第41話 「両腕」
「遺体の送り先は」
書記が、紙から顔を上げずに言った。
ひどく懐かしい質問だった。
「ありません」
「ですよね」
書記はうなずいて、欄に線を引いた。
「お名前は」
「どちらの名前でしょう」
「どちらでも同じです。番号になりますので」
帝国軍事大学の校庭は、初夏の光で白く乾いていた。入学の日、私はここで、大きなあごの男に手を踏まれた。
壇の上のボリスは、皇帝の名代を示す黄色の帯を肩にかけている。父は病床で、もう誰の顔もわからないと聞いた。第一皇子は三日前に降伏した。
「よくぞ戻った、諸君の第七皇女殿下だ!」
大きな声が千人の頭の上を渡った。屋台が出ている。串がよく売れている。
私は校庭の真ん中に座らされていた。ネリネが抱えて岩道を運んだ、あの車椅子である。
「ボリス殿下の特別のはからいです」
ピエトロが甲高い声で説明した。
「最後まで、奴隷の作った椅子に座らせてやれとの仰せです!」
両腕は椅子の肘に縛られていた。袖は、肩から切り取られている。
こんな細い腕を見せるために全校を集めるほど暇な人は、この国に一人しかいない。
「さて、死にぞこない」
ボリスが壇を降りてきた。ゆっくりだった。長靴の金の飾りが、一歩ごとに光った。十分に楽しむつもりの足取りだった。
「帝国の法を教えてやろう。継承戦に敗れた皇族は、政治犯だ。政治犯は紋を刻む。片腕か、両腕か。どちらがいいか、選ばせてやろうかと思ってな」
「お好きなように、なさってください」
「片腕は、親が奴隷の者と、落伍者と、異端者だ。お前は落伍者だな。継承戦から落ちた」
「はい」
異端者と呼ばれかねない耳のことは、言わなかった。
「だが、落ちたのが皇女では、片腕では足りん。だから、両腕だ!」
ボリスは自分の冗談に大声で笑った。ピエトロがつられて笑い、ゴルドが牛の声で続いた。
壁際の人垣は、あまり笑わなかった。笑わないだけで、誰も動かなかった。
人垣の前の列に、金色の髪が見えた。
「お待ちください、ボリス殿下!」
リシャールが、二人の兵に腕を押さえられていた。
「同盟国として抗議します! 第七皇女殿下には、我が国から婚約の申し入れを!」
「おお、それなら取り下げてくれ。こいつはもう皇女じゃない。持ち物と結婚するのか? 小国の王子は、ずいぶん安い嫁をもらうんだな」
「それでも!」
「連れていけ。ご機嫌よう、王子殿下」
リシャールの声が引きずられて遠くなった。その向こうに、蜂蜜色の髪が立っていた。護衛を二人連れて、銀の小箱を胸に抱えている。
目が合った。
ヴィヴィアンは唇を小さく動かした。ねえ、聞いて、と読めた。何か続けて言おうとして、首を横に振った。とても悲しそうだった。
あの人は同盟国の王女だ。皇子のけんかに口を出せば、戦争になる。札市のころ、そう教えてもらった。
「ゲルト。はじめろ」
「かしこまりました、殿下」
細い男が、小さな革の包みを持ってきた。杯を差し出したときと、同じ歩き方だった。包みが開かれて、細い針と、黒い液の瓶が見えた。瓶の匂いは、鉄と、焦げた骨のようだった。
「痛みはご存じですか、殿下」
「本で読みました」
「本より、少々長うございます」
右の二の腕に、冷たい指が触れた。
最初の一針で、肩から指先まで、白い線が走った。
知っている痛みの中に、こんなものはなかった。毒は内側から来る。これは外から来て、中に住みつこうとする。
ボリスが、すぐ前にしゃがみこんでいた。私の顔を、見ていた。ごちそうを前にした子どものように、瞬きもしなかった。
「いいぞ、いい顔だ。泣け。泣いたら、片腕でやめてやってもいいぞ」
息を吐いた。
吸った。
