第56話 「手巾」
「ここでいいです。ありがとうございました」
「落ちたら、拾わないわよ」
「はい」
カーヤは階段の下へ戻っていった。
城壁の上は風が強かった。雪はやんで、北の空に星が出ている。ラズは胸壁の角に腰を下ろし、凍った畑のほうを向いていた。
ここが、この城の端である。
私は五歩手前で止まった。それより近くへ行くと、この人が立ち上がって離れてしまう。杖を胸壁に立てかけて、私も石の上に座った。
「質問をしてもいいですか」
「ああ」
「一つずつの約束でしたね。私からです。あなたの頬を切った刺客は、どこであなたを襲いましたか」
しばらく、風の音だけがした。
「国境の城だ」
「和議の城ですね」
「そうだ。夕方、母と二人で裏の回廊を歩いていた。母は俺の前に出て、刺された。俺は頬で済んだ。刺客は衛兵に追われて消えた。次は俺の番だ」
「どうぞ」
「お前は八歳のとき、どこにいた」
「父の供で、その城にいたそうです。庭に出ていたことは、今夜知りました」
ラズの肩は動かなかった。手袋の指だけが、膝の上で握られた。
「母を置いて、逃げた」
「はい」
「庭の隅に、水の涸れた小さな噴水があった。その裏で座りこんでいた。血が止まらなかった。逃げなければと思ったが、足が動かない。息をするたびに、頬から変な音がした。それで、泣いた」
「はい」
「お前の番だ」
私の番だった。息を吸って、胸のポケットに指を入れた。
《おい、そこ、おれ様の寝床だぞ》
「少し貸して」
毛玉を押しのけて、布を引き出した。鉱山でも、炭焼き小屋でも、ピピンはこの布の上で寝ていた。白い毛がたくさんついている。何度も洗って縮んだ、月鈴草の手巾である。
「私の母は、左利きでした」
私は手巾を、膝の上で広げた。
「侍女から聞いたことがあります。だから、ふつうの人とは針の向きが逆になるのです。帝国じゅうの女が同じ花を刺しますが、三つの鈴は、みんな右へ傾きます。私の母のは、左へ傾きます」
ラズは動かなかった。
「母が刺したものは、もうこの一枚しか残っていません。もう一枚は和議の夜になくしたそうです。乳母が叱られたと、それだけ覚えていた人がいました」
風が、手巾の端をめくった。
「井戸の裏で、あなたはこの花に指を止めました。私は、ありふれた花だと言いました」
「言った」
「傾きまでは、見なかったでしょう」
「見た」
低い声だった。
ラズの右手が、自分の胸もとに入っていった。首にかけた札の紐を引くと、黒く手垢のついた札と一緒に、小さな革の袋が出てきた。手袋の指が太すぎて、口の紐がなかなか解けない。
初めて見る袋だった。
袋の中から、色の抜けた小さなものをつまみ出した。
「見たが、信じなかった。信じたくなかった。あの子は死んだと決めていた」
ラズはそれを石の上に置いた。自分は五歩、後ろへ下がった。
私は杖をつかんで、這うように近づいた。
布と呼ぶのもためらわれるものだった。半分は崩れて、糸の網のようになっている。血のあとはとうに黒くなって、薄い紫はほとんど残っていない。
それでも、鈴が三つ見えた。
手巾を並べて、置いてみた。
どちらの鈴も、左へ傾いていた。
指先の感覚が、なくなった。右の脇腹が、遠くで鳴っている。
誰かの泣き声がする。
私の一番古い記憶は、それだけだ。日の暮れた庭の隅で、子どもが泣いている。顔は思い出せない。十年間、夢に見てきた。何度も、何度も見た。
あの声の主に、私は「死ぬなら、端で死ね」と言われて、またいで行かれた。
「あなただったのですね」
「ああ」
「私は、あなたの顔を覚えていません」
「俺も、お前の顔は覚えていない。暗かった。小さかった。声だけだ」
「なんと言いましたか」
「知っているだろう」
「あなたの口から聞きたいのです」
ラズの喉が動いた。
「痛いの、と言った」
星の下で、ピピンが珍しく何も言わなかった。
私は石の上に手をついて、顔を上げた。五歩先に、左の頬がある。傷の縁の紫が、星明かりでも見えた。十年前に私の袖を赤くした傷だ。
手が、勝手に上がった。
「アマリア」
ラズの肩が、引いた。
手袋の下で、黒い根が首の付け根まで来ている。襟の陰にそれが見えた。この人の肌に触れたら、私の心臓は二度と動かない。カミラは嘘をつかない。
手は、頬に届く前の宙で止まった。
指一本ぶんの隙間、などという距離ではなかった。五歩ある。私の手は、誰もいないところを押さえていた。
「あのとき」
声が、変にかすれた。
「手当ての途中で、私は連れていかれたのでしょう。庭の隅で文官に抱き上げられて、それきり、毒を飲みましたから。あなたに聞いたことへの答えを、聞いていません」
「答えなかった。泣いていた」
「今なら、答えられますか」
「何をだ」
吐いて、吸った。冬の空気が、胸の底まで入った。シオンの肝が、私の血を回している。
「痛いの」
十年前の八歳の声とは、たぶん少しも似ていなかった。
ラズは目を見開いて、それから下を向いた。白い手袋の手が、持ち上がりかけて、自分の膝に戻った。大きな背中が丸くなった。この人が背を丸めるのを、私は初めて見た。
長いことかかった。
「ああ」
十年分の遅れで、低い声が言った。
「痛かった」
《おい》
ポケットの縁から、ピピンの小さな声がした。
《おれ様、今日はあいつの尻は噛まない。今日だけだぞ》
「ええ。今日だけね」
城壁の下で、見張りの交代の鐘が鳴った。二枚の布を、私はどちらも動かさなかった。風で飛ばないように、ピピンがその上に乗った。
階段を駆け上がってくる足音がした。辺境伯の騎士だった。
「殿下! 帝都から早馬です! リュミエールが帝都の門を閉めました! ボリスは借金のかたに帝位の印を取られて、着の身着のまま北へ逃げたそうです!」
「どこへ」
「大学です! 帝国軍事大学に、たてこもりました!」
私は杖を取った。
あの二百段の上に、あの校庭がある。
「ラズ」
「ああ」
「鍋の用意をお願いします。六千人分です」
「どこへ持っていく」
「学校へ。忘れ物を返していただきに行きます」




