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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第51話 「たすけて」

「固まれ! 荷車を倒して壁にしろ!」


「騎士は東へ! 東だと言っている!」


 辺境伯の声がかすれている。小さな老人は馬の上で立ち上がって、剣で方向を示していた。後ろからは銀の兵、東からは黒い波が来る。南は川だ。逃げ道は北西の谷に向かう一本の街道しかなかった。


 カブの背で、私は振り返った。


 黒い波の先頭が、私の軍の端にぶつかった。


 見たことのある姿もあった。砦《とりで》の空にいた黒い鴉《からす》である。あれより大きなものも多い。馬ほどの胴に、角が三本生えているもの。足を六本引きずっているもの。どれも毛が抜け、皮膚がただれて、口から黒い泡を垂らしている。


 人の悲鳴が一度上がって、すぐに切れた。


「カミラ先生! 荷車を前へ! けが人を乗せて、街道へ!」


「指図は要らないわ!」


「カーヤさん! トビアスさんは!」


「もう谷へやった! あんたが一番遅いのよ! 走らせて!」


「カブ、走って」


《走ってる! おい、あいつら、こわいぞ! みんな泣いてるぞ!》


「泣いている?」


《お前、聞こえないのか!》


 聞こえなかった。


 悲鳴と、蹄《ひづめ》の音と、叫び声だけが聞こえる。沢の朝から、私の耳は十歩先までしか届かない。あれほどうるさかった世界が、人間の声だけになっている。


 砦の夜は、百の声が耳に入ってきた。今は、それがない。


 少し前の私なら喜んだだろう。


 そのとき、街道のすぐ脇の荷車が吹き飛んだ。


 黒い塊が、私たちの前に転がり出た。馬より二回りは大きい。カブが足を止めて、悲鳴のような声を上げた。


 首が長かった。


 鱗はほとんど剥《は》がれて、残ったところが黒く固まっている。額が割れて、角のようなものが二本、骨から突き出していた。片方の目は白く濁って、もう片方が、血の色で光っていた。


