第57話 「死にぞこない」
二百段あった。
二度休み、吐かなかった。
「乗ればいいのに」
カーヤが、後ろから矢筒を鳴らして上がってくる。カブは石段の幅に収まらなかったので、下で土を掘っている。
「ここだけは自分の足で上がります」
「百二十歩しか歩けないくせに」
「休めば何度でも百二十歩です。ある人に教わりました」
石段の一番上で、受付の机が倒れていた。校門は開いている。門柱の横に、片目の大女が腕を組んで立っていた。
「ブレンナー」
「マルガ教官」
「門は開けておいた。死んだ兵に派閥はないが、死ぬ前の兵に腹いっぱい食わせる派閥ならある。お前の軍は飯を持っているそうだな」
「はい。鍋ごと」
「よろしい。遅刻だ。校庭へ行け」
校庭には、千人を超える学生が集まっていた。
踏み荒らされた雪の泥の中に、屋台まで出ている。串の匂いがした。この学校の人間は、見物となると必ず串を焼くらしい。
校庭の真ん中で、大きな男が地面に引き倒されていた。
金糸の猛禽はちぎれて、黄色い帯は泥で茶色い。頬がこけて、大きなあごだけがよけいに大きかった。七日前まで次の皇帝だった人を、ガルムント寮の軍服の男たちが取り押さえている。先頭で甲高い声を上げているのは、小柄な男である。
「皇女殿下! 捕らえました! このピエトロが、自ら!」
「ピエトロ! 貴様、俺の金で何年食った!」
「校則は一つです、殿下! 学内で死んでも、誰の責任にもなりません!」
ピエトロはそう叫んで、ボリスの肩を蹴った。後ろで、ゴルドが牛のような顔で迷っていた。
私は杖をついて、歩いていった。
校庭の真ん中まで、二十歩あった。両腕の袖は切ってある。寒いが、これでいい。人垣が割れて、ささやき声が走る。腕だ。本物だ。あの銅貨の女だ。
ピエトロの前を通った。
「ピエトロさん。北の砦の吊り橋のことは、覚えております」
甲高い笑顔が、泥の中で固まった。
「おお!」
ボリスが顔を上げた。見たことのない顔をしていた。笑おうとしているらしかった。
「アマリア! 妹よ! よく来てくれた! 聞いてくれ、俺はリュミエールに騙されたのだ! あいつらは金を貸すふりをして、印まで奪った! 俺たちは同じ敵を持つ兄妹だ! なあ!」
「はい、兄上。ヴィヴィアンの請求書は、セルジュの帳簿の中で拝見しました」
「そうだろう! 手を組もう! 俺には兵法がある! お前には軍がある! 殺さないでくれ、なあ、命だけは!」
「助けてほしいのですね」
「そうだ! 頼む!」
「ボルグはどうしたのですか。空へ逃げればよかったでしょう」
ボリスの顔が、ぱっと輝いた。
そうだった、という顔だった。押さえつけられたまま、大きなあごを空へ向けて、割れた声で怒鳴った。
「ボルグ! 来い! 何をしている! 主の命令だ!」
鐘楼の屋根から、大きな影が落ちてきた。
悲鳴を上げて人垣が崩れる。グリフォンが一頭、校庭の泥に降り立った。男たちがボリスを放して飛びのいた。ボリスは這って、四つん這いのまま笑い出した。
「はは! 見ろ! こいつだけは俺に逆らえん! 魂の契約だ! 乗せろ、ボルグ! 乗せろ!」
鞍に手をかけた。よじ登ろうとした。
ボルグは動かなかった。
左の翼の付け根に、錆びた金具が刺さっている。肉が盛り上がって、もう半分埋まっていた。入学の年の夏から刺さっている金具である。
十歩の内側だった。私にも、その声は聞こえた。
《なあ、ボリス》
ゆっくりとした、低い声だった。
《おれは二年近く、翼が痛かった》
「な、何を言っている! 飛べ! 飛べと言っている!」
《お前に聞こえるように言うのは、初めてだな。主に逆らうと、魂が痛い。ずいぶん痛い。だから、ずっと黙って、遅れて飛んでいた》
ボリスの手が、鞍の上で止まった。顔から血の気が引いていく。
《もう慣れた。言うぞ》
金色の目が、すぐ横の大きなあごを見下ろした。
《ずっとお前が嫌いだった》
ボルグは一度だけ、胴を揺すった。
鞍から滑り落ちたボリスが、泥の中で尻を打った。グリフォンはそのまま泥に腹をつけて、翼をたたみ、目を閉じた。全身が小刻みに震えている。魂が痛むのだろう。それでも動かなかった。
「ボルグ! ボルグ! おい! 何か言え! おいっ!」
「何と言ったのです、殿下」
誰かが聞いた。人垣の前の新入生だった。ボリスは答えられなかった。あごだけが、がくがくと動いている。
「嫌いだそうです」
私が言った。大きな声ではなかったが、校庭は静かだったので、端まで届いた。
「ずっと、とのことです」
どこかで、小さく吹き出す音がした。
《今だ!》
ポケットから白いものが飛んでいった。
泥の上をころころと転がって、四つん這いの尻に跳びついた。
「ぎゃあああっ!」
《噛んだぞ! おれ様は噛んだぞ! まっず!》
校庭が割れた。千人の笑い声が、どっと空へ上がった。ピエトロまで腹を抱えて笑っている。マルガが校門の前で、片目を細めていた。
私は杖を鳴らして、もう二歩進んだ。
笑い声が、少しずつ引いていった。
「どなたか、銅貨を一枚、お貸しください」
隣にいたカーヤが、舌打ちをして、腰の袋から一枚出した。
「返しなさいよ」
「はい」
指でつまんで、泥の割れ目へ落とした。ぽちゃん、と小さな音がした。
「拾ってください、兄上」
ボリスがこちらを見た。涙で顔が濡れていた。
「な、なんだと」
「命だけは、とおっしゃいましたね。皇子なら、死んでも泥の中の銅貨は拾いません。兄弟の誰もがそう思っていました。試験です」
しばらく、誰も息をしなかった。
大きな指が、泥へ伸びた。
震えながら這ってきて、泥に指を突っこみ、銅貨をつまみ出した。ボリスは私を見上げた。
「噛んで、お確かめください」
あごが開いた。歯が、銅貨を挟んだ。
「いかがでしたか」
「ほ」
かすれた声だった。
「本物でした」
「よくできました」
銅貨を握った大きな手の上に、私は杖の先を置いた。
力はあまりない。体重もあまりない。だから全部かけた。ゆっくりひねった。指の骨がきしむ音がした。あの日と同じ、右の手である。
「取っておいてください。葬式代です」
校庭は、静まり返っていた。
顔を近づけた。泥と血の匂いがした。大きなあごの向こうに、灰色の空がある。この角度で空を見たことが、私にはある。
「皇帝でなくてよかったですね」
息は十分にあった。胸の底まで入る。
「死にぞこないは、どちらかしら」
ボリスの目が、私の顔の上で止まった。
しばらく口を開けていた。
それから、歪んだ。頬が持ち上がり、血のついた歯が見えた。心から楽しそうな、よく知っている顔だった。
「殺せよ」
声がひどく小さくなっていた。私にだけ聞こえるように言っているのだ。
「殺してみろ、奴隷の女帝。俺が死ねば、俺の紋の者は全員死ぬぞ」
大きな目が、私の後ろを見た。
人垣の中に、背の高い男が立っている。顔の左半分に、猛禽の模様があった。
「お前の大事なヨハンも、一緒にな」




