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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第40話 「ベルタ」

 馬を替えて、二晩走った。海賊の本は、あと三十枚残っている。結末を知らずに死ぬのは嫌だと言った私に、本を持ってきた兄は、もういない。


「殿下。橋が見えます」


 手綱《たづな》を取るベルタが言った。三日目の朝だった。


「北へ渡れば、ドレスラー辺境伯の領地です。あそこは中立です。ボリス殿下の軍は、そう簡単に入れません」


「辺境伯は、私を匿ってくれるのですか」


「わかりません」


「はっきり言いますね」


「はい、殿下。嘘がつけませんので」


「それでよく、ここまで連れてくる気になりましたね」


「ほかに橋がございません」


 谷の向こうに、石の橋がかかっている。その手前で、馬が泡を吹いて止まった。ベルタが降りて馬の鼻を見た。


「もう走れません。歩きます」


「はい」


 ベルタが藁から私を抱き上げ、背負い紐で背中に固定した。広い背中だ。後宮の庭で、私はよくこの背中に乗っていた。ネリネが車椅子の枠を抱えて、後ろからついてくる。


「姫様、それはもう」


「持っていて、ネリネ」


「ですが、重うございます」


「お願い」


 ネリネは何も言わずに、枠を抱え直した。


 ピピンがベルタの肩へよじ登った。


《おい、おばさん。おれ様が見張っててやる》


「なんと言っておりますか」


「偉そうなことを言っています」


「はい」


 ベルタは初めて、毛玉の頭を指で押した。


 橋まで、あと三百歩というところで、影が差した。


 頭の上を、大きな翼がゆっくり横切っていく。橋のこちら側に土煙が舞い上がって、グリフォンが降りた。


「やあ、やあ!」


 大きな声が谷に響いた。金糸の猛禽《もうきん》が、朝日に光っている。


「ずいぶん逃げたなあ、死にぞこない!」


 ボルグの背から降りたボリスは、きれいにひげを剃っていた。勝った人間の顔だった。後ろの丘を越えて、騎兵が次々と現れる。ガルムントの旗だ。橋の向こう側にも、もう何騎か回りこんでいる。顔の半分に猛禽の模様のある、背の高い男が一人、列の中にいた。


