第53話 「手袋」
「三日で肩まで来るわね」
カミラはラズの左腕を灯りにかざして言った。
黒い線は手首から肘へ、木の根のように枝を広げて、皮膚の下でゆっくり動いている。
「魂の契約は、念話だけを通すものじゃないわ。ザラの体に打たれたものが、この人のほうにも流れてくるのよ。契約を切る方法は知っている?」
「ない」
ラズが答えた。寝台代わりの荷車に座って、額に汗を浮かべている。
「どちらかが死ぬまで切れん」
「でしょうね。熱は」
「ある」
「眠れているの」
「眠らん」
「眠りなさい。腕を持っていかれる前に、頭を持っていかれるわよ」
「ザラの声は聞こえますか」
私が聞くと、ラズは首を横に振った。
「ゆうべから、言葉になっていない」
二日目の夜、城跡の見張りが鐘を叩いた。
黒いものだけが、尾根を越えて来た。リュミエールの兵は後ろに控えているらしい。
「北の壁だ! 鴉が来るぞ!」
「火を絶やすな! 角のやつは足を狙え!」
私はカブの背から、指示を出していた。声が届く十歩の内に入ったものには、話しかける。入らないものには、祈るしかない。
「あなたは、どこから来たの! 牙犬ね! 耳を立てて!」
《痛い! 痛い痛い!》
「こちらではなくて、銀の鎧を噛んで!」
《噛む!》
何頭かは向きを変えた。ほとんどは変えなかった。
ラズが、左腕を布で縛りつけて、北の壁の上で剣を振っている。
「おい、将軍! 腕が黒いぞ! 下がれ!」
「黙って撃て」
焚き火の炎が、一斉に横へ倒れた。
何か大きなものが、空から落ちてきた。壁の石が飛び散り、煙の中に、馬より大きな黒い影が立ち上がる。
翼があった。
羽根は半分ほどむしれて、骨が突き出ている。肩と背中がいびつに膨らみ、右の後ろ足を引きずっていた。口を開けると、黒い泡がこぼれた。金色だったはずの目は、濁った赤に変わっていた。
兵が二人、一度の爪で吹き飛んだ。
「でかいぞ! 新手だ!」
「撃て!」
「翼を狙え! 飛ばせるな!」
カブが足を止めて、がたがた震えだした。私は背の上で、杖を握りしめた。
右の後ろ足。
あの足に、私は銀葉草を詰めた。
《おい》
ピピンの声が、ポケットで小さくなった。
《おい、あれ》
「カブ。お願い。もう十歩、前へ」
《いやだ! こわい!》
「お願い。あとで耳の後ろを、気のすむまでかくわ」
カブは泣きそうな息を吐いて、一歩ずつ前へ出た。七歩。八歩。
黒い獣の頭が揺れている。兵を噛み、壁を砕き、また頭を振っている。
九歩。十歩。
《たすけて》
低い声だった。
低くて、かすれた女の声だった。
《たすけて。痛い。ああ、くそ。熱い。たすけて》
息が止まった。
《たすけて》は、ずっと聞いていた。辛口の、あの声で聞くのは初めてだった。
「ザラ」
名前を呼んだ。赤い目がこちらを向いた。
「ザラ! 私です! 小さな人間です!」
《誰だ。誰だ。痛い。噛むぞ。首を噛みちぎるぞ》
「噛まないで。私、血が少ないの」
大きな頭が、止まった。
壁の上から、誰かが飛び降りた。
「ザラ!」
ラズだった。
剣を捨てていた。崩れた石を踏んで、まっすぐ獣の前へ走っていく。縛った左腕の布が破れて、黒い根が肩を越えているのが見えた。
「やめろ、ラズ!」
辺境伯の騎士が叫んだ。
ラズは獣の鼻の前に立って、両手を下げた。
「俺だ」
「わかるか。俺だ。肉を持ってきた、馬鹿な男だ」
獣の赤い目が揺れた。爪が持ち上がる。ラズは動かなかった。
《お前》
《お前は。おい。来るなと、言った》
割れた声だった。
《馬鹿な男。逃げろ。噛む。私は噛むぞ。逃げろ。たすけて。逃げろ》
「聞こえたか!」
ラズが、振り向かずに叫んだ。
「アマリア! 何と言っている!」
この人には、もう言葉として届いていない。
「逃げろと言っています! 来るなと! 噛むから逃げろと!」
ラズの背中が、一度だけ揺れた。
