第50話 「援軍」
「ダフネ!」
白い馬から飛び降りて、蜂蜜色の髪の少女が走ってきた。銀の胸当てに、星の刺繍のある外套をなびかせている。軍の真ん中を、ひどく楽しそうに走ってくる。
「ねえ、聞いて! もう、すごく心配したんだから! あ、もうダフネじゃないんだっけ? アマリア? どっちでもいい?」
「どちらでも」
「よかった! 歩いてる! すごい!」
ヴィヴィアンは私に飛びついた。杖がよろけて、細い腕が背中に回った。蜂蜜の匂いがした。
川の北岸の、私の本陣である。中洲から戻るのに、半刻かかった。その間に、星の旗の軍は丘を下りきって、私たちの軍のすぐ後ろに広がっていた。数は四万と聞いた。兵たちは飛び跳ねて喜び、もう肩を組んで歌っている者もいる。
「殿下、ご無事で何よりです」
リシャールが、馬からずり落ちるように降りてきた。鎧の留め金が一つずれている。
「父が、ようやく兵を出してくれました。遅くなりました。すみません」
「ありがとうございます、殿下。ですが三日、お早いようです」
「ええ、妹が近道を知っていまして」
「ほら、これ」
ヴィヴィアンが腰の袋から、銀の小箱を取り出して開けた。金色の星が、ぎっしり並んでいる。
「はい、二つ」
私の手のひらに、星が二つ置かれた。
ヴィヴィアンは、じっと私の顔を見ていた。
「食べないの?」
「ヴィヴィアン」
「なあに」
「辺境伯の騎士が、あちらの丘に砲がないかと心配しています。あなたの軍は、なぜ陣をあんなに広げるのですか」
「さすが。よく見てる」
「後ろへ回りきるまで、私と話をしているのですか」
白い指が、私の手のひらから星を一つ、つまみ上げた。
そして、ぱくりと食べた。
「ごめんね。やっぱりこっちのほうがおいしそうだったの」
片目をつぶった。
高い角笛が、一度だけ鳴った。
音が来るより先に、空が暗くなった。
黒い線が何千本も、丘の上から弧を描いて飛んだ。歌っていた兵たちが、顔を上げた。誰かが、手を振ったままだった。
矢は、背中に落ちた。
最初は音がしなかった。それから、一万二千人分の悲鳴が、地面から湧き上がった。
「え」
リシャールが、口を開けて丘を見ていた。
「どうして、向こうへ撃っているのですか。ザハリアは川の向こうですよ。ヴィヴィアン、合図を間違えて」
「お兄様は、向こうでお茶でも飲んでて」
「ヴィヴィアン?」
「連れてって」
銀の胸当ての兵が二人、リシャールの腕を取った。
「待ちなさい! これは何の作法ですか! 待って、待ってください!」
声が遠ざかっていった。
私の周りには、いつの間にか銀の兵が十人立っていた。カーヤの姿は見えない。辺境伯の馬の方角で、灰色の騎士たちが向きを変えようとして、矢の雨の中で崩れていく。
吐いて、吸った。
「どなたの地図ですか」
「え?」
「三日早く着く近道です。あなたは、この国の地図をたくさんお持ちでした。お父様が全部くれたのでしょう」
「よく覚えてるね」
ヴィヴィアンは私の前で、草の上に座りこんだ。もう一つ星を取って、自分の口に入れる。
「いつからわかってたの?」
「今朝変わった薬の時間を、あなたは知っていました」
「あ、あれ! ちょっと失敗だったなあ」
「それでも、手紙の星を食べました」
「うん、あなたならそうすると思った」
彼女はうれしそうに笑った。
「ね、説明してあげる。あなた、説明されるの好きでしょ? あのね、帝国は十年前から、ザハリアと戦ってくれてるの。リュミエールの麦とお金で。うちは両方に貸してるのよ。両方が疲れきって、頭もいなくなったら、借金のかたに全部もらうの。お父様の地図は、そのために作ってあるの」
「和議の夜の毒は」
「それはわたしが八つのときだもん。でも、うちの黒いお薬よ。すごいでしょう?」
