第58話 「俺ごと」
「百四十一人でございます」
ゲルトは帳面を開いて、静かに言った。
校庭の一角に、顔の半分に猛禽の模様を持つ者たちが並ばされていた。ゲルト本人も、その列にいる。ガルムントの騎手、文官、下働き、エゴン。ヨハンは一番端で、まっすぐ立っていた。
「殿下がお亡くなりになれば、この全員が倒れます。例外はございません」
「ご親切に」
「いえ、数字は正確にお伝えしませんと」
泥の上に、ボリスが縛られて、騎士二人に立たされている。手には、まだ銅貨を握っていた。
「さあ、どうする!」
大声が戻っていた。
「奴隷を救う女帝なんだろう! 百四十一人を殺して玉座に座るのか! 俺を生かせ! 鉱山へでも流せ! 俺は十年かけてでも戻ってくるぞ! それが嫌なら殺せ! どちらでもいい、さあ選べ!」
うちの兵たちの間に、ざわめきが広がっていた。
小さな老人が、騎士の手を借りて前へ出てきた。胸まである白いひげが、風で揺れている。手に、古い手巾を一枚持っていた。
「ボリス殿下。イルマを覚えておるか」
「誰だ、それは」
「ベルクハイム寮の新入生だ。去年の入学の朝、お前の手下に首を落とされた。背丈が小さかったのでな」
「知らん! そんな女は何百人もいる!」
「そうか」
辺境伯は手巾を広げて、ボリスの顔の前にかざした。
「これは鹿だ。孫が刺した。犬に見えるがな」
「犬がどうした!」
「よく聞いたぞ。わしはな、この返事を聞くために、四十年守った中立を捨てたのだ」
老人の声は、少しも上がらなかった。
私は杖を握りしめていた。
生かせば、この男は必ず戻ってくる。殺せば、百四十一人が死ぬ。ヨハンの静かな目が、私を見ていた。校庭で私の車椅子を倒したときも、轍の浅いほうへ倒して「そこです」と言った人である。
吐いて、吸った。答えが出なかった。
「ヨハン!」
ボリスが叫んだ。
頬が持ち上がって、歯が見えた。よい思いつきを見つけた子どもの顔だった。
「命令だ! 剣を取れ! その女を殺せ!」
校庭が凍った。
ヨハンの体が動いた。
顔には何の表情もなかった。腰の剣を抜いて、歩き出す。列を離れて、まっすぐ私のほうへ来る。頭より先に体が動くのだと、ベルタが校門で教えてくれた。
「止めろ!」
カーヤの声がして、弓が上がった。
「撃たないでください!」
私は叫んだ。ヨハンは歩いてくる。十歩。五歩。ラズが五歩の外から飛び出した。白い手袋が剣の柄にかかる。
「ラズ、待って!」
三歩のところで、ヨハンの足が止まった。
剣を振り上げた腕が、宙で震えている。
紋が煙を上げていた。顔の左半分の猛禽が、赤く焼けた鉄のように光っている。肉の焦げる匂いがした。ベルタのときと同じ匂いだった。
「ヨハンさん」
「いいえ」
静かな声だった。
大きな声を、この人は一度も出したことがない。今も、出さなかった。
「いいえ、殿下」
「な、何を言っている! 殺せ! 命令だぞ!」
「はい。聞こえています」
剣の切っ先が下がっていった。ヨハンの腕の筋が、音を立てて震えていた。頬の皮膚が焼けて、裂けていく。それでも顔は、地下で靴下の話をしていたときと同じだった。
「皇女殿下」
「はい」
「ケーテは、どこにいますか」
「お屋敷の洗濯場から、昨日のうちにお連れしました。今、校門の外で、カミラ先生といっしょです」
「札は」
「焼きました」
「そうですか」
ヨハンは小さくうなずいた。
「手紙を、一通、燃やされました」
「はい。覚えております」
私は上着の内側から、紙の束を取り出した。洗濯場の桶の下に隠してあったものだ。大きくて斜めの字で書いた手紙が、まだ届いていなかったぶんだけ、十一通ある。
「お返しすると、申し上げました」
カーヤが走ってきて、束を受け取った。何も言わずに、ヨハンの、剣を持っていないほうの手に押しこんだ。
ヨハンは一番上の一枚を、親指でずらした。
読むのに、少しかかった。
「字が、うまくなっていない」
「はい」
「天気のことしか、書いていない」
「はい。洗濯がよく乾くそうです」
「そうですか」
その唇の端が、ほんの少しだけ動いた。地下では、ティモにしか見破れなかった笑い方である。
「では」
ヨハンは剣を自分の足もとへ落とした。
焼けた顔を上げて、並ばされた百四十人のほうへ振り向いた。
