第44話 「お薬の時間」
「今日の粥は、私が炊かせていただきました」
沢の奥の炭焼き小屋で、ネリネが鍋をかき回していた。カーヤの仲間が十人ほど、焚き火を囲んでいる。
「お、うまいな、これ」
「ラズ先輩のより塩がきいてる」
「その名前は出さないで」
カーヤが匙で男の子の頭を叩いて、笑いが起きた。私の分は、いつものとおり別の小鍋だった。毒見のすんだものを別に炊くのは、十年の習慣である。
日が落ちるころ、私は小屋の隅の藁に寝かされていた。外で、カブがまだ鼻を鳴らしている。
《あの匂いは、いやだ。森で黒いやつらに追われたときの匂いだ》
「魔物の匂いということ?」
《そうだ。あいつらの血の匂いだ》
刺客の刃。魔物の血。ラズの頬。十年前の自分の喉。甘く腐った、同じ匂いだと、半年前に私は気づいた。あのとき考えたのは、誰が毒を作ったのかということだけだった。
《おい》
ポケットのピピンが、いつもの大声を出さなかった。
《おれ様、毎日言ってたぞ。くさいって》
「ええ」
《腹が減ったとか、尻を噛みたいとかと同じくらい、毎日言ってた。お前、毎日笑ってた》
「ええ」
《おい。今日から、言い方を変える》
小さな黒い目が、私を見上げた。
《飲むな。あれが、お前の体を壊してきたものだ》
戸が開いた。
手に小さな盆を持って、ネリネが入ってきた。焚き火の音が、いつの間にか聞こえなくなっている。話し声もしない。
「今朝の分が、遅くなりました。姫様、お薬の時間です」
盆の上に、小瓶がある。
私は受け取って、栓を抜いた。鼻を近づける。十年間、一度もかいだことがなかった。八つの朝から毎日飲んでいれば、鼻は覚えない。杯の匂いをかがないよう、ゲルトの前で我慢したことまで思い出した。
甘かった。腐った果物の、奥のほうの匂いがした。
「ネリネ」
「はい」
「外が静かね」
「皆様、よくお休みです。夜明けまでは目を覚まされません」
優しい声だった。
指先から順に、冷えていった。
「眠り薬は、粥に」
「はい。姫様の分には入れておりません。お話がございますので」
「この薬は、何なの」
「お気づきになるとは思いませんでした。どなたにお聞きになりましたか」
ネリネはピピンを見なかった。私の能力を、この人は知らない。誰にも話すなとベルタが言ったから、十年、話さなかった。
「匂いをかいだの」
「左様でございますか」
ネリネは膝をついて、いつものように毛布の端を直した。
「黒露と申します。どの本にも載っておりません。十年前、正妃様の菓子に入っていたものと同じです。それを薄めて、毎朝お届けしておりました」
「一日も欠かさずに」
「はい。一日も」
「私が弱いのは」
「お薬のおかげです」
吐いて、吸った。
「水車小屋のことを話したのは、ベルタとあなただけよ」
「はい」
「ベルタは嘘がつけないわ」
「はい。薬は、三日分お届けいたしました。運ぶベルタ様のあとをつけるのは、たやすいことでございます」
「兄上が」
「よいお兄様でした。あの方の咳には、本当によく効く薬をお入れしたのですよ」
声は少しも変わらなかった。髪を結ってくれたときと、同じ声だった。
「どうして」
ようやく、それだけ出た。
ネリネは少し首をかしげた。それから手を伸ばして、私の毛布をめくった。右の脇腹に、ひび割れた手のひらが置かれた。傷あとの上だった。
ひどく、そっと置かれた。
「帳簿をお読みになったのでしょう。ふた月前から、ここをよく押さえておいででした」
「四一九番」
「シオンと申します」
手のひらが、温かかった。十年で初めて、この人の手を温かいと思った。
「私の妹です」
息が、途中で止まった。
