↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

60/79

第53話 「手袋」

「三日で肩まで来るわね」


 カミラはラズの左腕を灯りにかざして言った。


 黒い線は手首から肘へ、木の根のように枝を広げて、皮膚の下でゆっくり動いている。


「魂の契約は、念話だけを通すものじゃないわ。ザラの体に打たれたものが、この人のほうにも流れてくるのよ。契約を切る方法は知っている?」


「ない」


 ラズが答えた。寝台代わりの荷車に座って、額に汗を浮かべている。


「どちらかが死ぬまで切れん」


「でしょうね。熱は」


「ある」


「眠れているの」


「眠らん」


「眠りなさい。腕を持っていかれる前に、頭を持っていかれるわよ」


「ザラの声は聞こえますか」


 私が聞くと、ラズは首を横に振った。


「ゆうべから、言葉になっていない」


 二日目の夜、城跡の見張りが鐘を叩いた。


 黒いものだけが、尾根を越えて来た。リュミエールの兵は後ろに控えているらしい。


「北の壁だ! 鴉《からす》が来るぞ!」


「火を絶やすな! 角のやつは足を狙え!」


 私はカブの背から、指示を出していた。声が届く十歩の内に入ったものには、話しかける。入らないものには、祈るしかない。


「あなたは、どこから来たの! 牙犬ね! 耳を立てて!」


《痛い! 痛い痛い!》


「こちらではなくて、銀の鎧を噛《か》んで!」


《噛む!》


 何頭かは向きを変えた。ほとんどは変えなかった。


 ラズが、左腕を布で縛りつけて、北の壁の上で剣を振っている。


「おい、将軍! 腕が黒いぞ! 下がれ!」


「黙って撃て」


 焚き火の炎が、一斉に横へ倒れた。


 何か大きなものが、空から落ちてきた。壁の石が飛び散り、煙の中に、馬より大きな黒い影が立ち上がる。


 翼があった。


 羽根は半分ほどむしれて、骨が突き出ている。肩と背中がいびつに膨らみ、右の後ろ足を引きずっていた。口を開けると、黒い泡がこぼれた。金色だったはずの目は、濁った赤に変わっていた。


