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死にぞこないの病弱皇女は、奴隷の護衛に恋をする  作者: 鷹居鈴野


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第38話 「隠れ家」

「お前は馬鹿だ」


 兄はそう言って、私の頭を抱えこんだ。


「大馬鹿だ。敵国の王子だと? 命の半分だと? 手紙一本よこさずに、お前は」


「兄上。ひげが痛いです」


「痛くしているんだ」


 ネリネから聞いていた話より、兄はずっと痩せていた。古い外套《がいとう》の下の鎖帷子が、肩で余っている。ただ、腕の力だけは強かった。十年前に本を持ってきてくれたころは、もっとひ弱な人だったのに。


 川下の水車小屋だった。粉ひきの匂いと、水の音がする。ここへ来ることを知っているのは、ベルタだけである。


 校門を出たのは、ひと月前になる。


 敵国の王子を逃がした犯人は、ついに挙がらなかった。カミラの合い鍵は、たまたま見当たらなくなった。それでもボリスは大食堂で「死にぞこないが手引きした」と叫びまわったので、学長アンゼルムが、医者の許しのある無期の休学を書いてくれた。


「校門の外なら、紋の護衛が使える」


 学長は窓を向いたまま言った。


「皇女殿下。そなたの足で、ここを歩いて帰れるとは思わなんだが、車輪で帰れて何よりだ」


 校門の下で、ベルタが立っていた。車椅子の取っ手を、黙って握った。


「はい、殿下」


 私はまだ何も言っていなかった。それでも、ベルタはそう言った。


 そうして私は、兄の領地のグレーデン館に入った。兄が本営にしている、古い館である。そこから荷車で半日、川沿いを下れば、この水車小屋に着く。


「それで、どうして兄上がこんなところに」


「ここにいることになっていないからさ」


 兄は粉袋の上に腰かけて、声を落とした。


「館にいると、毎週のように毒と刺客が来る。だから三日ごとに寝る場所を変えている。今週の私は、書類の上では北の砦《とりで》にいる」


「勝てるのですか」


「そこだ」


 気の弱そうな目が、ゆっくり笑った。


「勝てるぞ、アマリア」


 思わず、肘かけをつかんだ。


「ボリスの奴は、お前の一件でやりすぎた。帝都では、半年も妹を踏んでいたと笑いものだ。第一皇子もあいつが嫌いになった。今朝、使者が来た。十日後に、第一皇子と手を結ぶ。そうなれば、帝都の門はこちらのものだ」


「兵糧は」


「リュミエールから、小麦が届いた。リシャール殿の口添えだ。お前の返事を待たずにだぞ。あの迷子、とんでもないお人好しだな」


 兄は袋の埃を払って、私の前に膝をついた。


「お前に、札を切れと言ったな」


「はい。冬至に」


「もう切らなくていい」


 水車の回る音がした。


「婚約は断っていい。お前は好きな本を読んで、好きな相手を、ああ、敵国の王子以外にしてくれると助かるが、好きにしろ。お前は命の半分を、自分で勝手に払った。残りの半分くらい、自分で勝手に使え」


 敵国の王子以外、と兄は軽く言った。次に会ったら敵だと言った人の顔が、浮かんで消えた。


「兄上」


「何だ」


 目の奥が熱い気がした。気のせいだ。私は泣かない。


「ひげを剃ってください。お似合いになりません」


「勝ったらな」


 兄は笑って、背負い袋から本を三冊出した。


「古本屋で見つけた。続きが出ていたぞ。あの海賊の話だ。お前、結末を知らずに死ぬのは嫌だと言っていただろう」


「八つのときの話です」


「読むか」


「読みます」


 帰りの荷車で、私は本を抱いていた。ベルタが無言で手綱《たづな》を取り、ピピンがポケットから顔を出した。


《お前の兄貴、悪くないな! おれ様に干し肉をくれたぞ!》


「よかったわね」


《でも咳してたな。こんこん言ってた》


「ええ。馬で走りすぎなのよ」


 グレーデン館は、古くて、隙間風がひどい。それでも入学以来初めて、私の部屋に毒見のすんだ肉が出た。


「殿下、本日の鴨でございます」


 盆を持って入ってきたのは、ウルリヒという若い文官だった。顔の半分に、兄の模様の青黒い紋がある。兄の紋の者は館に三十人ほどいて、書記も会計も給仕も兼ねている。ウルリヒは銀の盆を片手で水平に持ったまま、もう片方の手で扉を閉めた。


「器用ですね」


「ありがとうございます。わたくし、十年お仕えして、皿を一枚も落としたことがございません。エルネスト殿下もご存じです」


「それは自慢ですか」


「はい。ほかに自慢がございませんので」


 真面目な顔だった。兄が気に入るのがわかる。


 ネリネが小瓶を持って入ってきて、ウルリヒと入れ違いに頭を下げた。


「姫様、お薬の時間です」


 地下も、札も、校庭の血も、ここにはない。ネリネの声だけが、後宮の朝と同じだった。私は小瓶を受け取った。


「ネリネ。あなたに聞きたいことがあるの。咳に効く薬は、今あるかしら」


「お咳ですか」


 ネリネの手が、毛布の端を直した。


「姫様の胸に、お障りが」


「私ではなくて。兄上よ。今日、お会いしてきたの」


「エルネスト殿下は、北の砦とうかがっておりましたが」


「そういうことになっているのよ」


 小瓶を飲みほすと、ピピンがポケットの中で《くさい》と言った。


「川下の水車小屋で、粉だらけになって咳をしていたの。あの人は自分の体のことは、十年前から何も言わないでしょう。薬を持っていっても、荷物に入れるだけで飲まないのだから。私が行くまで、ベルタに持っていかせるわ。何か合うものを、調合してくれる?」


「かしこまりました」


 ネリネは小瓶を受け取って、ほほえんだ。


「三日分ほどで、ようございますか」


「三日で別の場所へ移るそうだから、そのくらいで。あなたには手間をかけるわね。後宮にいたころから、いつもそう」


「いいえ、姫様」


 優しい声だった。


「私の仕事でございます」


 廊下で足音がして、ベルタが戸口に立った。何も言わずに部屋を見回し、窓の閂《かんぬき》を確かめて、また廊下へ戻っていく。扉が閉まる前に、私はその背中に言った。


「ベルタ。水車小屋の話は、ネリネにもしたわ。薬のことがあるの」


 足音が止まった。


 広い背中は振り向かなかった。


「例外はございません、殿下」


「ネリネは別よ。十年、私の毒見をしてきた人よ」


 しばらく何の音もしなかった。


「はい、殿下」


 足音が遠ざかっていった。


 ベルタも心配性になった。


 私は枕に頭を預け、海賊の本の続きを開いた。春の夜だった。隙間風の中に、どこかの畑の土の匂いが混じっている。


《おい》


「なあに」


《ここ、いい匂いがするな》


「ええ」


《おれ様、ちょっとだけ、幸せだぞ》


 小さな毛玉が、ページの上に乗った。読めないので、どかした。また乗った。


 あと十日で、帝都の門が開く。兄はひげを剃る。私は本の結末を知る。


 十年で初めて、私は自分の残り半分の使い道を考えながら眠った。


 札は、懐にしまってある。


 割れ目の片方しかない札だ。もう触らないことにした。

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