第47話 「奴隷紋の皇女」
「何人いるのですか」
「知らないわよ。数えてた奴が、顔の半分ごと倒れたんだから」
カーヤは荷車の上で、片目をつぶって丘を見渡した。
帝都の北、街道沿いの古い石切り場である。あの日から十日が過ぎた。そこに、人が集まっている。本院の二段寝台から歩いてきた者。国の鉱山から山を下りてきた者。帳簿をつける役人が倒れれば、鎖の鍵を持つ者もいなくなる。門番がいなければ、門は開いている。腕に紋のある人間が、行き先もなく街道を歩いて、なぜかここへたまっていた。
「五千か、六千」
「ボリス殿下は」
「帝都で即位の準備。自分の紋の連中を全部、役所に押しこんでるらしいけど、字の読めない奴ばっかりで、麦の値段もわからないって」
「ざまあみろ、と言ってよいですか」
「言えば?」
「ざまあみろ」
《おい、言い方が上品すぎるぞ!》
ピピンがポケットで笑った。
荷車の陰から、袖を肘までまくった女が歩いてきた。腰の袋から薬草の匂いがする。
「まだ生きていたのね、ブレンナー」
カミラだった。後ろに、例の大男の助手と、荷車が三台ついている。積み荷は包帯と薬の箱だ。
「先生。第一皇子殿下は」
「三日前に首を切られたわ。ボリスは紋の者を残らず片づけてから、あの方の首を持って大通りを歩いたそうよ。私には紋がなかったから、生き残ったわ。ボリスには、さぞ残念でしょうね」
カミラは私の腕を見て、脇腹を見て、それから杖を握る手を見た。指先に血の色があるのを見て、片方の眉を上げた。
「薬をやめたの」
「毒でした」
「そう」
驚いた顔はしなかった。
「鍵の分の貸しを、返してもらいに来たわ。五千人の傷を縫うのに、人手がいるでしょう。給金は要らない。その代わり、あなたが勝ったら、医療局をよこしなさい」
「あの札は、なくします」
「なくしてどうやって腕を縫うのか、私に教えてちょうだい。それが返済よ」
そう言って、カミラは荷をほどきはじめた。
日が傾くと、私は荷車の上に立った。
カーヤがそうしろと言ったのである。全員の前で話せ、でなければ今夜のうちに食い物の取り合いで殺し合いが始まる、と。
丘の斜面いっぱいに、人の顔があった。みんな痩せて、灰色で、こちらを見ていた。歓声は上がらなかった。
「あれが皇女か」
「杖ついてるぞ」
「皇女が何の用だ!」
しわがれた声が飛んだ。本院で寝台の隣にいた老人だった。
「お前の親父が、俺の腕に刻んだんだ! 俺の女房も、息子もだ! 同じ紋を見せれば、仲間にでもなれると思ったか!」
「そうだ!」
「帰れ!」
何かが飛んできた。肩に当たって、荷車の上に落ちた。石だった。もう一つが額をかすめた。カーヤが弓に手をかけるのが見えた。
「やめてください」
声は届いたが、誰も聞いていなかった。
吐いて、吸った。
杖を荷台に立てて、上っ張りを脱いだ。
両腕を上げた。袖のない軍服の残りから、細い腕が出ている。皮膚の下の三重の輪と、鎖が、夕日で黒かった。
「本物です」
少し静かになった。
「ゲルト教官に、半刻ずつかけて入れていただきました。おっしゃるとおり、父の国の紋です。これを見せたくらいで、仲間になれるとは思っておりません」
「じゃあ、何だ」
老人が叫び返した。
「もう一つ、お見せします」
軍服の裾をつかんで、たくし上げた。右の脇腹が、風に当たった。夕日の中で、古い傷あとが白く浮いたはずだ。
「十年前、私は毒で肝を失いました。ここに入っているのは、占領地の奴隷の子の肝です。番号は四一九番。八歳の女の子です。名前はシオンといいます。医療局の帳簿に、きれいな字で書いてありました」
風の音がした。
丘の斜面から、音が消えていった。
「私はこの子の肝で、十年、本を読んで暮らしました。誰のものか知らずに、粥を食べました。その子の札を書いた帳場は、私の父のものです」
「だから、何だ」
老人の声は、さっきより低かった。
「詫びるのか」
