第46話 「崩御」
「番号を言いなさい」
「鉱山からの古い帳簿の返送です。三〇七番の件で、受領印をいただきに参りました」
帝都本院の帳場は、高い天井の下に机が百ほど並んでいた。どの机でも、書記が紙に印を押している。その音が、雨のように絶えない。
私は白い上っ張りを着て、袖を手首まで下ろし、杖をついて立っていた。後ろでカーヤが、助手の顔をして帳簿の箱を抱えている。本物の馬車と、本物の書類は、まだ使えた。三〇七番が鉱山から消えた報せは、先にボリスのところへ行っただろう。帳場へ回ってくるのは、書類になってからだ。ここの帳場は速いが、遠くの数字には弱い。
「足が悪いのか」
「はい。おかげで帳簿係に回されました」
「鉱山の帳簿は、三行目がいつも間違っている。お前らのところは、誰が足し算をしているんだ」
「存じております。今年から直りました」
「ふん。そこで待て」
帳場の書記はみな、顔の半分に同じ模様を持っていた。輪の中に立つ獅子である。皇帝の紋だ。国の金も、法も、医療局も、この模様の者たちが動かしている。
カーヤが顎をかすかに動かした。
「ここの連中、全員同じ顔じゃない」
「模様が同じだけです」
「引けるの」
「索引はあちらの棚です。肝の予約は、受領者の家ごとに綴じてあります」
棚の前へ、杖をついて歩いた。カブが地面の下で待っている。声はもう届かない。沢の朝から、私に聞こえるのは、十歩以内の声と、ピピンの声だけになった。
《おい、ここ、におうぞ。薬と字の匂いだ》
「静かに。名前を探しているの」
ヴェルダー伯爵家。違う。ガルムント領主家。違う。指で綴りをたどって、紙を繰る。手が震えないのは助かった。十年で初めて、指が言うことを聞く。
『肝 予約 四十二号棟二階 占領地出身 トビアス 十一歳 片腕』
その横に、新しい墨で書いてあった。
『受領者 ガルムント家傍流 ピエトロ 本日午後 執行』
目で三回読んだ。
尻の次は肝を悪くしたらしい。
「カーヤさん」
「何」
「四十二号棟です。今日の午後です」
カーヤの抱えた箱が、みしりと鳴った。
「今、何時」
答えるように、鐘が鳴りはじめた。
帝都の大鐘だ。昼を告げる十二の鐘である。本院の窓が震えた。
一つ、二つ。
私の目の前に、執行の書類を持った書記が歩いてきた。朱色の印を持ち上げて、四十二号棟の書類の上へ下ろそうとしている。やめさせる方法を考えた。ない。三つ、四つ。カーヤの手が、上っ張りの下で小刀を探った。五つ、六つ。
七つ目は、鳴らなかった。
帝都に、音のない間ができた。
「おや」
書記が顔を上げた。
印が、書類の手前で止まっていた。書記の手首から力が抜けて、朱色の印が転がった。書類の端に、小さな赤い線を一本引いて、床に落ちた。
書記の膝が折れた。
その向こうの机で、別の書記が筆を持ったまま前へ倒れた。隣の書記が、それを見てから、同じように倒れた。
雨の音が、止んでいく。
「先生? おい、先生方!」
顔に模様のない小使いの少年が、箒を持ったまま叫んでいた。
「どうしたんです! 起きてください! 誰か!」
「何これ」
カーヤが、聞いたことのない声を出した。
「ちょっと。何なのよ、これ」
「模様を見てください」
口が勝手に動いた。この静かな倒れ方を、私は春に見ている。
「全員、同じです。輪の中の獅子です」
「だから何」
「皇帝の紋です」
窓へ歩いた。帳場の窓から、帝都の大通りが見下ろせる。
馬車が止まっていた。関所の役人が道に倒れている。橋のたもとで税を取っていた男が、秤を抱いたまま座りこんでいる。
「鐘が止まったままだけど」
「鐘守も、紋の者です」
「じゃあ、あの門番は」
「はい」
「橋のあいつも?」
「はい。この国の役所は、今、全部止まりました」
カーヤは窓の外を見て、それから私を見た。
「あんたの親父さんが死んだってことでしょ」
「そうなります」
「何か言うことないの」
「ありません。十年で四回しか会っていませんので」
「四回で、何を話したのよ」
「最後のときは、私の寝台の足もとに立って、医者に聞いていました。これはまだ生きているのか、と」
カーヤの口が閉じた。
指先も冷えなかった。それで十分だった。
「カーヤさん」
「何」
「鍵です」
「え」
「帳場頭の腰に、棟の鍵があります。全部です。今なら誰も止めません。今しか、止めない人がいません」
「全部開けるの?」
「全部です」
カーヤは一拍だけ私を見て、走り出した。倒れた帳場頭の帯を切って、鍵の束を引きちぎる。私は執行の書類を拾い、赤い線の一本入った紙を破った。もう誰も読まない紙だった。
カーヤが鍵を持って戻ってきた。四十二号棟までは、書類運びの台車を押してもらった。私は箱の上に座った。
四十二号棟の二階は、長い部屋だった。
分院と同じ二段の寝台が、奥まで続いている。ただし数は十倍だった。粥を配っていた紋の女たちが、呆然と立っている。両腕の紋は倒れない。あの人たちの紋は皇帝のものではなく、国の持ち物の印である。
「トビアス!」
カーヤの声が裏返った。
「トビアス! トビアスどこ! 返事して! あたし!」
「姉ちゃん?」
奥の下の段から、細い声がした。
カーヤが走った。寝台の間を、肩をぶつけながら走った。痩せた少年が、手首を枠に結ばれたまま、目を丸くしている。
「姉ちゃん、髪どうしたの」
「うるさい!」
「短いね」
「うるさいっ! いま切るから! 動くな!」
小刀が縄を切った。カーヤは弟の頭を、胸に押しつけた。肩が大きく震えている。私は見ないことにした。
足もとの札を外して、裏返して寝台に置いた。
部屋じゅうの目が、私を見ていた。
縄で結ばれた人たちが、息をひそめて見ていた。誰も声を出さなかった。
「鍵は」
カーヤが鍵束を放ってきた。受け止め損ねて、胸に当たった。
「皆さん。聞いてください」
声は思ったより、遠くまで届いた。息が胸の底まで入るというのは、便利なものだ。
「皇帝陛下が崩御されました。帳場の者も、門の者も、紋で倒れました。今日、ここへ足もとの札を読みに来る人は、おりません」
誰も動かなかった。
隣の寝台の老人が、かすれた声で言った。
「誰だ、お前は」
「帳簿係です」
「札を読みに来たのか」
「札を外しに来ました」
「嘘をつけ。上っ張りの役人が、なぜ俺たちの縄を切る」
答える前に、縄を切ろうとして両の袖をまくった。
まくってから、しまったと思った。
老人の目が、私の二の腕に止まった。三重の輪と鎖が、窓からの光に黒かった。老人はもう一方の腕を見た。それから、ゆっくりと杖を見て、足を見て、顔を見た。
「両腕の」
その声は、部屋の奥まで伝わっていった。
「おい。あの噂の。校庭で刻まれた皇女か」
二段の寝台のあちこちから、頭が持ち上がった。
遠くで、ようやく別の鐘が鳴りはじめた。城壁の外からだ。それから、大勢の馬の足音がした。
「急いで」
カーヤが弟を背負って、私の腕をつかんだ。
「ボリスの軍よ。あいつの紋の連中は、倒れてない」




