第49話 「国境」
《これ、乗り心地が悪いな!》
「あなたは乗っていないでしょう」
《おれ様の下が揺れるんだ!》
カブの背に、辺境伯の騎士が作ってくれた鞍が載っている。私はその上で、杖を横に渡して座っていた。鱗馬より遅いが、この土熊だけは私の言うことをよく聞く。何より、私の声が届く距離に、いつもいてくれる。
南へ十二日、進軍した。ボリスは帝都から動かない。国境を見捨てたのだ。ここには占領地の村がある。私の軍の兵たちの親が、まだ畑を耕している村だ。
「北岸に、一万二千」
ドレスラー辺境伯が、馬の上で地図を指した。
「ただし、まともに槍を持っているのは騎士の二千だけだ。南岸のザハリアは八千。あちらは本職だ。正面からぶつかれば、半日で終わるぞ」
「村は」
「今朝、三つ燃えた。煙が見えるだろう。もっとも」
老人は白いひげをしごいた。
「妙なことに、三つとも、燃やす前に村人が逃げておるそうだ。そろって西の谷へな。先鋒の将が、ずいぶん丁寧な焼き方をする」
私は南の丘を見た。
小さく、赤い点がある。
「話をしてきます」
「お前がか」
「私の首なら、殺せば向こうの手柄になります。向こうも出てくるでしょう」
「馬鹿げておる」
「はい。ですから、私が行きます」
昼過ぎ、川の中洲に白い旗が二本立った。両岸の兵が見守る中、私はカブの背から降りた。中洲の砂は歩きにくい。杖が沈む。百二十歩までなら歩けると、カミラの前で試してあった。向こうからは、一人の男が歩いてきた。
二人の間に、二十歩残っていた。
あの校庭と、同じ数だった。
赤い髪が、川風で揺れている。上着の胸に、見慣れない銀の留め金がある。半年で少し痩せて、左の頬の傷がよけいに目立った。右腕はきれいだった。
琥珀色の目が、私の足を見ていた。
杖を見て、足を見た。砂についた足跡を、一つずつ戻って見ていった。
「歩いている」
第一声が、それだった。
「はい。百二十歩です」
「いつからだ」
「ひと月前です」
「顔色が違う」
「毒をやめました」
「毒」
「十年、毎朝飲んでいました。お話しすると長くなります」
ラズの右手が、腰の剣に置かれたまま止まった。その目が、ようやく私の腕へ上がった。
袖はない。三重の輪と鎖が、日の下で黒かった。
風の音だけがした。
ラズは歩いてきた。すぐ前まで来て、手を伸ばした。
触れた。
二の腕の上に、大きな指が載った。指の腹が、盛り上がった線をゆっくりたどった。私が井戸の裏で、この人の腕にしたのと同じことだった。あのとき、線は平らだった。
熱かった。
「本物か」
「はい」
「誰が入れた」
「ゲルト教官です。上手でした」
「痛かったか」
「はい」
指が止まった。頬の傷の横で、筋肉が動いた。
「俺の腕は、絵だった」
「知っています」
両岸から、角笛が鳴った。長くは待てないという合図だった。
ラズの手が離れた。それから、腰の剣を抜いた。ゆっくりと持ち上げて、切っ先を私の喉へ向けた。南岸から、どよめきが聞こえた。
「後ろの丘に、王妃の息子の隊がいる。弩で俺を見ている。抜け」
低い声は、唇をほとんど動かさなかった。
「何をですか」
「刃物だ。持っているだろう」
杖の握りから、小刀を引き抜いた。カーヤが抜き忘れた、あの古い小刀である。ラズの目がそれを見て、わずかに開いた。
「それは」
「カーヤさんから借りています。おかげで、よく切れます」
腕を上げた。切っ先が、ラズの胸に届いた。留め金の少し下である。
北岸からも、声が上がった。
喉の皮膚に、刃の冷たさがある。息を吸うたびに触れる。息を吐いた。吸った。
「刺せ」
ラズが言った。
「あなたがどうぞ。腕は、そちらのほうが長いです」
「刺せるぞ」
「はい。わかります」
「お前が来ると聞いて、十日、そのつもりで来た」
「村を、ずいぶん丁寧に焼いていらっしゃいますね」
刃先が、ごくわずかに揺れた。
「俺の国の民だ」
「はい。私の軍の親御さんです」
切っ先は、どちらも動かなかった。刺せば終わる距離で、二本の刃が止まっていた。
「何か言いますか」
私は聞いた。
ラズの喉が、一度動いた。
「言う」
「はい」
「俺の父が死んだ。お前を殺せという命令は、王妃が勝手に押した印だった。父は書いていない。俺を捨てたのでもなかった。隠していた」
「はい」
「だから、俺に皇女を殺せと命じた王は、どこにもいなかった」
右手の刃はぴくりともしなかった。左手が、頬へ上がりかけて、止まった。
「それでも、俺はあちらの先鋒だ。お前を刺さなければ、ナサニエルが丘から下りてきて、村を全部焼く。お前を刺せば」
そこで言葉が止まった。この人に言いかけは似合わない。私が続けた。
「あなたは、また止めなかったことになります」
「ああ」
「では、刺しません。私も、あなたも」
「どうやって」
「あと三日、村を丁寧に焼いていてください。三日たてば、援軍が着きます。リュミエールの大軍です。そうなれば、ザハリアは引かざるをえません。ナサニエルが丘にいても、あなたが焼く村がなくなります」
ラズの眉が動いた。
「リュミエール」
「はい。ヴィヴィアンが、自分で兵を連れてきてくれるそうです」
「あの女が」
「手紙が来ました」
「王妃は、リュミエールの女だ」
川風が、中洲の砂を巻き上げた。
「俺の父の国は、もう十年、あそこの金で動いている。王妃も、兵も、麦もだ。お前の国が援軍だと言っている軍も、同じ金で動いている」
「わかっています。だから、確かめます」
北の地平線で、音が鳴った。
角笛だ。ザハリアのものでも、ドレスラーのものでもない。長く、高く、やけにきれいな音色である。私の軍の陣から、歓声が上がりはじめた。一万二千の声が、波になって中洲まで届いた。
丘の向こうから、白い旗が上がった。一本、十本、百本。金の星が縫いとられている。地平線が、星で埋まっていく。
「三日、早いですね」
私は言った。
喉から刃が離れた。ラズが一歩下がって、私の後ろの地平線を見ていた。見たことのない顔だった。
「アマリア」
「はい」
「下がれ。今すぐ」
低い声が、初めて焦っていた。
私の陣の兵たちが、手を振っている。歓声の中で、カブがいつの間にか砂を踏んで、十歩の内まで来ていた。丸い鼻を上げた。十歩先の声だけが、私に届いた。
《おい。あの旗のほうから、いやな匂いがするぞ》