 前脚が、地面を蹴った。


 長い顔が、ゆっくりこちらを向いた。


《たす、けて》


 十歩の内側だった。


 低くて、がらがらした、年寄りの声だった。


《たすけて。痛い。痛い。熱い。おい。誰か》


 指先が止まった。


 知っている。


 私はこの声を、知っている。


「カブ、止まって」


「殿下! 何をしてる、逃げろ!」


 騎士が走りこんできて、黒い獣に槍を構えた。私は手を上げた。


「待ってください!」


「殿下!」


 杖をつかんで、カブの背から滑り降りた。足がよろめいて、杖で支えた。一歩、前へ出た。獣の熱い息が届く。腐った、甘い匂いがした。


 獣の体を見た。ただれた左の腰に、四角く鱗の剥げたあとがある。


 焼き印だった。


 潰れて、半分は読めない。それでも、毎日その横を桶を持って通った。二歩運んで、下ろして、息をついた。


『帝国軍事大学 騎獣《きじゅう》』


「あなた」


 声が、自分のものと思えなかった。


「あなた、さっき、なんて言ったの」


 血の色の目が、ぴたりと止まった。


 黒い泡の口が、少しだけ閉じた。


《お前》


 がらがらの声が、ひどくゆっくり言った。


《お前、いま、おれに言ったか》


「ええ」


《聞こえる、のか》


「聞こえるわ」


《聞こえる。聞こえる、おい。みんな。この人間》


 そこで声が割れた。前脚が持ち上がって、地面を打った。街道の石が砕けた。騎士が叫んで飛びのいた。


《痛い! 熱い! 噛む! 噛むぞ! どけ! 噛みたくない!》


 喉が固まった。


「いつ、ここへ来たの。誰に連れてこられたの」


《金。金の袋だ。あごのでかいやつが、金の袋をもらって、おれたちを、鞭の連中が、馬車に。全部だ。全部だぞ。二百頭、白い部屋で、針を》


「ボリスね。あの人のやりそうなことだわ」


 獣の割れた額が、わずかに下がった。


《お前か。尻の女か。走れなくなったって、聞いた》


「歩いているわ」


《そうか》


 血の色の目が、私の顔を見ていた。そこにはまだ、柵の間から顔を出して、ひどい顔だな人間、と言った年寄りがいた。


《おい。おれ、噛みたくない。お前を、噛みたくないぞ。だけど、噛みたい。なんだこれ。おい。おい!》


 魔物に、心はない。魂の反響にすぎない。そう教わった。魔物は森に棲む、呪われた獣だと。


《たすけて、さむい、とうさん》


《おかあさん》


《かえして、わたしのこ》


 砦で聞いた声を全部、思い出した。私はあれを、誰にも言わないと決めた。


 あれは全部、誰かだったのだ。


 東の波の中で、騎士に槍を突かれて転がっていく黒いものたち。牙犬の形をしたもの。角山羊の形をしたもの。あの飼育場には二十頭いた。大学全体で二百頭いた。


「おい、そこの女!」


 後ろから銀の騎馬が三騎、街道を駆けてくる。槍を下げて、まっすぐ私へ向かっている。


 獣の血の色の目が、そちらへ動いた。


 吐いて、吸った。


 十歩の声でも、この距離なら届く。


「ねえ。鞭《むち》の連中の匂いがするわ」


《鞭》


「後ろから三人、来ているの。銀の鎧よ」


 前脚が止まった。首が、ゆっくり上がった。


「蹴っていいわ」


《蹴って、いいか》


「いいわ」


《噛んでも、いいか》


「いいわ」


《尻でも、か》


 喉の奥に、何か固いものがつかえた。


「どこでも、好きなところを」


《お前》


 血の色の目が、最後に私を見た。


《お前、気に入った》


 黒い巨体が、私の横を駆け抜けた。


 地面が揺れた。銀の騎馬の馬が棒立ちになり、悲鳴が上がった。


「うわあ! こっちへ来るぞ! なんで、なんで味方が!」


「痛い! 痛い痛い! 誰か!」


《噛んだぞお!》


 割れた声が遠ざかっていく。そのまま東へ、銀の兵の列へ突っこんでいった。十歩を超えて、声はもう聞こえなかった。


「殿下! 乗れ! 馬鹿者!」


 騎士が怒鳴っていた。私はカブの太い首につかまって、背によじ登った。


「ピピン」


《おう》


「魔物はみんな、魔獣よ。黒露《こくろ》で壊された魔獣だわ」


《知ってる》


「知っていたの」


《今、思い出した気がする。あの瓶、飲んだからな。おい、泣くなよ》


「泣いていないわ」


《そうか。じゃあ、おれ様が泣いてやる。うわーん》


 まったく泣いていない声だった。


 夕方、北西の谷の入り口で、私はようやく止まった。一万二千の軍は、半分になっていた。


 荷車の間を、カミラが血まみれの手で歩いている。辺境伯は生きていて、馬から降ろされて、自分の腕の傷に酒をかけていた。カーヤは矢の残りを数えて、舌打ちをしている。


 人だかりがしていた。街道の脇で、騎士たちが誰かを囲んで、剣を突きつけている。


「何者だ!」


「怪しい者ではありません! あの、皇女殿下の陣はこちらで合っていますか!」


 聞き覚えのある声だった。


「星の鎧だぞ! こいつ、リュミエールの!」


「はい、そうなのです! すみません!」


 人垣の間から、金色の髪が見えた。鎧は脱げかけ、泥だらけで、片方の靴がない。手に持った地図は、上下が逆だった。


「殿下」


 リシャールが、私を見つけた。青い目は真っ赤で、顔からは血の気が失せていた。


「ああ、合っていました。逃げ出してきました。見張りが、お茶を飲んでいる間に」


「殿下」


「教えてください」


 彼は地図を握ったまま、私の前で膝をついた。


「妹の陣の奥に、大きな箱がありました。白い布で囲った部屋がありました。魔獣が、たくさん。あれは、我が国で作っているのですか。私は毎年、祭りで、父の隣に座っていたのです。妹はお茶を入れてくれました。私は、何も、知らずに、その麦を、あなたに」


 指が震えて、地図が音を立てている。


 答えは決まっていた。


「はい」


 私は言った。


「あなたがご存じなかったことは、わかっています」


 リシャールは私を見上げたまま、口を開けた。


 それから、ゆっくりと地面に額をつけた。


「すみません」


 小さな声だった。


「すみません。すみません。すみません」

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