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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第54話 「リシャール」

「私が道案内をしましょう」


 軍議の焚き火の前で、リシャールが手を挙げた。


 誰も笑わなかった。笑う余裕がなかったのである。


 六千人を北のドレスラー領へ逃がすには、白骨峠を越えるしかない。峠の道は途中で二つに分かれる。右が峠、左は行き止まりの涸れ谷だ。騎兵に追いつかれれば、荷車の列は半日で全滅する。


「殿下。お気持ちはありがたいのですが、今はふざけている場合では」


「ふざけてはいません」


 リシャールは地図を広げた。上下を確かめて、ひっくり返して、また確かめた。


「皆様もご存じのとおり、私は三回に一回は迷子になります」


「残りの二回は、迷子になる途中だな」


 辺境伯が白いひげの間から言った。


「はい。それは、我が国の兵も全員知っています。子どものころから、将軍たちは私が右と言ったら左へ行くのです。王宮の庭で鬼ごっこをしても、全員が私の逆へ逃げます」


「それがどうした」


「私が捕まったふりをして、追ってくる騎兵の将に申し上げます。第七皇女の軍は、分かれ道を右へ行きました。峠はこちらです、私がご案内します、と」


 焚き火がはぜた。


 カーヤが顔を上げた。ラズの指が、膝の上で止まった。


「本当のことを、言うのですか」


 私は聞いた。


「はい。生まれて初めて、地図の通りのことを申し上げます」


 リシャールは穏やかに笑った。


「将は、必ず左へ行きます」


 誰もすぐには何も言わなかった。小さな老人だけが、肩を揺すりはじめた。


「お前、馬鹿ではないな」


「いいえ、馬鹿です。馬鹿だから使えるのです」


「お待ちください。捕まれば、あなたは裏切り者です。ヴィヴィアンは、どうするのです」


「妹は、私を殺しません。殺す値打ちもないと思っています。何度も鬼ごっこをしましたから」


「嘘がばれたあとは」


「そのときはそのときです。あの、皇女殿下」


 青い目が、まっすぐ私を見た。あの日、飼育場で桶を持ったまま、心配そうに眉を下げた目だった。


「私はあなたのお薬を、毎日、不思議だと思っていました。良い医師を、と申しました。あのとき、もっとしつこく言えばよかったのです。小麦を送ったつもりでいました。あれは、借金を増やす麦でした。私の親切は、全部、妹の役に立ちました」


「殿下は、何もご存じなかったのです」


「はい。それが、私の罪です。ですから、最後くらいは合っている道を指さしたいのです。すみません」


 リシャールは次の朝早く、白い馬ではなく、荷を引いていた老いた騾馬《らば》に乗って、尾根を下りていった。鞍《くら》から二度落ちた。


《おい! 二番目!》


 ピピンが、ポケットの縁に乗り出した。


《帰ったら、菓子だぞ! 固いやつだぞ! 忘れるなよ!》


「魔獣が、何か申しましたか」


 リシャールが振り向いて、大きな声で聞いた。


「菓子を忘れるな、と」


「はい、承知しました!」


 手を振って、また落ちた。


 その日の昼、白骨峠の分かれ道が見えるところまで、荷車の列が来た。


「来たわ。騎兵、三千」


 カーヤが、岩の上から低い声を出した。


 下の谷を、銀の列が駆けてくる。その先頭のあたりに、騾馬が一頭、ひどく遅れそうになりながら混じっていた。金色の髪が、ずっと右を指さしていた。


「右だ! 皆さん、こちらです! 右が峠です!」


 風に乗って、かすかに聞こえた。


 先頭の将が、馬上で何か叫んだ。分かれ道で手を上げ、左を指した。


 三千の騎兵が、一斉に左へ折れた。


 カーヤの口が、ゆっくり開いた。


「嘘でしょ」


「行きましょう。カブ、列の最後につくわ」


 涸れ谷は、奥へ半日行かなければ行き止まりに気づかない。六千人の足には十分である。私は列の最後尾にいた。ラズが白い手袋で剣を持って、私の五歩前を歩いている。五歩より近くへは来ない。


