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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第55話 「偽の紋」

《右だ》


「手紙には、左の内ポケットと書いてあるわ」


《右だ! 匂いでわかる!》


 リシャールの軍服は、私の膝の上にたたんである。埋めるときに、ドレスラー領の騎士が脱がせて渡してくれた。左の内ポケットに手を入れると、糸くずしか出てこなかった。右に手を入れると、固焼きの菓子が一枚出てきた。


「右でしたね、殿下」


 ピピンは菓子を見て、しばらく動かなかった。それから端をかじった。


《固い》


「固いのが好きなのでしょう」


《うん》


 ぼりぼりと音がした。私はそれを聞きながら、ドレスラー家の城の窓から雪を見ていた。


 白骨峠を越えた六千人は、この北の領地に落ち着いている。リュミエールの四万は南へ下がった。帝都へ向かったという噂だ。追ってくる余裕がなくなったらしい。


「殿下。関所で変なものを捕まえたぞ」


 辺境伯が戸口から首を出した。矢傷の包帯が胸まで見えている。


「変なものとは」


「馬車が三台だ。金貨の箱に、帝都の財務の帳簿と、リュミエールの裏帳簿を山積みにしておる。ザハリアの妃の礼状まで挟まっておったぞ。南へ抜けるつもりが、雪で道を間違えて、うちの関所に来た。乗っておったのが、これだ」


 騎士に両腕を取られて、灰色の外套《がいとう》の男が入ってきた。四十半ばの、よく太った男である。顔の右半分に、薄青い紋があった。


 百合を二本交差させた模様だ。後宮で育った者なら、誰でも知っている。


 十年前に死んだ正妃の紋である。


「これはこれは、第七皇女殿下」


 男は腕を取られたまま、きれいな礼をした。


「財務官のセルジュでございます。お噂はかねがね。民を集めて女帝を目指しておられるとか。まことに結構なことで、帝国の財政についてご相談があれば、いつでも」


「奇跡の文官ですね」


「お恥ずかしい」


「兄から聞きました。正妃様の紋の者は三十二人いて、三十一人があの夜に倒れました。主が死ねば紋の者も死にます。例外はないそうです」


「はい。私も死にかけました。神のお恵みでございます」


「ボリス殿下の財務を預かっておいでなのに、なぜ南へ」


「帝都は、もう三日分の金もございません。沈む船に帳簿だけは残せませんので、安全なところへお移ししようと」


「リュミエールへですか」


「さて、どちらでございましょう」


 丸い顔は、まったく汗をかいていなかった。


 杖をついて、私は男の前まで歩いた。七歩である。


「少し、失礼します」


 指を伸ばして、男の頬《ほお》に触れた。


 セルジュが初めてまばたきをした。私の指先は、まだ黒いままだ。その指で、百合の模様を上からなぞった。


 ベルタの紋を、私は十年見てきた。寝台から手を伸ばして、幼いころに何度も触った。皮膚の下に沈んで、ごつごつと盛り上がっていた。私の両腕にあるものも、同じである。


 この百合は、平らだった。


「おや」


 井戸の裏で、一度やったことがある。あのとき指が震えたのを覚えている。今日は震えなかった。


「カミラ先生。決闘のときの水は、まだありますか」


「瓶の底に少しね」


 壁際で包帯を巻いていたカミラが、顔も上げずに答えた。


「立会いの作法にしては匂いが妙だったから、取っておいたの。何に使うの」


「顔を洗ってさしあげようと思います」


 セルジュの表情が消えた。腕を振りほどこうとして、騎士に押さえつけられた。カミラが小瓶の栓を抜く。透明な水が頬にかかると、百合の花びらがゆがんで、薄青いしずくになってあごから落ちた。


 部屋じゅうが静かになった。


 辺境伯が、白いひげの間で小さく息を吐いた。


「十年か」


「十年でございますな」


 答えたセルジュの声は、もう文官の声ではなかった。濡れた頬を肩でぬぐって、肩をすくめた。


「いや、よくお気づきに。あのお水は痛みやすいので、次からは冷やしておかれるとよろしいですよ」


「あなたはリュミエールの方ですね」


「生まれは商家です。計算が得意だったもので」


「和議の夜のことを話してください」


「私の命のお値段は」


「話の値打ちによります」


「これは手厳しい」


 男は椅子を要求し、座って、足を組んだ。


「正妃様は、和議に本気でした。子のないお方ですから、誰の味方でもない。皇帝陛下もあの方の話だけは聞く。つまり、邪魔だったのです。私は三年かけて正妃様の文官にもぐりこみ、お好きな菓子の仕入れを任されました。あとは簡単です。菓子に一滴。同じ夜に、ザハリアの王妃様が王子を始末する手はずでした。城に死人が二つ出れば、両国は互いを疑います」


「それで戦になった」


「はい。十年、両方に麦を貸しました。よい商いでした」


 カーヤが壁のそばで弓を握っていた。辺境伯が手を上げて、それを止めた。


「私も、その菓子を食べました」


「ええ、あれは計算違いでございました。小さな皇女殿下にまで分けてしまわれるとは、正妃様もお優しい」


「なぜ私が、あの部屋にいたのですか。八歳の側妃の子が、正妃様の部屋に呼ばれるとは思えません」


「ああ、それはですね」


 セルジュは思い出すように天井を見た。


「迷子でいらしたのです。日の暮れる前に、庭で。乳母が大騒ぎをしましてね。庭の隅で殿下を見つけて、抱いてお連れしたのは私です。大事な和議の城で皇女がいなくなっては困りますから。正妃様が不憫がって、お部屋でお菓子をくださった」


 息を吸ったところで、喉が止まった。


 私は八歳より前を覚えていない。


「庭の隅で」


「はい。袖が血で真っ赤でしたので、私も肝《きも》を冷やしました。お怪我はないのです。おたずねすると、殿下はこうおっしゃいました。泣いている子がいたの、痛いのって聞いたの、布をあげたの」


 塔の夜に聞いた話が、頭の中で音を立てて合った。顔の傷に布を押しつけた小さな女の子。泣いていた男の子。


 部屋のどこかで、薪《まき》がはぜた。


 戸口の横で、がたん、と音がした。


 ラズが立っていた。五歩より近くには来ない、いつもの距離である。白い手袋の手が、戸枠をつかんでいた。


 顔を見た。


 琥珀《こはく》色の目が、私ではなく、私の胸のポケットを見ていた。白い手袋の右手が、ゆっくりと頬へ上がっていく。


「布の刺繍《ししゅう》までは存じませんが、なにぶん十年も前の」


 セルジュの声が続いていた。


 ラズは何も言わなかった。頬の傷に指を当てたまま背を向けて、廊下へ出ていった。足音が、一度も急がずに遠ざかっていく。


《おい》


 ピピンが、菓子のかけらを口につけたまま、ポケットから顔を出した。


《あいつ、変だぞ。あんな顔、見たことない》


 私は杖を握りなおした。ここから城壁の上まで、階段を入れて、百二十歩では足りない。


「カーヤさん。肩を貸してください」


「嫌だけど、どこまで」


「端までです」

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