閑話・ネリネ 「四一九番」
尾根までの道は、暗くて石が多い。
親指が痛んだ。毛玉の歯は小さいくせに深くまで入ったらしく、血がなかなか止まらない。私は袖で押さえて、歩いた。
十年ぶりに、明日の朝お届けするものを持たずに歩いている。
シオンは、よく走る子だった。村を出る前の晩も、裸足で畑を走って、母に叱られていた。姉ちゃん、向こうへ行ったら甘いものが食べられるの、と聞いた。食べられるよ、と私は答えた。甘いものなら、後宮にたくさんあった。
毒見の師匠に教わったのは、一つだけだ。心を動かさずに飲むこと。顔に出たら、主が食べない。主が食べなければ、毒見は要らない。
だから和議の夜も、私はきれいに飲んだ。
物置の床で血を吐いている間、私は天井を見て、シオンのことを考えていた。あの子に会えたら、菓子の話をしてやろう。甘かったよ、と言ってやろう。
三日で立てるようになった。
医療局の帳簿は、毒見の見習いでも見られた。字はとてもきれいだった。四一九番。私はそれを、指でなぞった。
あの方は、お水が欲しいとおっしゃった。
私は水を差し上げた。よく冷えた、きれいな水だった。あの方はそれを飲んで、ありがとう、とおっしゃった。八歳の声だった。シオンと同じ高さの声だった。
その日から、私はあの方の髪を結っている。
リュミエールの方が欲しがったのは、帝国の皇女が弱ったまま生きていることだった。理由は知らない。後になって、王女様とお話しするようになって、少し知った。王女様は星のお菓子を一つくださって、ねえ、聞いて、とおっしゃった。あなたの十年、とってもきれいね。わたし、好きよ。
甘かった。
生まれて初めて、甘いと思った。十年、飲むのも食べるのも、味を見るだけだったのに。
どなたも間違えておられる。
あの方は、私が憎んでいると思っておいでだろう。カーヤという娘が目を覚ませば、私を殺そうとするだろう。王女様は、私を便利な駒だと思っていらして、それはその通りだ。
けれど十年の間、私ほどあの方の体に詳しい者はいなかった。熱の出る前の日の唇の色を知っている。雪の日にどちらへ寝返りを打つかを知っている。肝が動いている朝は、指の先に血の色が差す。私は毎朝それを見た。今朝も見た。
シオンは、十八になっていた。
尾根に、黒い馬が三騎、待っていた。頭巾の男が手を差し出して、私の親指の血を見た。
「どうされた」
「鼠に噛まれました」
「薬はどうなった」
「置いてまいりました」
「お飲みになるのか」
「飲まれないでしょう」
馬に引き上げられた。振り向くと、沢の奥に、焚き火の残りが小さく見えた。
あの方は、一度決めたら飲まない。杯の匂いもかがない方だ。これから何日も、のたうち回られるだろう。十年の分が、体から出ていくのだから。
そばについていて差し上げたかった。
あの方は、熱の夜には右を下にすると楽になる。誰か知っているだろうか。
あの短い髪の娘は、知らないだろう。
「参りましょう」
私は前を向いた。
明日の朝も、同じ時間に目が覚める。