 夕方、峠の頂上のすぐ手前に、古い石橋があった。


 最後の荷車が渡りきった。私はカブの背から降りた。カブの重さでは、この橋は渡れない。下を掘って向こう側へ回るという。


 杖をついて、橋へ足をかけた。


 三十歩ある。


「ねえ、聞いて」


 後ろで声がした。


 息が止まった。


 振り向くと、谷の縁の岩の上に、蜂蜜《はちみつ》色の髪が立っていた。十騎ほどの護衛を連れて、白い馬を降りている。手に、短い弩を持っていた。


「やっぱり。みんな左へ行ったのに、わたし、変だなって思ったの。お兄様、今朝、ちゃんと地図の向きを確かめてたんだって。おかしいじゃない?」


 距離は四十歩ほどだった。


「ヴィヴィアン」


「ねえ、ひどいと思わない? わたしの兄を、あんなふうに使って。素敵だけど」


 護衛の後ろから、二人の兵に腕を取られて、泥だらけの青年が引きずられてきた。騾馬はどこにもいない。片方の靴もない。


「殿下!」


「ああ、皇女殿下。すみません」


 リシャールの顔は腫れていた。それでも穏やかに、頭を下げようとした。


「右で合っていましたか」


「アマリア、走れ!」


 ラズの声がした。五歩の外から、ラズが剣を抜いて飛び出そうとしている。橋の向こうの騎士たちが、弓を構えた。


 走れない。


 私の足は、走るようにはできていない。あと三十歩、杖で歩くだけだ。


「ごめんね。話してあげたかったけど」


 ヴィヴィアンは、片目をつぶって弩を持ち上げた。


「その足じゃ、ちょっと遅いみたい。心臓じゃないから、平気よ。足を止めるだけ。ネリネさんが悲しむから、肝《きも》も撃たないよ。ね」


 狙いが、下がった。私の右の腰へ。


「ヴィヴィアン」


 穏やかな声がした。


 リシャールが、歩いていた。


 どうやったのか、兵の腕を抜けていた。たぶん転んだのだと思う。顔に新しい泥がついている。片足を引きずりながら、急ぐでもなく、岩の上を、妹と私の間に入ってきた。


「お兄様、どいて」


「どきません」


「ねえ、お兄様。遊びじゃないのよ」


「はい」


 リシャールは、ゆっくり両手を広げた。


 校庭で、ボリスの剣の前に立ったときと、同じ立ち方だった。


「どきません。すみません」


 ヴィヴィアンは、小さく首をかしげた。


「そっか」


 弦の鳴る音がした。


「ごめんね」


 金色の髪が、揺れた。


 リシャールは、自分の胸を見下ろした。短い矢羽根が、軍服の真ん中から生えていた。金の飾りの一つもない軍服だった。不思議そうな顔をして、それからこちらを見た。


「おや」


 膝が折れた。


「殿下!」


 杖を捨てた。走れない足で、走った。三歩で転んで、這《は》った。ラズが追い越していった。岩を蹴って、ヴィヴィアンの護衛の二人を一度に斬り、もう一人を崖へ蹴り落とした。橋の向こうから矢が飛んで、銀の兵が崩れた。


 石の上で、リシャールの肩をつかんだ。


 温かかった。青い目が、私を探している。


「皇女、殿下」


「はい」


「私が、何か、間違えましたでしょうか」


 血が、口の端からあふれた。


 喉が固まって、声がすぐには出なかった。吐いて、吸った。


「いいえ」


「道は」


「はい」


「道は、合っていましたか」


 峠の上で、最後の荷車の鈴が鳴っている。六千人が、向こう側へ下りていく。


「はい」


 私は言った。


「合っています、殿下」


「ああ」


 リシャールは笑った。


「よかった。初めて」


 そのまま、笑っていた。


 青い目は空を見ていた。方角は、たぶん合っていなかった。


《おい》


 ポケットから、白い毛玉が這い出した。転がって、リシャールの胸の上に乗った。


《おい。二番目。菓子は。固いやつだって、言っただろ。おい。おれ様は腹が減ってるんだ。おい》


 答えはなかった。


 毛玉は軍服のポケットにもぐりこんで、しばらく動かなかった。それから、割れた固焼きの菓子を一かけら、口にくわえて出てきた。


 食べなかった。


《行くぞ》


 くぐもった声で、それだけ言った。


 ラズが岩の向こうに立っていた。白い手袋が、赤くなっている。


「逃げられた」


「はい」


 谷の縁の、ずっと上で、白い馬が遠ざかっていく。蜂蜜色の髪が一度だけ振り向いて、こちらへ手を振った。


 ラズは赤くなった手袋を見下ろした。


「借りたままだ」


 誰も、返事をしなかった。


 リシャールの胸のポケットに、折りたたんだ紙の角が見えた。


 地図だった。その下に、封をした手紙がある。


 泣かなかった。泣き方は、まだ知らない。


 封筒の宛名は、丁寧な字で書いてあった。


 上下が、合っていた。

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