閑話・ラズ 「左に傾いた花」
布は、はじめ、手のひらほどあった。
十一の夏に帝国行きの馬車で目を覚ましたとき、握っていたのがそれだった。血で固まって、指から離れなかった。ファルークが剥がそうとしたので、噛みついた。
名前を取り上げられた。国を取り上げられた。腕に絵を描かれた。闘技場の控えの檻で、持ち物は全部調べられた。布だけは、靴の中敷きの下に隠した。誰も、汚れたぼろきれを奪おうとはしなかった。
十五のときに一度、捨てた。
人を初めて斬った夜だった。相手は俺と同じくらいの年で、俺の剣の前で、「痛い」と言った。俺は控えの檻に戻って、中敷きの下から布を出して、溝へ投げた。何の役にも立たない。こんなものを持っているから、夜に夢を見る。
次の朝、溝に手を突っこんでいる俺を、ザラが屋根の上から見ていた。
《何を探している》
何でもない、と答えた。
《馬鹿な男だな》
あいつは、それ以上聞かなかった。
あの子はたぶん死んだ。そう決めた。あの夜は城じゅうで人が死んだ。夕方の庭をうろついていた小さな女の子が、無事だったはずがない。死んだことにしておけば、探さずにすむ。探さずにすめば、敵国の女の子の顔を思い出そうとして夜を潰すこともない。
帝国の女は、みんな同じ花を刺す。
最初の年にそれを知った。市場でも、娼館でも、将校の妻の袖でも、薄紫の鈴が三つ揺れていた。何度か足が止まった。傾きが違った。やがて、見るのをやめた。
地下を作ったのは任務のためだ。ティモが腹を減らして泣いたから飯を作った。泣いている奴を見ると、腹が立った。腹が立つから、飯を作った。理由はそれだけだと思っていた。
あの朝、井戸の裏で、血を拭かれた。
なんで傾きを確かめたのか、自分でもわからない。貧乏男爵の娘の手巾だ。洗って返すと言って持って帰り、地下の階段で、灯りにかざした。
鈴は左へ傾いていた。
偶然だと思った。左利きの女くらい、どこにでもいる。三日かけて、そう決めた。ほつれを繕いながら、何度も決めた。針を持つのは初めてで、指を四回刺した。
偶然であってくれないと困った。あの娘は銅貨を噛む娘だ。腹の立つ口をきく娘だ。俺が足の運びを教えて、まめの数を確かめた娘だ。
そのあと、あの娘が第七皇女だとわかった。
和議の城に皇族がいたことくらい、俺は知っている。七つか八つの皇女が庭に出られたことも、その夜に毒を飲んだことも、ザラに聞かされるまでもなく、計算はできた。
計算しなかった。
俺は柱に縛られて、本物の血を流す女の手を、何もせずに胸に受けた。ああいうことをする人間は、あの子のことを考えない。考えたら、できない。
だから牢で別れたときも、中洲で刃を向けたときも、俺は一度も計算しなかった。
今夜、並べた。
二枚とも、左に傾いていた。
「ああ」と答えるのに、ひどく時間がかかった。何か、言うべきことがあったはずだ。あとで言うと約束したことが、まだある。
城壁の上で、あいつは鍋の話をした。六千人分と言った。こちらが背中を丸めているのを、見なかったことにする声だった。
革の袋は、胸に戻した。
左の手袋を少しめくった。黒い根は、腕を埋めて、肩を越えて、鎖骨を這っている。カミラは指を当てずに、棒で測って、あと十五日と言った。
首の上まで来たら、目が赤くなるそうだ。
十五日あれば、大学へ行って、都へ戻って、もう一つ国を取り返すくらいはできる。
鍋を、洗うことにした。
焦がすと、カーヤに殺される。