「占領地の村から、二人で売られました。私は十四で、後宮の毒見の見習いに。妹は八つで、奴隷の子として医療局へ。和議の夜、正妃様の菓子の毒見をしたのは、私です」
「あなたが」
「すぐには効かない毒でした。私も倒れました。三日、血を吐いて、物置の床で治りました。誰も来ませんでした。十四の毒見見習いでしたから」
「ネリネ」
「その間に、国じゅうの医者が姫様の寝台を囲みました。肝がだめになって、合うものが要るとおっしゃって、血を調べて。合ったのが、シオンでした。八つで、元気な子でした」
外で、カブが小さく鳴いた。
「起き上がれるようになって、荷馬車で帝都へ戻り、お部屋へ上がりましたら、姫様がいらっしゃいました。お目を覚まされたばかりで、私をごらんになって、おっしゃいました。お水が欲しい、と」
覚えていなかった。八歳より前を覚えていないと、私はラズに話した。その朝のことも、覚えていない。
「リュミエールの方が声をかけてくださったのは、その冬です。お前の妹を切ったのは帝国だ。薬を一本、預かってくれないかと」
「どうして、殺さなかったの」
「殺せましょうか」
ネリネは初めて、ほんの少し笑った。
ほほえみではなかった。十年見てきた顔の中に、ないものだった。
「姫様が亡くなれば、シオンがもう一度死にます」
手のひらが、脇腹を一度だけなでた。
「ですから毎朝、確かめに参りました。今日も動いているか。腫れていないか。でも、お元気になられるのは許せませんでした。妹の肝で、野原を走られるのは。だから弱らせて、生かして、十年です。おわかりですか」
ネリネは私の目をのぞきこんだ。
「あなたの中に、私の妹がいるんです」
脇腹の下で、何かが脈を打っている。十年、自分の命だと思っていたものが、急に他人の音に聞こえた。
ピピンが飛び出した。
《このやろう!》
小さな毛玉がネリネの親指に噛みついた。血が玉になった。ネリネは手を見て、まあ、と言った。
「賢い毛玉ですこと」
親指を振り払いもせず、ネリネは盆を床に置いて、立ち上がった。戸口から小さな箱を引き寄せた。
「七日分でございます。十年飲んだお体が急に断てば、どうなるかは存じません。死ぬかもしれません。それから、こちらはお荷物からお預かりしておりました」
箱の上に、一冊の本が置かれた。海賊の話の続きだった。
「あと三十枚です。姫様は、結末を気にしておいででしたから」
「カブ!」
声を張り上げた。外で、大きな体が戸口に近づいた。丸い鼻が中をのぞいて、すぐに引っこんだ。
《いやだ! その人間は、匂いがこわい!》
ネリネは不思議そうに、戸口と私を見比べた。
「お迎えが、尾根まで参っております。追っ手のご心配は要りません」
足を動かそうとした。腰から下が、藁をこすっただけだった。
ネリネは戸口で振り返った。いつもの顔に戻っていた。十年間、毎朝見てきた、優しい顔だった。
「姫様」
手が小瓶を指している。
「お薬の時間です。まだ、お飲みになっておりません」
小瓶は、私の手の中にあった。
腕が、勝手に口へ持ち上げようとしていた。十年の習慣だった。
私はその腕を、もう片方の腕で押さえた。三重の輪と鎖が、並んで震えた。
手首を返した。
藁の上に、黒ずんだ雫がこぼれていった。
「結構です」
「左様でございますか」
ネリネは深く頭を下げた。
「では、十年ぶりに、ごゆっくり」
「ネリネ」
「はい」
「十年分、覚えておきます」
「はい、姫様。私もでございます」
足音は、静かに沢のほうへ下っていった。
右の脇腹に手を置いた。まだ、ネリネの手のひらの形が温かかった。
一刻後、最初の震えが来た。