頬に、ノルンの紅を塗ってきた。今朝、藁の上で、ネリネの手鏡を借りて、貝殻の底をこすって塗った。もうほとんど残っていない。青白いと、殺されるから。
「兄上」
かすれた声が出た。
「なんだ」
「一つ、うかがってもよろしいですか」
「言ってみろ」
「ヨハンさんは、私を川で捕らえました。ご褒美に、何をおやりになりましたか」
ボリスはきょとんとした。それから、列の中の背の高い男を顎で指した。
「あいつか。妹の手紙を一通、読ませてやったぞ。読み終わったら燃やさせた。楽しかったなあ」
「そうですか」
「それがどうした」
「覚えておこうと思いまして」
「覚えてどうする」
「いつか、お返しします」
「銅貨のようにか」
「はい」
二本目の針が入った。
「殿下は、なんでも覚えていらっしゃる」
ゲルトが静かに言った。
右腕に、半刻かかった。
次に左腕に、半刻かかった。途中で二度、気を失った。二度とも、水をかけられた。
「まだか、ゲルト」
「あと少しでございます」
「急ぐな。ゆっくりやれ」
《おい》
ポケットから、小さな声がした。切り取られずに残った軍服の胸のポケットだ。
《おい。おれ様がいるぞ。おい、聞いてるか》
聞いている。
《おれ様、あいつの尻を噛みたい。まだ噛まないけど。いつか噛む。おい》
聞いている。
終わったと気づいたのは、ゲルトが瓶に栓をする音がしたからだった。
頭を動かして、自分の腕を見た。
三重の輪と、鎖の模様。
あの人の腕にあったものと、同じ形だった。こちらは平らではない。皮膚の下に沈んで、腫れて、血をにじませている。
本物である。
毎月これを自分の腕に描いていた人の手を、思い出した。
「立て」
ボリスの声がした。
「ああ、立てないんだったな」
大きな足が伸びてきて、車椅子の車輪を蹴った。
二度、三度と蹴った。ティモの直した車輪が、きしんで、はじけた。椅子が傾いて、肘かけごと私は地面に倒れた。腕の縄が切られていて、肩から落ちた。落ち方は覚えていたが、腕に力が入らない。泥ではなく、乾いた土の味がした。
ラズが夜中に叩いた釘の頭が、すぐそばに転がっていた。
その上に、金の飾りの長靴が乗った。
板が割れる音がした。
椅子だったものを踏みにじって、ボリスは私の手の上に足を置いた。あの日と同じ、右の手だった。
ゆっくりと、体重がかかった。
「皇女でなくなって、よかったな」
大きなあごが、空を隠した。
「死にぞこない」
校庭に、一人ぶんの、心から楽しそうな笑い声が響いた。
「はい、殿下」
私は土に頬をつけたまま言った。
「覚えております」
「鉱山行きの荷車に載せろ。ああ、札を忘れるな。医療局の連中が欲しがっていたからな」
両腕を持ち上げられた。荷物の持ち方だった。投げこまれた荷台は、藁もなく、板がささくれている。隣に、誰だかわからない男が膝を抱えていた。腕に紋があった。
ネリネが、荷車のすぐ脇を歩いていた。
「この者は」
兵が聞くと、ピエトロが手を振った。
「ああ、放っておけ。殿下のご命令だ。すぐ死なれては楽しめん。毒見の女も、薬の瓶も、一緒に放りこんでやれ」
ネリネは、私の隣の板に膝をついた。髪がほつれて、頬が汚れていた。ポケットに手を入れる仕草は、いつもと同じだった。
荷車が、校門へ向かって動き出した。
《おい。おい、聞いてるか》
「聞いているわ」
《おれ様、あいつの尻を噛むからな。いつか》
「ええ。順番よ」
二百段の石段を、一度だけ見た。一番上に、背の高い男が、顔の半分をこちらに向けて立っていた。
足もとに、木の札が投げこまれた。荷車が揺れて、私の足の指に当たった。
字が書いてある。読もうとしたが、目がかすんでいた。
「姫様」
優しい声が、耳のすぐそばで言った。
「お薬の時間です」