「皆さん。家族はいますか」
静かな声が、校庭を渡った。
「皇女殿下は、紙に書いたことは守る方です。俺が保証します。名前を言ってください。妹でも、親でも、よく知らない親戚でも、札を外してもらえます。この男を生かせば、俺たちは死ぬまで、この男の命令で人を殺します。死ぬのは一度です。自分で決められるのは、今日だけです」
列がざわめいた。誰かが泣き出す声がした。
「それから、殿下」
ヨハンは私に向き直った。
「百四十一人を殺すのは、あなたではありません。この男です。間違えないでください。迷わなくて結構です」
息が、途中で止まった。
「俺ごと斬ってください」
校庭で、誰も動かなかった。
書記が一人、人垣から押し出されてきた。入学の日に受付にいたような、顔の青白い上級生だった。帳面を抱えて、私の顔を見ている。
何を聞けばいいのか、わかっている顔だった。
喉が固まった。それでも、言わなければならないのは私だった。
「番号にはいたしません」
声がかすれた。
「お一人ずつ、お名前と、遺体の送り先をうかがいます。私が全部、帳面に書かせます」
書記が、列の先頭へ歩いていった。
「遺体の送り先は」
最初の騎手の男は、口を開けて、閉じた。
「シュタイン村。母が、おります」
「お名前は」
校庭に、書記の声だけが続いた。
エゴンの番が来た。沢にいた、もう一人である。
「デトレフを刺したのは、誰ですか」
私が聞いた。痩せた男の口が開いて、声が出ないまま閉じた。頬の紋が赤くなった。
「言ってやれ、エゴン。許す」
ボリスが泥の上で笑った。
「どうせ誰も俺を斬れん。その女に聞かせてやれ」
「俺です。殿下のご命令で、刺しました。褒美に、この顔をもらいました」
「遺体の送り先は」
「ありません」
書記の筆が次へ移った。
半刻かかった。ゲルトの番が来ると、細い目の男は帳面を差し出した。
「送り先はございません。これを、殿下に」
開いたページに、丸のついた名前が並んでいる。指がある行で止まった。カロリナ。子爵の娘。杯の縁を拭いた、あの子の名前に線が引かれている。日付はあの翌日だった。
「お母上には、お伝えしましたか」
「いいえ。殿下がお伝えになるでしょう。なんでも覚えていらっしゃる方ですから」
ゲルトはほほえんで、列へ戻った。
「やめろ!」
ボリスの声が裏返っていた。
「やめろ、何をしている! 百四十一人だぞ! お前たちは俺の紋だ! 俺を守れ! おい! 誰か!」
誰も、そちらを見なかった。ヨハンの番は最後だった。お名前は、ヨハン。送り先は、ケーテ。
小さな老人が、騎士から剣を受け取った。自分の背丈の半分もある古い剣だった。縛られたボリスの前へ歩いていって、見上げた。
「座らせろ。届かん」
「はっ」
「ま、待て! 待ってくれ! アマリア! 妹よ! 助けてくれ、頼む! 死にたくない!」
両肩を押さえつけられた大きな体が、泥に膝をついた。ようやく、あごが老人の胸の高さに来た。
辺境伯が、私を見た。
「殿下。決めろ。お前の軍だ」
校門の外で、誰かが兄を呼ぶ声がした。
ヨハンが私を見て、一度だけ頭を下げた。
右の手のひらが痛かった。
「お願いします」
「校則は一つだそうだな」
辺境伯が、ボリスを見上げた。
「学内で死んでも、誰の責任にもならん。遠慮なく、やらせてもらう」
ボリスの口が、何か言いかけた形のまま開いた。
老人の剣が、上がった。
音は、一度だけだった。
少し遅れて、並んだ列が、草のように倒れた。百四十人が、一度に膝を折った。ゲルトは帳面を持つ形に手を上げたまま倒れた。
ヨハンは倒れなかった。
ゆっくり膝をついて、十一通の手紙を胸に抱えた。上着のポケットから、灰色の布きれが半分出ている。ひどく穴の空いた靴下だった。
カーヤが駆け寄って、それをつかんだ。
「馬鹿じゃないの」
カーヤの声が、知らない声になった。
「ティモのじゃない、これ。馬鹿じゃないの!」
返事はなかった。手紙を抱えた腕は、もう動かなかった。
泥の上で、グリフォンが目を開けた。翼の痛みが、少し変わったのかもしれない。金色の目が、私を見た。
《おい》
「はい」
《金具を、抜いてくれるか》
右の脇腹と両腕が、一度に痛みはじめた。指先は冷えなかった。
私は杖をついて、歩いていった。




