってかまいません」
《嫌じゃない。文句を言えるのが楽しいんだ》
ボルグの背で、風が耳を切っていく。
私が先頭に乗り、真ん中にカーヤ、一番後ろにラズが座っている。真ん中が空いていると、揺れたときに危ないからである。カーヤは「なんであたしが壁なのよ」と三日間言い続けた。
腹の下の網では、帳簿の包みを抱えたセルジュが、悲鳴を上げるのにも飽きて、計算の話をしていた。
「殿下! この高さから落ちますと、証人の価値はゼロでございます! もう少々、丁重に!」
「丁重にしております。袋ではなく、網にしました。落ちはしません」
ボリスの葬儀は、しなかった。手に握られていた銅貨は抜いて、カーヤに返した。カーヤは泥を拭いて、噛んだ。十一通の手紙はケーテに渡して、ケーテのことはカミラ先生に預けた。百四十一人の名前は帳面に残した。ピエトロとゴルドは、吊り橋を切った罪で鉱山へ送った。札もつけず、番号もつけず、名前を書いて、ちゃんと給金も出して、穴を掘らせる。帳簿を見たカーヤが「なんで給金なんか」と言ったので、「食費と宿代を引くと、毎月借金が増えます」と答えた。カーヤは少し考えて、「あんたって性格悪いわね」とうれしそうに言った。
軍は辺境伯に預けて、南へ出した。十日で国境に着く。
それでは間に合わなかった。
「見えた」
低い声が、後ろから聞こえた。
砂の色の城壁が、地平線から持ち上がってきた。空は明るく、北の雪が嘘のように暑い。大きな都だった。真ん中に白い広場があって、人で埋まっている。
「ファルークの手紙の通りだ」
ラズが言った。左の首筋に、黒いものが見えている。あと十日、とカミラは言っていた。
「今日だ」
「はい。竜の前で、戴冠式」
ザハリアの王は、竜の前で冠を受ける。城の下に棲む古い竜が、王の血の持ち主にだけ頭を下げるからだ。王が死んで三月、王妃の息子はまだ冠をかぶれずにいた。頭を下げないからである。
下りていくと、広場の様子が見えてきた。
段の上に、喪の白を着た蜂蜜色の髪の女がいる。その横に、細い目の男が冠の台の前に立っていた。そして段の下に、小山のようなものが腹ばいになっていた。
竜を見るのは初めてだった。
色の褪せた赤銅色の鱗に、まだらに黒いものが混じっている。太い首には鉄の輪がはまり、鎖が四方の柱へ伸びている。段の脇で、銀の鎧の兵が角笛を構えていた。
「あれは」
「黒露を打ってやがる。角笛で下げさせる気だ」
カーヤが、矢筒に手を伸ばした。
ボルグが翼を広げて、広場の真ん中へ落ちた。
何千人もの悲鳴が上がった。砂が舞い上がる。私はよろけて降り、杖で支えた。ラズが、もう砂の上を歩き出していた。ぼろぼろの砂色の軍服に、小さすぎる白い手袋である。
人の波が、そこから割れていった。
「赤い髪だ」
「庶子様だ」
「イスマエル様だ!」
段の上で、王妃シビュラがほほえんだ。少しも驚いていなかった。
「まあ。遅かったのね、庶子殿。お客様までお連れして」
ナサニエルの細い目が、私の両腕を見て、三日月になった。
「奴隷の皇女じゃないか。これは傑作だ。母上、ちょうどいい余興です」
「ナサニエル。冠をかぶりたいなら、急ぎなさい」
「はい、母上。吹け!」
角笛が鳴った。
きれいな、高い音だった。竜の体が跳ねて、鎖がじゃらりと鳴った。巨大な頭が、苦しそうに持ち上がる。白く濁った目が、よろよろと段のほうへ向いていった。
私は杖をついて歩いた。
「おい、どこ行くのよ!」
カーヤの声がした。八十歩。九十歩。砂に足を取られて、息が荒くなった。足の奥の、空いた場所が痛みはじめる。百十歩で、竜の鼻の前に出た。
銀の兵が槍を向けた。カーヤの矢が、その足もとに刺さった。
十歩の内側に入った。
《うるさい》
地面の底から響くような声がした。
