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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第48話 「遺言」

 砂の都の夜は、昼の熱を石の中に残している。


「殿下。お静かに」


 侍従のファルークが、手燭を袖で隠して、王の寝室の裏戸を開けた。七十を過ぎた、腰の曲がった男だ。俺が十一の夏に、馬車へ押しこんだ男でもある。


「殿下はよせ」


「では、何とお呼びしましょう」


「ラズでいい」


「それは奴隷の名です」


「知っている」


 帰国して半年、王の顔を見たのは今夜が初めてだった。王妃は俺を「長旅でお疲れの庶子《しょし》殿」と呼び、離宮に閉じこめて、飯に三度毒を入れた。全部、匂いでわかった。


 寝室は、甘く腐った匂いがした。


 知っている匂いだ。俺の頬《ほお》にある。刺客の刃にもあった。


 天蓋(ふた)の下で、骨と皮の老人が寝ていた。十年前、馬上から見下ろしてきた大きな男と同じ人間とは思えない。


「お前か」


 かすれた声がした。


「そうだ」


「近くへ来い。目が、もうよく見えん」


 俺は寝台の足もとまで行って、そこで止まった。


「俺はここでいい。用があるなら言え」


「相変わらず、口が悪いな」


「あんたが奴隷にしたからな」


 枯れ枝のような指が、敷布の上で動いた。笑っているらしかった。


「命令書は受け取ったか」


「第七皇女を殺せ、か。受け取った。王の印つきだ。断ると返事をした」


「そうか」


「それだけか」


「ファルーク。見せてやれ」


 侍従が、枕の下から小さな箱を出した。蓋が開くと、中は空だった。印の形に、布だけがくぼんでいた。


「印は二年前から、シビュラの手元にある」


 息が止まった。


「わしは命令など書いておらん。書けぬ。あの女がわしの手を取って、字を書かせることはあるがな」


「俺に皇女を殺せと、あんたの手で書かせたのか」


「皇女の護衛は腕が立つと聞いたのだろう。お前が皇女を殺せば、帝国が怒ってお前は死ぬ。皇女に殺されても、お前は死ぬ。どちらに転んでも、一人片づく。あの女は計算が上手い」


 壁の手燭が揺れた。


 右手が、頬へ上がりかけた。下ろした。


「俺を捨てたのはあんただ」


 声が、思っていたより低くなった。


「十一で、母が死んだ次の朝に、帝国行きの馬車へ入れた。名前も取り上げて、腕に絵を描いて、闘技場へ売った。背中の傷の数を教えてやろうか。十年、一通の手紙もなかった」


「十一人おったのだ」


 父は天蓋を見ていた。


「わしの子は、お前の上に十人おった。庶子ばかりだ。シビュラは息子を王にするために、順に片づけていった。井戸に落ちた子がいた。熱を出した子がいた。馬に蹴られた子がいた。わしは王だが、証拠がない。あの女の後ろには、リュミエールの金と兵がある」


「知っている」


「和議の夜、お前が残りの一人になった。サリーマが、お前をかばって死んだ。あの踊り子は」


 乾いた咳が続いた。ファルークが薬の代わりに水を含ませた。父は口を動かして、また続けた。


「あれは踊りが下手でな。足がいつも一拍遅い。わしが笑うと、怒って杯を投げた。あれだけだ。王の顔色を見ずに、わしに物を投げたのは」


 俺は何も言わなかった。


「どこへ隠しても、この国では見つかる。王宮の中でも、砂漠の果てでもだ。だから敵の国の、一番下に隠した。王妃の刺客が、奴隷の子を数に入れるか。闘技場の剣闘士を王子だと思うか。帝国の紋を描いた腕を、誰が調べる」


「手紙は」


「書けば、刺客が読む」


「任務は」


「ザラを持たせて、任務を与えれば、お前は死なずに耐えるだろうと思った。憎む相手があるうちは、人は死なん」


 枯れ枝の指が、敷布の上を這《は》ってきた。寝台の足もとまでは、とても届かない長さだった。


「お前を捨てたのではない。隠したのだ」


 手燭が、じりっと鳴った。


 何か言うべきだった。十年間、言う言葉は決めてあった。首を取りに戻ると決めていた。あの地下で、鍋をかき回しながらその日までを何度も数えた。


 全部、頭のどこかへ行ってしまった。


 三歩歩いて、枕もとに立った。枯れ枝の指を見下ろした。


 触らなかった。そこまで器用ではない。


「踊りが下手だったのは、知っている」


「そうか」


「俺に教えようとして、自分で転んだ」


「そうか」


 父の口が、また少し動いた。


「イスマエル」


「ああ」


「よく、生きた」


 しばらく待った。


 次の言葉は来なかった。胸が、もう上下していなかった。ファルークが膝をついて、額を床につけた。肩が震えていた。


 俺は頬に手を当てていた。いつ上げたのか、わからなかった。


 廊下で足音がした。急がない足音だった。


「まあ。こちらにいらしたのね、庶子殿」


 王妃シビュラは、喪の白を、もう着ていた。


 肌は白く、髪は蜂蜜《はちみつ》色で、リュミエールの女らしくほほえんでいる。後ろに立つ息子のナサニエルは、父に少しも似ていない細い目で、俺を見て笑った。


「あら、間に合ったのね。私は間に合わなくて。陛下は何か、おっしゃいまして?」


「踊りの話だ」


「まあ、のんきなこと」


 王妃の指が、箱のくぼみをなぞった。なぜ持っていないふりをする必要があるのかという顔で。


「ちょうどよかったわ。帝国の皇帝も亡くなったの。ご存じ? 向こうの国は今、役人が倒れて、麦の値段もわからない。攻めるなら今よ」


「勝手に攻めろ」


「先鋒は、あなた」


 王妃は小さく首をかしげた。


「王の血の方が先頭に立てば、兵の士気も上がるでしょう。国境で、紋を刻まれた占領地の民が騒いでいるわ。あの人たちは帝国に寝返った裏切り者よ。村ごと焼いてきてちょうだい」


 右手の指が鳴った。


「俺の国の民だ」


「ええ、だからあなたが焼かなければ、ナサニエルの隊が焼くわ。ナサニエルは、丁寧ではないの。どちらがよろしくて?」


 細い目の男が、くすりと笑った。


 俺はファルークを見た。額を床につけたまま、動かなかった。


 地下で、毎晩粥(かゆ)をよそった連中は、占領地の子どもだった。腕の紋だけが本物だった。


「行く」


「賢いこと」


「その代わり、俺の隊には手を出すな。ナサニエルは後ろにいろ」


「まあ。条件をつけるのがお好きね」


 どこかで聞いた言葉だった。


 二十日後、国境の丘に立った。


 川の向こうに、北から来た軍が野営を張っている。数は多いが、列はひどいものだった。鍬《くわ》を担いでいる者がいる。槍が足りていない。兵の半分が、長袖を脱いで、腕をむき出しにしていた。


 掲げられた旗は、見たことのない旗だった。


 白い布に、黒い輪を三つ、墨で手描きしてある。


《おい》


 頭の上で、ザラが翼をたたんだ。


《聞いたか。あの旗の主は、両腕に本物を入れて、民の前で脇腹を出したそうだ》


「聞いた」


《どうする》


 首の札に、指が当たった。割れ目の片方しかない、黒い札だ。


 次に会ったら、俺はお前の敵だ。


 言ったのは、俺だ。


「行くぞ」


 俺は剣を取った。

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