「正妃様も、ザハリアの王子たちも、私も」
「うん。全部同じ瓶」
「兄上も」
「エルネスト殿下は、ちょっと悲しかったね。いい人だったのに」
蜂蜜色の髪が、風で揺れていた。十歩向こうで、私の兵が銀の兵に突き殺された。その前で、ヴィヴィアンは星を噛んでいた。
「なぜ、私を生かしたのですか。肝を動かしたまま」
「それはネリネさんの趣味。わたしはね、あとから見つけたの。あなたの耳を」
「耳」
「毒をずっと飲んでたから、魔獣の声が聞こえるんでしょ? 旗取りのときから、そうじゃないかなって思ってたの。すごいのよ、それって。うちの魔物、みんな狂っちゃって、言うことを聞かないの。あなたが話しかけてくれたら、全部うちの言うことを聞くようになるの。ね?」
小さな足音がした。
銀の兵の間を、一人の女が歩いてきた。きれいに髪を結い直している。ひび割れの治りかけた手に、盆を持っていた。
盆の上に、小瓶が一つあった。
「ネリネさん、いつも時間どおりなの」
ヴィヴィアンがうれしそうに言った。
「聞こえなくなったんでしょ? 顔色でわかったよ。でも、また飲めばだいじょうぶ」
ネリネは私の前で、膝をついた。
優しい声だった。
「姫様、お薬の時間です」
《このやろう!》
ポケットのピピンが暴れた。銀の兵の手が私の両腕をつかんだ。三重の輪の上を、きつくつかんだ。
ヴィヴィアンが立ち上がった。草を払って、私の前に来た。背は同じくらいだ。銀の小箱を、胸に抱えていた。
笑っていた。
初めて会った朝と、少しも変わらない笑顔だった。
「あのね。あなたと友達になったのは、本当よ。銅貨を噛むところ、すごく好きだった。お世辞を言わない子、初めてだったの。一緒に星を食べて、とっても楽しかった。だからわたし、ちゃんと言っておきたいの」
白い手が伸びて、私の頬についた泥を拭った。
「ごめんね」
甘くて、軽い声だった。
「あなたのことは、本当に好きだったのよ」
矢の音がしていた。
指先は、冷えなかった。十年飲んだ毒が抜けて、血はよく通っている。だから手のひらの星の形も、よくわかった。残った一つを、私はまだ握っていた。
「好きだった、ですか」
「うん」
「では、もう今は」
「え? 今も好きよ。これからも飲んでもらうし」
「はい。よくわかりました」
星を、地面に落とした。
ヴィヴィアンが、初めて少し首をかしげた。
私は落ちた星を、長靴で踏んだ。
校庭で覚えたやり方である。それから、足もとに向けて言った。十歩の声でいい。さっきから、地面の下で聞こえている。
「カブ。ここよ」
《掘った!》
草地が割れた。
銀の兵が三人、空へ投げ出された。茶色の背中が土を噴き上げて飛び出し、ネリネの盆がひっくり返った。小瓶が転がった。私は腕を振りほどいて、たてがみのない太い首に倒れこんだ。
「走って!」
《耳の後ろは!》
「あとで!」
「あは!」
後ろで、声が上がった。怒っているのではなかった。心の底から、楽しそうな声だった。
「すごい! ねえ、やっぱりあなた、最高!」
カブが走った。矢が耳の横を抜けていく。陣は崩れて、灰色の騎士たちが何とか固まりを作ろうとしている。その中から、短い髪の娘が弓を撃ちながら走ってきた。
「馬鹿! どこにいたの!」
「友達と話していました!」
振り向いた。
丘の上に、白い馬の少女が戻っていた。こちらへ手を振っている。銀の小箱を持っていないほうの手で、東を指さした。
見ていてね、と唇が動いた。
東の地平線が、黒かった。
雲ではなかった。地面の上を、こちらへ流れてくる。無数の角と、翼と、折れ曲がった足が、一つの黒い波になって、音を立てて近づいてくる。
川向こうのザハリアの陣からも、悲鳴が上がりはじめた。