 ベルタが私を背負ったまま、剣を抜いた。


「よう、兄貴に会いたいか。首でよければ持ってきてやったぞ」


 ボリスが手を挙げると、ピエトロが小さな木箱を抱えて前へ出た。甲高い声で何か言っている。私はそちらを見なかった。


 箱の蓋《ふた》が開く音がした。


 見なかった。


 ベルタの背中の温かさだけ考えていた。吐いて、吸った。


「おい、見ろ。せっかく持ってきたんだ」


「はい、殿下。見ません」


「なに?」


「兄は、勝ったらひげを剃ると言っていました。きれいに剃って、葬ってやってください」


 ボリスの笑いが、一瞬止まった。


「ああ、そいつは忘れていたな! おいピエトロ、剃ってやれ!」


「はい!」


 ベルタの肩が、一度だけ動いた。


「殿下」


 背中越しに、ごく低い声がした。


「はい」


「殿下の合図で、紐を切ります。橋の下へ下りる岩道がございます。鱗馬《うろこうま》なら通れます。お呼びになれますか」


 私はボリスの騎兵の列を見た。鱗馬が八十頭ほどいた。大学の騎獣《きじゅう》と同じものだ。


《小さいの》


 ボルグが、羽をたたみながら言った。


《飛べと言われれば、おれは飛ぶ。逆らえば、あの男はおれの首を落とす》


《だから、言われたとおりに飛ぶ。言われたとおりにだけ、な》


「鱗馬たち」


 息だけで言った。


「聞こえますか。ロザーンの、閂《かんぬき》を開けた者です」


 列のあちこちで、耳が動いた。


《おお!》


《尻の女だ!》


《あの女か! よう、走れなくなったって聞いたぞ!》


「一番近い一頭、前足を痛めたふりをして、橋の手前へ。私を拾ってください」


 馬上の男が手綱を引いた。一頭が暴れだす。また一頭が、悲しそうな声でしゃがみこんだ。ボリスが振り向いて怒鳴った。


「何をしている! 馬鹿どもが!」


「今です、ベルタ」


「はい、殿下」


 刃が、私の背中の紐を切った。


 ベルタは私を、横から駆けてきた鱗馬の背に放り投げた。腕が、たてがみを勝手につかんだ。井戸の裏で習った落ち方は、落ちないためにも役に立つ。


「ネリネ!」


「お先に、姫様!」


 ネリネが、車椅子の枠を抱えたまま、岩道へ転がるように走っていく。


 ベルタが動いた。


 私はこの人が戦うところを、初めて見た。


 先頭の騎兵の剣が、宙を舞った。馬の下へ滑りこみ、次の男の腿を裂いて、その鞍《くら》を踏み台に、三人目の首へ刃を入れた。


「おい! あの女、四十だろう!」


「知るか! 囲め! 囲め!」


「ボルグ! 飛べ! 皇女を止めろ!」


《言われたとおりにだ》


 巨大な翼が広がった。ボルグは騎兵の列の真上を、低く、まっすぐこちらへ飛んできた。羽ばたくたびに土煙が巻き上がり、鱗馬たちが悲鳴を上げて棹立ちになる。鞍から落ちる男がいた。槍を取り落とす男がいた。


「低すぎる! 上を飛べ、馬鹿鳥!」


 ボリスが怒鳴ったときには、列はもう崩れていた。鱗馬が岩道へ足をかけた。ベルタの左の肩に、槍が入った。ベルタはその槍をつかんで、持ち主を引き寄せて斬った。右の腿から血が流れている。


「ベルタ!」


 鱗馬の首をつかんで、私は叫んだ。


「もういい! 来て! あなたも!」


 ベルタは振り向かなかった。騎兵が七人、八人、ベルタを輪に囲んだ。


 考える前に、声が出ていた。


 十八年、一度も言わなかった言い方で、言った。


「ベルタ! 命令です! 下がりなさい!」


 ベルタの体が、びくりと揺れた。


 足が一歩、下がった。


 頭より先に、体が動くのだ。校門の鉄柵の前で、そう聞いた。そこへ下がれば、騎兵が全員、岩道へ流れこむ。


 ベルタが立ち止まった。


 足を、地面に突き立てるように、止めた。


 顔の左半分から、煙が上がった。


 紋が焼けていた。青黒い模様が赤く光り、皮膚の焦げる匂いが、私のところまで届いた。肩が震えている。一度も見たことのない顔で、ベルタが首だけ振り向いた。


「いいえ」


 十八年で、初めて聞いた言葉だった。


「いいえ、殿下」


 もう一歩、前へ出た。煙が濃くなった。騎兵たちが、たじろいで馬を引いた。


「馬鹿者が! 紋持ちが主に逆らえるか! 何だそいつは!」


 ボリスの声が裏返っていた。


 鱗馬の足が岩道を蹴った。もう止まらない。崖が視界を切っていく。ベルタの灰色の背中が、岩の間から見えて、見えなくなって、また見えた。


 その上に、ボルグの影が落ちた。


 騎兵の輪が閉じるのが見えた。


《おい、人間! たてがみを引くな!》


「止まって! 止まってください!」


《止まれば死ぬぞ!》


「一度だけです!」


 岩道の曲がり角で、鱗馬が足を止めた。煙の匂いがした。


 橋のたもとの岩の上に、ベルタが倒れかかっていた。槍が何本も刺さっている。距離は二十歩ほどだ。


 二十歩だった。


「ベルタ!」


 ベルタの顔がこちらを向いた。焼けた半分は、もう模様がわからない。残りの半分が、私を見つけた。


 唇が動いた。


 声が、風に乗ってきた。


「殿下」


「死なないでください!」


 自分の声が、ひどく小さかった。


「お願いです! 命令です! 死なないで! ベルタ!」


 ベルタの唇の端が、わずかに上がった。


 そんな顔も、十八年で初めて見た。


「はい、殿下」


 いつもの声だった。


 頭が、岩の上に、静かに落ちた。


 嘘のつけない人だった。


 逆はない。紋の者が死んでも、主は死なない。だから私は、鱗馬の首にしがみついたまま、息をしていた。吐いて、吸っていた。


《走れ》


 鱗馬が言った。


《走るぞ、人間。止まるな》


「はい」


《おれの尻を噛むなよ》


「はい」


 泣かなかった。


 頭の上を、ボルグの影が何度も行き来していた。岩道は、崖の割れ目の底を通っている。グリフォンの翼が入る幅ではない。


《狭いなあ。これでは降りられん。言われたとおりに飛んだんだがなあ》


 岩道の下は川だった。水音の中を鱗馬が駆けていく。そのまま北へ行けば、辺境伯の領地に入るはずだった。


 川の向こう岸の木立から、槍の列が、静かに出てきた。


 先頭に立っていた男が、顔の半分を朝日に向けた。猛禽の模様の、背の高い男だった。


「皇女殿下」


 静かな声だった。


「お待ちしておりました」

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