第42話 「帳簿」
「三〇七番。肝。秋の競り」
帳場頭のコンラートは、私の足の指に結ばれた木の札を読み上げた。読み終わると、帳面に印をつけた。顔の半分に、皇帝の模様の紋がある。
「競り、ですか」
「第七皇女の肝だ。ボリス殿下が直々にお出しになる。買い手の貴族はもう十二家ついた。つけ値は金貨百枚からだ」
「私の首の、半分の値段ですか」
「知らん。腐らせるなと言われている。秋まで死ぬな」
コンラートは冗談を聞く耳を持っていなかった。
黒嶺鉱山は、帝国の北の外れにある。木の生えない山に穴が三百あいていて、両腕に紋のある人間が三千人、そこに出入りしている。空気は銅の味がする。
「歩けんのか」
「数歩なら」
「坑には入れんな。おい、字が読めるか」
「はい」
「数は」
「はい」
コンラートは初めて、私の顔を見た。
「この帳面の、ここを足せ」
「四百十二です。ただ、三行目は二年前の繰り越しが抜けています。こちらの係の方は、毎年同じところで間違えていらっしゃいます」
後ろに座っていた書記が、青くなった。
「倉庫へ入れろ」
コンラートが言った。
「帝都から送られてくる古い帳簿が、十年分、ひと山積まれたままだ。仕分ける者が足りん。肝は座っていても腐らん」
こうして私は、帳簿の倉庫の奴隷になった。
倉庫は山の中腹に掘った横穴で、乾いていて、夏でも寒い。歩けない私には、帳簿の箱を運ぶ橇が与えられた。縄を両手でたぐって、棚の間を進む。刻まれたばかりの腕は、たぐるたびに血がにじんだ。
「おい、新入り。それは二年の棚だ」
倉庫番の老人が、棚の陰から言った。両腕の紋はすっかり色あせて、指が三本ない。
「ありがとうございます。ここは長いのですか」
「二十年だ。坑で指をなくして、ここへ回された。荷車を引けなくなった奴は、たいがい馬車で運ばれる。俺は字が読めたんで、まだ腹の中身がそろってる」
「馬車で運ばれた方は、帰ってくるのですか」
「帳簿の中にならな」
《おい、くさいぞ、ここ。紙と鼠の匂いしかしない》
「ポケットから出ないでね。見つかったら、鼠と間違えられるわ」
《おれ様のどこが鼠だ! 足もないのに!》
「鼠には足があるわね」
《そうだ! おれ様のほうが上等だ!》
一日に二度、粥が来る。灰麦より薄い。そして毎朝、炊事場で働かされているネリネが、倉庫の入り口までやってくる。
「姫様、お薬の時間です」
ひび割れた手で、小瓶を差し出す。ボリスの命令で、瓶は箱ごと運ばれてきた。十年、後宮でも大学でも鉱山でも、同じ時間に同じ声がする。私はそれを、一息に飲みほす。
《くさい》
「知っているわ」
棚には、年ごとの札が下がっていた。
カミラの声を、よく思い出した。医療局の古い帳簿は、十年ごとに鉱山の倉庫へ送られる。誰がいつ何を受け取ったか、全部残っている。
仕事のふりをして、私は和議の年の箱を探した。
二十日かかった。
一番奥の棚の下から二段目に、それはあった。帝都本院、和議の年、夏。紙は黄ばんでいるが、字は分院の札と同じように、とてもきれいだ。将軍の右目。伯爵夫人の腎。一行ずつ指でたどった。
指が止まった。
『受領者 第七皇女アマリア殿下。部位 肝。提供者 占領地、奴隷の子、四一九番。女。八歳』
その下に、小さな字が一行あった。
『提供者は処分ずみ』
もう一度、読んだ。字はきれいなままだった。
「あの」
声がかすれた。倉庫番の老人が、棚の向こうから顔を出した。
「この、処分ずみというのは」
「読んだとおりだ。一つ取れば終わる品物は、残りも使えるだけ使って、札を焼く」
「名前は、どこかに書いてありますか」
「番号があれば足りるだろう」
「親に知らせは」
「親も番号だ」
老人は三本指のない手で鼻をかいて、棚の奥へ戻っていった。
軍服の残りの下で、右の脇腹に手を当てた。十年間、雪の日に痛んだ場所だ。
傷んだところを切り取ったのです。よく耐えられました。
切り取っただけでは、なかった。
《おい。どうした。手が冷たいぞ》
「ピピン。私の中に、もう一人いるの」
《おれ様か?》
「あなたはポケットよ」
《じゃあ誰だ》
答えられなかった。四一九番としか、書いていなかった。
八歳だった。私と同じ歳で、同じ夏に、片方は本院の一番いい寝台で目を覚まして、片方は処分ずみになった。
きっと、自分じゃ知らないのよ。自分の腹の中に誰がいるかなんて。知らないで、おいしいとか言うのよ。
坂道で聞いたカーヤの声は、怒っていなかった。そのほうが、よく覚えている。
札の『肝』の字を、私は改めて見た。
ボリスが競りにかけているのは、皇女の肝ではない。四一九番の肝だ。この国は同じ肝を、二度売ろうとしている。
思わず、喉の奥で変な音がした。笑ったのだと思う。
《おい、笑うところか、今の》
「いいえ」
夕方の粥が来た。銅の味のする、薄い粥だった。匙を持つ手が、なかなか持ち上がらなかった。
持ち上げて、口に入れた。飲みこむと、腹の中の、右の下のあたりへ落ちていく。
おいしくはなかった。全部食べた。
翌朝、倉庫の入り口にネリネが来た。
「姫様、お薬の時間です」
「ネリネ」
「はい」
瓶を受け取って、聞いた。
「私の手術のこと。あなたは、どこまで聞いていたの」
ネリネの手が、私の毛布の端を直した。直し終えたあとも、手は少しのあいだ毛布の上に残っていた。ひび割れた指先に、血がにじんでいる。
「傷んだところを切り取ったと、うかがっております」
「そう」
「何かございましたか」
この人は十四で後宮に上がったばかりだった。医者が子どもの毒見役に、本当のことを話すはずがない。
知らせれば、きっと泣くだろう。優しい人だから。
「いいえ。何もないわ」
私は一息に飲みほした。
箱を棚へ戻して、札を見た。秋まで、あとふた月ある。
橇の縄をたぐろうとして、手を止めた。
足もとで、何か聞こえる。
床の下だ。岩を引っかく音がする。鼠にしては大きすぎる。音は、ゆっくりこちらへ近づいてきていた。
《おい、なんだこの声》
ピピンの毛が逆立った。
岩の向こうから、くぐもった声がした。子どもの声だった。
《いい匂いがするぞ》
息が止まった。
《牛小屋の匂いだ。あの人間の匂いだ。おい、どこだ。さっきのところ、もう一回かいてくれ》




