第45話 「断薬」
「殺してくる」
夜明けに目を覚ましたカーヤに、私は何があったかを短く話した。カーヤは最後まで聞かず、短い弓を持って、もう戸口へ向かっている。
「尾根には騎馬が来ていました。追いつけません」
「お前、よくそんな声で話せるわね」
私は藁の上で、歯が鳴るのを止められずにいた。震えは夜のうちに全身へ広がって、指が自分のものではないようだった。
震えの合間に、思い出すのはネリネの手のひらの温かさばかりだった。憎いのかどうか、まだ自分でもわからなかった。
カーヤは戻ってきて、床の箱を蹴った。
「これが毒?」
「はい」
「十年?」
「はい。それと、もう一つ」
息が続くうちに、言うことにした。毛布を自分でめくって、右の脇腹を見せる。
「カーヤさん、坂道でおっしゃいましたね。自分の腹の中に誰がいるか、知らないで、おいしいとか言うのだろうと」
「言ったけど」
「私です」
カーヤの手が止まった。
「十年前に、奴隷の子の肝をもらいました。八つの女の子です。名前はシオン。あの人の妹です」
焚き火のはぜる音がした。短い髪の下で、目が私の傷あとを見て、それから私の両腕を見た。
長い間、見ていた。
「いつ知ったの」
「鉱山の帳簿で。ふた月前です」
「ふうん」
カーヤは腕を組んだ。
「それ、ちゃんと動いてんの」
「はい。おそらく」
「じゃあ、死なないでよ」
カーヤは床の毛布をつかんで、私の上へ叩きつけた。
「あんたが死んだら、その子、また死ぬんでしょ。あたしはそんな手伝いしない。おい、誰か水!」
それから先の日数を、私は自分で数えていない。
二日目から、吐くものがなくなった。骨の中を虫が這うという言葉を本で読んだことがあるが、書いた人は本当に経験していたのだと思う。足の感覚が、戻ってきた。戻ってきたことは、藁から転げ落ちてわかった。戻ったのは痛みだけで、膝から下を火にかけられているようだった。
「足を切ってください」
「馬鹿じゃないの」
「それか、薬を一本」
「だめ」
三日目の夜、私は箱のところまで這った。
自分でも驚くほど、うまく這った。ラズに教わった、音を立てない這い方である。小屋の隅の暗がりに、箱はあった。カーヤが捨てなかったのは、毒の見本として必要になるからだと言っていた。
蓋に、白い毛玉が乗っていた。
《どかないぞ》
「ピピン。少しだけよ。ひと口だけ」
《どかない》
「お願い。一本の半分でいいの。半分飲めば、今夜は眠れる。そうしたら明日から、ちゃんとやめるわ」
《お前、さっきも同じこと言ったぞ。その前も言った》
「どきなさい」
《いやだ》
手を伸ばした。ピピンは私の指に噛みつかず、代わりに、箱の隙間に体を押しこんだ。ごそごそと音がして、小瓶の栓の抜ける音がした。
「ピピン?」
ごくん、と小さな音がした。また、ごそごそと音がする。ごくん。
《まっず!》
「何をしているの」
《まっずいぞ、これ! お前、十年もこんなの飲んでたのか! うえっ! おれ様が全部飲んでやる!》
「死ぬわよ!」
《灰目茸も平気だったぞ! ごくん! うえっ!》
七本の瓶が、順に空になった。最後の一本を飲み終えると、ピピンは箱の上にひっくり返って、毛を逆立てたまま、しばらく動かなかった。
「ピピン。おい。ピピン」
自分でも知らない声が出た。
《おい、人間》
小さな声だった。
《これ、知ってる味だ。暗くて、狭いとこで、誰かが泣いてて》
「それは何なの」
《忘れた。おれ様、眠い》
ごろんと転がって、毛玉はいびきをかきはじめた。ノルンの半分くらいの大きさのいびきだった。
私は箱の横で、空の瓶を一つ握って、夜明けを待った。
そのあとで、白い場所へ行った。
「はい、おつかれー」
知らない女が、また膝を抱えていた。今回は足の指の爪を見ている。
「また、あなたですか」
「覚えてたー? えらいえらい。今回はね、けっこう本当に死にかけてるから、顔だけ見に来たの」
「死ぬのですか」
「んー、死なない。私が言うのもなんだけど、よくやるよねえ。ごめんねー、きついよねえ」
「少しも悪いと思っていらっしゃらないでしょう」
「思ってる思ってる。あ、そうだ」
女は爪から目を上げた。
「その毒、抜けるとさ、聞こえなくなるからね。声」
「何の声ですか」
「魔獣の。全部じゃないけど。あの毒で魂がむき出しになって、聞こえてたんだよ。元気になる代わりに、遠くの声は届かなくなる。まあ、等価交換ってやつ」
「では、私のしてきたことは」
「さあね。あの子を見つけたのは、誰だったかな。ほら、起きて」
額をちょんとつつかれた。
目を開けると、屋根の隙間から朝の光が差していた。
震えが、止まっていた。
カーヤが壁に寄りかかって眠っている。目の下が黒い。後でわかったことだが、九日たっていた。
体が軽かった。
おかしなくらいに、息が胸の底まで入った。十年、胸の上のほうにつかえていたものがない。腹が鳴った。こんなに腹が減ったのは、生まれて初めてだった。
足の指を動かしてみた。
動いた。
毛布をよけて、膝を曲げた。壁に手をついて、体を持ち上げる。腿が震えて、膝が笑って、それでも腰が立った。
血の誓約で取られた分は戻らない。自分でわかる。足の奥のほうに、空いた場所がある。走ることはもうないだろう。命の半分も、たぶん、もう半分のままだ。
それでも一歩、前へ出た。
二歩。三歩。戸口の柱まで、七歩あった。
「何してんの」
カーヤが目を開けていた。
「歩いています」
「それは見ればわかるわよ」
カーヤはしばらく私の足を見て、立ち上がり、炭小屋の隅から一本の棒を持ってきた。削りかけの樫の枝で、握るところに布が巻いてある。見覚えのある古い小刀が、まだ刺さっていた。
「三日前に、やることがなかったから削ったの。これがないと、あんた五十歩で転ぶわよ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。トビアス」
「はい。行きましょう」
杖を握った。戸を押すと、朝の沢が広がっていた。息が白い。カブが土の中から顔を出して、大あくびをした。
《お》
その声が、ずいぶん遠かった。
森を見た。尾根の木の上に、煙鳥が何羽も止まって、くちばしを開け閉めしている。いつもなら、やかましくて目が覚めるほどだ。
くちばしは動いていた。
何も聞こえなかった。




