閑話・カーヤ 「重くない」
言っておくけど、あたしは聞くつもりなんかなかった。
あの女が、逃げ道の紙を、夕方にあたしの矢筒へ押しこんできた。「今夜の鐘で鱗馬が放れます。その間に、裏の沢を。札なしの子たちを連れて」って、それだけ。字がきれいで腹が立った。
だから様子を見に来た。尋問棟の階段の一番上で、耳のいいあたしは、最初から最後まで全部聞いた。
お前の足のほうが軽いと決めた、とあの人が言うのを聞いた。
そうだ。あたしは、そういう人を「先輩」と呼んでいた。
森で切ったあたしの足を、自分の服を破って縛ったのも、あの人だ。母さんが医療局へ連れていかれた晩に、黙ってかまどの前に立って、肉を一番大きく切ったのもあの人だ。
全部、絵の腕でやった。
階段を駆け上がってきたあの人は、あたしを見て足を止めた。
「カーヤ」
「しゃべらないで」
「ああ」
「あたしはあんたを許さない。今度会ったら、矢であんたの右腕を射るわ。描いてあったところを」
「ああ。そうしろ」
通り過ぎるとき、あの人は牢番の棚から取り返してきた小刀を、床に置いていった。取り上げられていた鍋の布も一緒だった。
馬鹿じゃないの。
そのあと、下で車輪の音がして、ろうそくが階段の下まで来て、止まった。
「いつまで、そこにいるつもり」
あの女が、上を見た。顔が紙みたいに白かった。紅だけが、ちゃんと塗ってある。
「カーヤさん。沢へ行く時刻ではありませんか」
「あんたに言われなくてもわかってる。みんなはもう出たわよ。あたしは最後」
「それはよかったです」
「で、あんたはそこで朝まで座ってるわけ?」
「考えているところです」
「何を」
「段を一つずつ、後ろ向きに上がれないかと」
あたしは矢筒を置いて、階段を下りた。二十二段あった。下りながら、自分に腹が立っていた。
あの女は、医療局を一緒に歩いた女だ。腹の中に誰がいるのかも知らないくせに、あたしの隣で、真っ白な顔で札を読んでいた女だ。皇女だ。全部あいつらの国の持ち物だ。
ティモの椀に肉を入れたとき、優勝はティモさんです、と言った女でもある。
「腕を出して」
「はい」
「あんたをかつぐの。車は置いていく」
「それは困ります。車はあの人が」
「じゃあ車も持つわよ!」
右肩に女を担いで、左手で車椅子の枠をつかんだ。
驚いた。
軽かった。矢筒より少し重いくらいだった。こんな骨みたいな体で、校庭を二十歩歩いたのか。あの校庭で。何もないものを買いに。
一段ずつ上がった。肩の上で、胸の奥のぜいぜいいう音が聞こえた。
「すみません」
「黙って。息が苦しいんでしょ」
「はい」
「さっきの、聞いてたわよ」
「そうだと思いました」
「あんた、どうしてあいつを逃がしたの。殺せって言ったのに。あたしなら、鍵穴から矢を入れたわ」
「カーヤさんなら、そうするでしょうね」
「答えになってない」
「殺しても、半分は戻らないのです」
「知ってるわよ。母さんも戻らない」
肩の上の女は、しばらく黙っていた。
「トビアスさんは、まだ戻せます」
足が止まりそうになった。十七段目だった。
「帝都の本院の札は、まだ予約です。私は皇女です。兄が勝てば、私の名前で一枚くらいは止められます。兄が負ければ、何もできません。ですから、勝つつもりです」
「そんなの、頼んでないわよ」
「はい。頼まれていません」
あたしはまた上がり始めた。
頼んでない。皇女様の情けなんかいらない。トビアスはあたしが取り戻す。あたしが帝都まで行って、あの札を矢で射抜いて、担いで出てくる。
階段の上に出ると、外は大騒ぎだった。鱗馬が走り回って、遠くで誰かが尻、尻と叫んでいる。
あたしは車椅子を地面に置いて、女を座らせた。毛布がずり落ちていたから、直してやった。結ばなかった。結んでなんかやるもんか。
「重くなかった」
口から勝手に出た。
「ありがとうございます」
「ほめてないわよ。食べなさいって言ってるの」
「それは、よく言われます」
あたしは矢筒を背負った。
「ねえ、あんた。一つだけ言っとく」
「はい」
「あたしは今でも、あんたたちの国が大嫌い。あんたも嫌い。あの人も嫌い」
「はい」
「だから次に会うときは、あたしの都合で来るわよ。あんたの都合じゃなくて」
「はい。お待ちしていません」
こいつ。
あたしは走った。沢の暗がりの先で、札なしの子たちが震えて待っていた。ティモの椀は持ってきた。グンナル先輩のも。割れないように、布でくるんで。
森の向こうの空は暗くて、大きな翼はもう、どこにも見えなかった。
途中で気がついた。
床にあった小刀と、鍋の布も、いつのまにか腰に差していた。
捨てるのを忘れただけだ。
次の川で捨てる。
たぶん。




