第43話 「迎え」
「少し下がって。そう、そこで止まって」
倉庫の床に耳をつけて、私は小声で言った。
《お前、聞こえるのか》
「聞こえるわ。あなた、森にいた土熊でしょう」
《そうだ。あのあと、棒を持った人間につかまった。首に鉄をはめられて、毎日、穴を掘らされてる》
夏の間に、私はこの声と話せるようになった。七番坑の、さらに下だという。魔獣は人より長く掘れるので、この鉱山には何頭か飼われているらしい。
《なあ、あの人間はどこだ。牛小屋の匂いの》
ポケットの貝殻に手を当てた。紅はもうない。底に残った匂いが、岩の向こうへ届くのだから、土熊の鼻はたいしたものだ。
「あの人は、もう来られないの」
《どうして》
「あのとき、刺されたからよ」
《そうか》
岩を引っかく音が止まった。長いこと、何も聞こえなかった。
《じゃあ、お前がかいてくれ》
「あなたまで手が届かないわ」
《掘る》
「鉄の首輪は」
《掘りながら考える》
《おい、こいつ馬鹿だぞ!》
ピピンがポケットから叫んだ。
《でもいい奴だな! おれ様の四番目にしてやる!》
「名前はあるの?」
《ない。あの人間は、よしよしって言ってた》
少し考えた。ノルンが畑の話をするとき、一番うれしそうに言っていた作物の名前を選んだ。
「カブにしましょう」
《カブ! いいな!》
《だっせえ!》
秋の最初の霜が下りた朝、医療局の馬車が来た。
「三〇七番。出ろ」
コンラートが帳面を持って、倉庫の入り口に立っていた。後ろに、白い上っ張りの助手が二人いる。
「競りは帝都で行われる。お前は今日、本院へ運ばれる。よく腐らせなかった」
「ありがとうございます」
「礼を言う奴隷は初めてだ」
「帳簿の三行目は、直しておきました」
「知っている。来年から困るな」
白い上っ張りの片方が、前へ出た。背の低い助手で、頭巾を目深にかぶっている。手に持った札と、私の足の札を見比べて、不機嫌そうに言った。
「こいつ? 細いわね。肝がちゃんと入ってんの?」
声を聞いたとき、私は顔の筋肉をそのままにした。練習は十年している。
「確かめたいなら、本院でどうぞ」
「口の減らない品物ね。おい、そっち持って」
荷物の持ち方で、両腕を持ち上げられた。頭巾の下から、短い髪の先がのぞいている。私の腕をつかむ左手の袖は、手首まできっちり下ろしてあった。
馬車の扉が閉まり、手綱が鳴った。薄暗い荷台で、頭巾の助手は向かいに腰を下ろし、頭巾を取った。
「重くなかった」
「お久しぶりです、カーヤさん」
カーヤは私の両腕を見た。
傷はふさがっている。三重の輪と鎖が、皮膚の下に沈んで盛り上がっている。カーヤの左腕にあるのと同じものが、左右に一つずつだ。
しばらく見てから、カーヤは目をそらした。
「言っとくけど、お前を許すわけじゃない」
「はい」
「あの偽物をかばったことも、皇女だってことを黙ってたことも、なんにも許してない。最初から全部」
「はい」
「トビアスが、帝都の本院にいる。札は『肝 予約』のまま。本院は広いの。何百部屋もあるし、札の番号は帳簿を読める奴じゃないと引けない。お前、ここの帳簿を読んでたんでしょ」
「読みました」
「だから来た。あたしの都合で来るって言ったでしょ」
「はい。聞いています」
もう一人の助手が、御者台から顔を出した。地下で、札なしだった新入生の男の子だ。背が伸びていた。
「カーヤさん! まずいです! 前から馬車が来ます! 本物です!」
「早いわね。一日ずらしたはずなのに」
「本物?」
「この馬車は、谷の下で本物の連中を縛って奪ったの。もう一台来るなんて聞いてない」
坂の上から、車輪の音が近づいてくる。門の鐘が鳴りはじめた。コンラートの帳面の数字が、合わなくなったのだろう。
「ネリネはどこですか」
「は?」
「私の乳姉妹です。炊事場にいます。連れていってください」
「毒見の女でしょ。そんな暇ない」
「あの人は、十年、私の命を預かってきました。置いていけば、殺されます」
カーヤが舌打ちをした。その間に馬車が止まった。前方に、もう鉄の格子が下りている。後ろから、槍を持った兵が走ってくる。
「くそ。ここまでか」
カーヤが短い弓を取り、御者台の子が刀を抜いた。馬車の床を、何かが下から叩いた。
もう一度、叩いた。
《ここか》
子どもの声がした。
《掘った。おい、牛小屋の匂い。ここか!》
道が割れた。
土と石が噴き上がって、馬が棒立ちになる。穴の中から、ずんぐりした茶色の背中が出てきた。子牛ほどだった体は、一年の穴掘りで倍に太っている。短い角の一本が折れて、太い首に、ちぎれた鉄の首輪をぶら下げていた。
「魔獣だ! 七番坑の土熊だ!」
「撃て! 撃て!」
《痛い! なんだ、痛いぞ!》
「カブ! こっちよ!」
馬車の扉から身を乗り出して、私は叫んだ。カブは丸い鼻をこちらへ向け、まっすぐ走ってきた。馬車に頭をつけて止まる。
手を伸ばした。ぎりぎり届く。耳の後ろだ。
「よしよし。そこ、かゆいわよね」
《そこだ! そこだそこだ! お前、わかってるな!》
カブは目を細めて、ひどく満足そうな息を吐いた。
カーヤが口を開けていた。
「何、これ」
「私の知り合いです。鉄の格子を、下から掘れますか」
《掘る!》
それから先のことは、あまり順序よく覚えていない。格子が倒れた。兵が尻もちをついた。炊事場から走ってきたネリネが、瓶の箱を抱えたまま荷台へ引き上げられた。髪がほつれて、頬に炭がついていた。
「姫様。ご無事で」
「ええ。箱は置いてきてもよかったのに」
「いいえ、姫様」
ネリネはほほえんで、箱を抱え直した。
「大切なものでございますから」
馬車は谷へ下っていった。カブが後ろから、土を蹴立ててついてくる。カーヤは矢を撃ちつくし、荒い息で荷台に腰を落とすと、背負い袋から何かを取り出して、私の膝へ投げた。
木の椀だった。縁が欠けている。
「ティモの。貸すだけだから」
「はい」
「今夜の宿で粥くらい出す。今日の死にかけ自慢、お前が優勝でいいわよ」
「ありがとうございます」
椀を両手で持った。縁の欠けたところに、親指がちょうど収まった。
揺れる荷台の後ろへ目を向けた。カブが走りながら、丸い鼻をひくつかせている。ネリネの抱える箱のほうへ、鼻が向いた。
短い足が、ふいに馬車から一歩離れた。
《おい》
子どもの声が、怯えていた。
《その箱、いやな匂いがする。森の、黒いやつらと同じ匂いだ》