「詫びません。詫びても、シオンさんは戻りません」
息が胸の底まで入る。これもあの子の肝のおかげで動いている息である。
「この紋を、なくします」
誰も何も言わなかった。
「腕の紋も、足もとの札も、番号も。帳簿も全部です。私がこの国の帝位に就いて、法から消します」
誰かが、ひきつった声で笑った。
「お前が?」
「はい」
「その足でか」
「はい」
「軍もないくせにか!」
「はい。これから、皆さんにお願いします。私を女帝にしてください。私は嘘をつきますし、人も騙します。ただ、一つだけ確かなことがあります。この国で一番、この紋を消したいのは私です。自分で見ていて、とても腹が立つので」
笑い声が、斜面のどこかで一つ起きて、消えた。
老人が、じっと私の腹を見ていた。
そのとき、地面が鳴りはじめた。
「馬だ!」
「北から来るぞ!」
「ボリスの軍か!」
斜面が一斉に揺れた。逃げようとする者と、石を拾う者がぶつかり合う。尾根の向こうから、灰色の騎馬がきれいな列をなして現れた。二千騎はいる。掲げた旗は、ガルムントの猛禽ではなかった。銀の鹿の角だった。
「ドレスラーの旗よ」
カミラが包帯を巻く手を止めずに言った。
「あの古だぬき、ようやく巣穴から出てきたわね」
人の波が割れた。列の先頭の一騎が、石切り場まで下りてきて、荷車の前で止まった。
小さな老人だった。白いひげが胸まであり、背は私と変わらないだろう。鞍から降りるのに、従者の手を借りた。
老人は杖もつかずに歩いてきて、荷車の上の私を見上げた。
「第七皇女か」
「はい」
「降りてこい。首が疲れる」
カーヤに支えられて、荷車を降りた。立つと、目の高さが同じだった。
「イルマを知っておるか」
「お名前は、入学の日に聞きました。ベルクハイム寮の新入生で、小柄な順に並べられて、殺された方です。家臣の娘さんが、ほかに二人」
「背は」
「存じません」
「お前と同じくらいだ」
老人は私の頭の上に手をかざして、その高さのまま、しばらく動かさなかった。
「あの子は、裁縫が下手でな。わしの手巾に鹿を刺そうとして、犬にしおった。お前の首の代わりに切られたのだぞ」
「はい」
「詫びるか」
「いいえ」
老人の白い眉が動いた。後ろの騎士たちが手を柄にかけた。
「詫びるより先に、したいことがあります。私はあの朝のボリス殿下の顔を知りません。ですが、校庭で私の手を踏んだときの顔は知っています。とても楽しそうでした。朝ごはんに戻るときも、きっと同じ顔だったと思います」
「ほう」
「あの大きなあごを、私に一緒に取らせてください。辺境伯」
しばらく、老人は何も言わなかった。
それから、肩を揺すりはじめた。声は出なかった。ひげが、ゆっくりと波打っていた。
「わしは四十年、どの皇子にもつかなかった」
「はい」
「皇女につかんとは、言っておらん」
老人は振り向いて、片手を上げた。
二千の騎士が、銀の鹿の旗を下げた。石切り場じゅうの人間が、それを見ていた。寝台の隣の老人が、持っていた石を落とした。
その夜、私は初めて、自分の軍の焚き火を見た。数えきれないほどの火が、丘の斜面に広がっている。
「殿下」
騎士が一人、封書を持ってきた。南から早馬で届いたという。銀の縁取りの封筒に、蜂蜜の匂いがした。
『ねえ、聞いて。ひどいことになったって聞いて、もう眠れないの。お父様にお願いしたら、兵を出してくれるって。友達を助けに行くね。星を持って行くから、待っててね。あなたのヴィヴィアン』
封筒の底に、金色の星が一つ入っていた。
火にかざすと、甘い匂いがした。
小瓶の匂いは、もうかぎ分けられる。星は蜂蜜の匂いしかしなかった。
「今朝変わったばかりの薬の時間を、あの人は知っていましたね」
《なんだ?》
「何でもないわ」
星を、口に入れた。甘かった。
騎士は、覚え書きも一枚持ってきていた。
『南の国境。ザハリア軍、国境に集結。先鋒の将は赤い髪』




