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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第39話 「倒れる人々」

「殿下、本日の鴨はいくらか固うございます」


「昨日もそう言っていましたよ、ウルリヒ」


「昨日も固うございました」


 六日後の朝だった。窓から日が差して、机の上の海賊の本に当たっている。本はあと三十枚で終わる。悪い予感しかしないので、少しずつ読んでいる。


 第一皇子の使者が二度来て、書記たちが廊下を走っている。みんな、顔の半分に同じ模様があり、もう半分がうれしそうだった。


「ねえ、ウルリヒ。兄上は、勝ったら何をすると言っていましたか」


「ひげをお剃りになると伺っております」


「それから」


「わたくしどもに、一日休みをくださるそうです」


「あなたは何をするのですか」


「皿を磨きます」


「休みに?」


「はい。ほかにすることがございませんので」


 ウルリヒは真面目な顔のまま、銀の盆をわずかに持ち上げた。盆の上には、鴨の皿と、薄切りの黒麦《くろむぎ》パンと、小さな杯がのっている。肘かけのそばの机へ、一歩近づいた。


 その足が、床につく途中で止まった。


「おや」


 ウルリヒは少し首をかしげた。


 真面目な顔のままだった。


 膝が折れた。肩から順に、倒れていく。腕だけが、最後まで盆を水平に支えていた。体が床に着いても、その手はまだ銀の盆を持ち上げていた。


 指が、ゆっくり開いた。


 皿が床に落ちた。


 高い音がして、鴨が転がった。


「ウルリヒ?」


 車輪を一回回した。もう一回回した。身をかがめても手が届かない。半分の顔が、床の上でこちらを向いている。目は開いたままだった。青黒い紋の縁の皮膚が、白くなっていく。


「ウルリヒ。お皿が割れましたよ」


 答えはなかった。


 廊下で、紙の束が床にぶちまけられる音がした。


「おい、どうした!」


「エーリヒ! おい、エーリヒ!」


 走る足音が一つ、止まった。走っていた誰かが倒れた音だった。止まった足音のすぐ先で、また別の何かが倒れた。


 息が吸えなかった。


 窓の外を見た。旗を立てていた門番が、はしごの途中から、音もなくすべり落ちるのが見えた。その下で棒を持っていた男が、旗竿を持ったまま膝をついて、そのまま地面に顔をつけた。旗が、ゆっくり傾いて倒れていった。


 馬の世話をしていた男がいた。井戸で水を汲《く》んでいた男がいた。みんな、同じ模様を顔に持っていた。


 主が死ねば、紋の者も死ぬ。


 十年前の和議の夜、正妃の紋の者が三十二人のうち三十一人、その場で倒れた。冬至に兄から聞いた数だ。


 実物は、音が小さかった。


「殿下」


 扉が開いて、ベルタが入ってきた。左の頬《ほお》の紋が、いつもと同じ色をしている。ベルタの模様は、私の模様だ。この人は倒れない。


 私が生きているからだ。


「ベルタ」


「はい、殿下」


 ベルタの目が、床のウルリヒを見て、私を見た。


「館の者を見てまいりました。書記、会計、給仕、門番、馬丁。三十一名です」


「兄上の紋の者は、何名でしたか」


「三十一名です」


「例外は」


 ベルタは、ほんの少しだけ間を置いた。


「ございません、殿下」


《おい。おい、どうしたんだ。みんな寝ちまったぞ》


 ピピンがポケットから顔を出した。


「寝たのではないのよ」


《じゃあ、なんだよ》


「ウルリヒは、お皿を落としたことがないの」


《知ってるよ。落ちてるぞ》


「ええ。落ちているわね」


 指先から順に、冷えていった。吐いた。吸った。


 ひげを剃ると言っていた。


「どこで、ということは、わかりますか」


「いいえ」


「水車小屋には、今週はもうおられないのですね」


「三日前に移られました。行き先は、昨日の報告で、南の渡し場の納屋かと」


「そこへ人を」


「送る者がおりません」


「兵は。砦《とりで》の軍は」


「指揮の取り次ぎも、文書も、金も、紋の者が務めておりました。今朝のうちに、すべて止まります」


「第一皇子殿下との約束は」


「約束の相手が、おられません」


 悲鳴が、台所のほうからようやく聞こえてきた。下働きの女が、誰かの名前を呼びながら走っている。


 十日あれば帝都の門が開くはずだった。今日で六日目である。


「殿下。ここを出ます」


 ベルタの声は平らだった。


「ボリス殿下の軍が来ます。兄上様の死を知っている者が、最も早く動きます。荷車を裏へ回しました。お体をお運びします」


「ウルリヒが」


「はい」


「まだ、そこにいます。皿も片づいていません」


「はい、殿下」


 広い手が、私の脇に入った。毛布ごと持ち上げられた。ウルリヒの半分の顔が遠ざかっていく。十年で初めて落とした皿の破片が、靴の先で小さく鳴った。


「待って。本を」


 言ってから、ひどくくだらないことを言ったと思った。ベルタは何も言わなかった。私を片腕で抱えたまま、机に手を伸ばして、本を取り、私の胸の上に置いた。それから車椅子の枠をつかんで持ち上げた。


 廊下には、人が横たわっていた。書類を抱えたまま、壁にもたれて座っている書記がいた。踏まないように、ベルタは歩いた。


 裏口の前で、小柄な影が待っていた。


「姫様!」


 ネリネが、荷車のそばに立っていた。髪がほつれている。頬が濡れていた。十年で初めて見る顔だった。


「ご無事で。ああ、よかった。お怪我は。お体は」


「ネリネ。兄上が」


「はい。はい。存じております。すぐに、すぐにここを」


 ネリネは震える手で、私を支えて、荷車の藁の上に寝かせた。毛布を直し、胸の上の本をそっとよけて、それから、エプロンのポケットに手を入れた。


 小瓶が出てきた。


 栓を抜く手は、もう震えていなかった。


「姫様」


 涙で濡れた顔で、ネリネはいつもの声で言った。


「お薬の時間です」


《おい》


 ポケットの中で、毛玉が低くうなった。


《おい、おい、こんなときに、それか。くさいぞ》


 朝の時刻だった。確かに、いつもの時間だった。


 十年間、一日も欠かさなかった人だ。この人だけは、何があっても変わらない。


 私は小瓶を受け取って、飲みほした。


 手綱《たづな》が鳴り、荷車が動き出した。遠くの丘の上で、鳥たちが一斉に飛び立っている。その下の街道に、土煙が上がっていた。


 風の向きが変わって、聞き覚えのある声が、空の高いところから届いた。


《また、飛べと言う》


 気の乗らない、大きなグリフォンの声だった。


《飛べと言われれば、飛ぶしかないんだよなあ。この先に、お前がいるんだろう、小さいの》

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