 兵が二人、一度の爪で吹き飛んだ。


「でかいぞ! 新手だ!」


「撃て!」


「翼を狙え! 飛ばせるな!」


 カブが足を止めて、がたがた震えだした。私は背の上で、杖を握りしめた。


 右の後ろ足。


 あの足に、私は銀葉草《ぎんようそう》を詰めた。


《おい》


 ピピンの声が、ポケットで小さくなった。


《おい、あれ》


「カブ。お願い。もう十歩、前へ」


《いやだ! こわい!》


「お願い。あとで耳の後ろを、気のすむまでかくわ」


 カブは泣きそうな息を吐いて、一歩ずつ前へ出た。七歩。八歩。


 黒い獣の頭が揺れている。兵を噛み、壁を砕き、また頭を振っている。


 九歩。十歩。


《たすけて》


 低い声だった。


 低くて、かすれた女の声だった。


《たすけて。痛い。ああ、くそ。熱い。たすけて》


 息が止まった。


 《たすけて》は、ずっと聞いていた。辛口の、あの声で聞くのは初めてだった。


「ザラ」


 名前を呼んだ。赤い目がこちらを向いた。


「ザラ! 私です! 小さな人間です!」


《誰だ。誰だ。痛い。噛むぞ。首を噛みちぎるぞ》


「噛まないで。私、血が少ないの」


 大きな頭が、止まった。


 壁の上から、誰かが飛び降りた。


「ザラ!」


 ラズだった。


 剣を捨てていた。崩れた石を踏んで、まっすぐ獣の前へ走っていく。縛った左腕の布が破れて、黒い根が肩を越えているのが見えた。


「やめろ、ラズ!」


 辺境伯の騎士が叫んだ。


 ラズは獣の鼻の前に立って、両手を下げた。


「俺だ」


「わかるか。俺だ。肉を持ってきた、馬鹿な男だ」


 獣の赤い目が揺れた。爪が持ち上がる。ラズは動かなかった。


《お前》


《お前は。おい。来るなと、言った》


 割れた声だった。


《馬鹿な男。逃げろ。噛む。私は噛むぞ。逃げろ。たすけて。逃げろ》


「聞こえたか!」


 ラズが、振り向かずに叫んだ。


「アマリア! 何と言っている!」


 この人には、もう言葉として届いていない。


「逃げろと言っています! 来るなと! 噛むから逃げろと!」


 ラズの背中が、一度だけ揺れた。


「そうか」


 尾根の上で高い角笛が鳴った。


 獣の体が跳ねた。目の赤が濃くなり、巨大な爪がラズの胸へ振り下ろされた。


 ラズは左腕で受けた。肉の裂ける音がして、大きな体が石の上を転がった。獣はもう見向きもせず、角笛のほうへ、よろめきながら飛び去っていった。


「ラズ!」


 カブの背から落ちた。落ち方は覚えていた。杖がどこかへ行った。


 這《は》った。音を立てない這い方は教わったが、今は音を立てて這った。ラズは肘をついて、起き上がろうとしていた。裂けた腕から流れる血が、黒かった。


「動かないでください! 血を止めます!」


 手を伸ばした。袖を破って、傷へ当てようとした。


「触るな」


 短い声だった。


 遅かった。


 私の指が、ラズの腕の、黒い血に触れていた。


 そこから、何かが入ってきた。


 知っている。


 甘く腐った匂いが、指から肘へ、肩へ駆け上がった。十年飲んで、九日かけて吐き出したものだ。喉が閉じた。心臓が一度大きく打って、次の一回が来なかった。


 目の前が白くなった。


「馬鹿か!」


 大きな手が、私の手首ではなく、袖をつかんだ。袖ごと、石の上へ引き剥《は》がされた。


「カミラ! 来い! カミラァ!」


 その声を、ずいぶん遠くで聞いた。


 胸を、誰かがこぶしで叩いた。二度。三度。息が、ひゅっと入った。


 指の先が、黒くなっていた。爪の根もとから第一関節まで、墨に浸したように。カミラの顔が真上にあって、私の指に銀葉草の汁を塗りたくっている。


「息を吐きなさい! そう。吸って!」


 吐いた。吸った。


 しばらくして、カミラが手を止めた。袖で額の汗を拭いて、私の黒い指を灯りに向けた。


「よく聞きなさい、二人とも」


 救命学の教室と、同じ声だった。


「あなたは十年分の黒露《こくろ》を、九日で出したばかりよ。体がまだ覚えているの。ほんの少し入っただけで、これ。次にこの男の血か肌の毒に触れたら、心臓は戻らないわ」


「血でなければ」


「肌からも出ているわ。根がもう肩を越えている。汗でも同じよ」


 ラズは一間ほど離れた石の上に座っていた。カミラの助手が腕を縫おうとして、ラズの声に止められていた。


「革の手袋をくれ。自分で縫う」


「治す方法は」


 私はカミラを見た。カミラは、薬草の袋の口を閉じた。


「元を断つしかないわね。この毒が作られているところを」


「それまでは」


「この男に、触らないことよ」


 朝が来た。


 私は壁際で、ようやく見つかった杖を膝に置いていた。


 少し離れたところに、ラズがいた。縫い終えた左腕を布で巻いて、自分の両手を眺めている。


「革の手袋は、あったのですか」


「指の裂けたものしかない」


「私の指も、これ以上は黒くしたくありません」


「ああ」


「あの」


 穏やかな声がした。


 リシャールが、片足だけ靴を履いて、おずおずと立っていた。胸のポケットから、ひどく汚れた白いものを取り出している。


「すみません。こんなものしかありません。立会いのときに、妹に渡された手袋なのです。洗いましたので、あの、水は普通の水です」


 ラズは白い手袋を見た。


 自分の腕の紋を洗い流した手がはめていたものを、長いこと見た。


「お前は、馬鹿か」


「はい。よく言われます」


 ラズは手袋を受け取った。大きな手には小さすぎて、指の付け根のところで布が突っ張った。無理に引くと、縫い目が少し鳴った。


 その手のまま、立ち上がった。歩いてくる。


 私の前で止まった。


 一歩の距離だった。


 朝の光が、傷のある頬《ほお》に当たっていた。琥珀《こはく》色の目が、私の黒くなった指先を見た。


 白い手袋の右手が、ゆっくり持ち上がった。


 私の頬の横で、止まった。


 指一本ぶんの隙間があった。手袋の中の熱が、そこから伝わってくる気がした。


「あとで」


 ラズが言った。


「はい」


「あとで、言う」


「はい。聞きます」


 手が、下りていった。


 手袋の指先に、もう黒い染みがにじんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。