《うるさい、うるさい。頭が割れる。甘い。のどが焼ける。誰だ。小さいの。そこをどけ》
私は杖に体を預けて、見上げた。
「あなた、さっき、なんて言ったの」
白く濁った目が、ゆっくり下りてきた。
《なんだと》
「頭が割れると言ったわ。あの笛のせいね」
《お前》
鼻息で、髪が後ろへ流れた。
《お前、人間のくせに、わしに口をきくのか》
「ええ。名前を教えて」
《名前。名前は、ナフルだ。忘れていた。五百年、誰も呼ばん。王どもは竜としか呼ばん》
角笛がまた鳴った。ナフルの首が大きく震えて、段のほうへ引っぱられていく。歯の間から、黒い泡が垂れた。
《下げたくない。あの男は違う。匂いが違う。だが、笛が、笛が》
「では下げなくていいわ。あの笛は、あなたの魂が勝手に痛むだけ。ある人が言っていたの。もう慣れた、と」
《ふざけるな。小さいの。お前に何がわかる》
「わかりません。ただ、痛いのだけは、よく知っています」
後ろで、砂を踏む音がした。
ラズが、私の五歩後ろで止まった。白い手袋を下げたまま、竜を見上げている。
「よう」
「俺だ。十一のときに、お前の鼻に石を投げた」
広場が静かになった。
ナフルの大きな頭が、宙で止まった。鼻の穴がふくらむ。ゆっくりと、長く、匂いをかいだ。
《踊り子の子か》
「何と言っている」
「踊り子の子か、と」
ラズの喉が、小さく動いた。
「ああ。母さんは踊りが下手だった。お前は笑っていたな」
「何をしている! 吹け! もっと吹け! 下げさせろ!」
ナサニエルの声が裏返っている。角笛が続けざまに鳴った。竜の体がのたうって、柱が一本折れた。
「下げるな」
ラズが言った。
「下げなくていい。俺は王になりに来たんじゃない。文句を言いに来ただけだ。お前も、痛いなら痛いと言え」
《あの踊り子の子が》
地面の底の声が、割れて、笑った。
《あの泣き虫が、わしに命令するのか》
鎖が鳴った。
巨大な頭が、持ち上がった。段の上の冠の台が、竜の影に入る。ナサニエルが顔を引きつらせて、半歩下がった。
頭は、段を向かなかった。
ゆっくりと、向きを変えた。私の頭の上を、熱い息が通り過ぎた。赤銅色の首が、砂の上に長く伸びていく。あごが地面につくまで、下がった。
白く濁った目の前に、赤い髪の男が立っていた。
音がしなくなった。
広場を埋めた何千人もの人間が、息をするのをやめていた。
一人の老人が、段の端で膝をついた。腰の曲がった侍従である。額を砂につけて、肩を震わせた。その隣で、誰かが膝をついた。また誰かが。砂の上を波が走るように、広場じゅうの頭が下がっていった。
「王だ」
「王の血だ」
「あの竜が、頭を下げた」
ラズは突っ立ったまま、嫌そうな顔で竜の鼻を見ていた。
ナサニエルの手から、冠が砂へ転がった。
「母上! 母上、これは!」
「静かになさい」
段の上で、シビュラだけが立っていた。ほほえみは、まだ消えていなかった。
「竜が獣の気まぐれを起こしただけよ。法の話をしましょう、庶子殿。あなたは敵国の皇女を連れて、王都に武器を持ちこんだ。私には王の印がある。あなたには何があって?」
ラズは振り向いた。
「明日、ここで裁きを開く」
「まあ。どなたの」
「お前のだ」
シビュラは小さく首をかしげて、声を立てて笑った。
「面白いこと。十人の子どもたちは、井戸に落ちて、熱を出して、馬に蹴られたの。証拠がおありなら、どうぞ」
そのとき、広場の真ん中のほうから、弱々しい声が聞こえてきた。
「あの、皆様。すみません」
ボルグの腹の下で、網がもぞもぞと動いていた。
「どなたか、私を下ろしていただけませんでしょうか。そちらの妃殿下には、たいへんお世話になりました。帳簿のことで、少々、お話がございまして」
王妃シビュラのほほえみが、初めて止まった。