「そうか」
尾根の上で高い角笛が鳴った。
獣の体が跳ねた。目の赤が濃くなり、巨大な爪がラズの胸へ振り下ろされた。
ラズは左腕で受けた。肉の裂ける音がして、大きな体が石の上を転がった。獣はもう見向きもせず、角笛のほうへ、よろめきながら飛び去っていった。
「ラズ!」
カブの背から落ちた。落ち方は覚えていた。杖がどこかへ行った。
這った。音を立てない這い方は教わったが、今は音を立てて這った。ラズは肘をついて、起き上がろうとしていた。裂けた腕から流れる血が、黒かった。
「動かないでください! 血を止めます!」
手を伸ばした。袖を破って、傷へ当てようとした。
「触るな」
短い声だった。
遅かった。
私の指が、ラズの腕の、黒い血に触れていた。
そこから、何かが入ってきた。
知っている。
甘く腐った匂いが、指から肘へ、肩へ駆け上がった。十年飲んで、九日かけて吐き出したものだ。喉が閉じた。心臓が一度大きく打って、次の一回が来なかった。
目の前が白くなった。
「馬鹿か!」
大きな手が、私の手首ではなく、袖をつかんだ。袖ごと、石の上へ引き剥がされた。
「カミラ! 来い! カミラァ!」
その声を、ずいぶん遠くで聞いた。
胸を、誰かがこぶしで叩いた。二度。三度。息が、ひゅっと入った。
指の先が、黒くなっていた。爪の根もとから第一関節まで、墨に浸したように。カミラの顔が真上にあって、私の指に銀葉草の汁を塗りたくっている。
「息を吐きなさい! そう。吸って!」
吐いた。吸った。
しばらくして、カミラが手を止めた。袖で額の汗を拭いて、私の黒い指を灯りに向けた。
「よく聞きなさい、二人とも」
救命学の教室と、同じ声だった。
「あなたは十年分の黒露を、九日で出したばかりよ。体がまだ覚えているの。ほんの少し入っただけで、これ。次にこの男の血か肌の毒に触れたら、心臓は戻らないわ」
「血でなければ」
「肌からも出ているわ。根がもう肩を越えている。汗でも同じよ」
ラズは一間ほど離れた石の上に座っていた。カミラの助手が腕を縫おうとして、ラズの声に止められていた。
「革の手袋をくれ。自分で縫う」
「治す方法は」
私はカミラを見た。カミラは、薬草の袋の口を閉じた。
「元を断つしかないわね。この毒が作られているところを」
「それまでは」
「この男に、触らないことよ」
朝が来た。
私は壁際で、ようやく見つかった杖を膝に置いていた。
少し離れたところに、ラズがいた。縫い終えた左腕を布で巻いて、自分の両手を眺めている。
「革の手袋は、あったのですか」
「指の裂けたものしかない」
「私の指も、これ以上は黒くしたくありません」
「ああ」
「あの」
穏やかな声がした。
リシャールが、片足だけ靴を履いて、おずおずと立っていた。胸のポケットから、ひどく汚れた白いものを取り出している。
「すみません。こんなものしかありません。立会いのときに、妹に渡された手袋なのです。洗いましたので、あの、水は普通の水です」
ラズは白い手袋を見た。
自分の腕の紋を洗い流した手がはめていたものを、長いこと見た。
「お前は、馬鹿か」
「はい。よく言われます」
ラズは手袋を受け取った。大きな手には小さすぎて、指の付け根のところで布が突っ張った。無理に引くと、縫い目が少し鳴った。
その手のまま、立ち上がった。歩いてくる。
私の前で止まった。
一歩の距離だった。
朝の光が、傷のある頬に当たっていた。琥珀色の目が、私の黒くなった指先を見た。
白い手袋の右手が、ゆっくり持ち上がった。
私の頬の横で、止まった。
指一本ぶんの隙間があった。手袋の中の熱が、そこから伝わってくる気がした。
「あとで」
ラズが言った。
「はい」
「あとで、言う」
「はい。聞きます」
手が、下りていった。
手袋の指先に、もう黒い染みがにじんでいた。




